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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

可愛さ余って憎さ百倍?

2024-03-18 11:38:48 | 奥義書講解・福音書
 イエスのエルサレム入城の時と、ピラトの官邸での裁判の時では、群衆の対応が正反対で、その変わり身の早さ、掌返しには驚かされます。私の読み込みが浅く、また、きちんとした解説も聞いたことがなかったため、群衆心理のいい加減さ、節操の無さのように理解していました。しかし、よく考えてみると、それは無理もない部分が有ったことが見えてきました。

 先ず、エルサレム入城の時の反応です。群衆はイエスを王と認めて、上着を道に敷いたり、道を平にするために枝を切ってきて敷いたりしました。また、メシアだと認めて、メシアを歓迎する詩編と考えられる詩編百十八編二十五節、二十六節の言葉を叫び続けました。ところが、ピラトの官邸での裁判の時になると、バラバを釈放し、イエスを十字架に着けよと叫びます。マタイ二十七章の記述によると、パリサイ人たちが群衆を説き伏せたということです。それまでは、群衆の反対を恐れてイエスを捕らえることができなかったのに、ここでは群衆を説得することができた背景を考える必要が有ります。

 群衆は、イエスの教えを聞き、メシアの印としての奇跡を目撃して、イエスがメシアであると信じていました。しかし、彼らの期待は、あくまで地上の王としてのメシアであり、イスラエルを再興し、ダビデ王朝を回復させる王としてのメシアでした。ですから、イエスがパリサイ人たちに捕らえられ、敵であるローマの総督の前で裁判を受けることになると、彼らの期待は裏切られたことになります。神が出現を約束しているメシアを自称したのに、逆にローマの権威の元に捕らわれているということは、偽メシアであり、群衆を騙したことになると理解されました。その意味では、神を冒涜した罪があると理解されたかもしれません。そんな状態の群衆を説得することは、パリサイ人たちにとっては容易いことであったと思われます。

 群衆の問題は、二つ有ったと思われます。
 先ず、彼らはゼカリヤ九章九節の預言に現れるメシア像をしっかり把握していませんでした。柔和でろばの子に乗って来ることの意味を考えていませんでした。ろばはありふれた家畜ではありましたが、律法では汚れた動物で、動物の犠牲としては捧げることができませんでした。そのような動物に乗るということは、謙遜の現れということになります。更に「柔和で」と訳された語の原義は、虐げられた、貧しい、遜ったというものです。虐げられる王とはどういうことかを考えたことがなかったと思われます。
 次に、彼らはイエスの教えをきちんと聞いていませんでした。山上の垂訓をはじめとし、イエスがこの世の王でないことを示す教えは多く有りました。また、メシアの印としての奇跡は、イエスにどのようなことが起きて信じられるべきものでした。イエスはご自身がパリサイ人たちに苦しめられることをも予告していました。その通りのことが起きたのですが、群衆は続けてイエスを信じることができませんでした。それは、あまりに伝統的理解や自分達の期待に固執していたからだと考えられます。
 
 私たち忍者も、自分の期待や思い込みに固執して、イエスを間違って理解しないように自戒する必要があると思います。





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ラクダが針の穴を通る方がやさしい

2023-08-11 18:51:25 | 奥義書講解・福音書
マタイ十九章二十四節に出て来る表現です。

直接的な意味は、不可能だ、ということです。そして、そのような不可能なことができるのは、神だけであると理解する場面です。

そのことは承知していたのですが、最近読んだ注解書には、そこから更に、自分が、イエス・キリストを通して救われるという稀有な奇跡を体験することができたということを喜ぶ読み方が勧められていました。自分が見落としていた視点であったと思ったので、ここにお分かちさせていただく次第です。






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呪われたいちじくの木の教訓

2023-05-24 13:02:24 | 奥義書講解・福音書
  イエスがいちじくの木を呪われた記事は、マタイとマルコが記録しています。空腹をおぼえたイエスが、とあるいちじくの木に近づいたのですが、実が生っていなかったために、「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」と言われると、自然では有り得ない短期間のうちに枯れてしまったというものです。
  ここで二つのことが問題になると思います。一つ目は、実が生っていなかったのは、その季節ではなかったからだというマルコの説明です(新改訳)。実がなるはずがない季節であったならば、イエスの行いは、理に適っておらず、神の御子の御性質に反するように思われます。二つ目は、このような奇跡に、どのような意味、意義が有るかということです

  では、一つ目の問題を調べてみます。この地方には、ベテパゲ(いちじくの家)という地名が有るぐらい、いちじくの木が多く生えている場所でした。所有者がいなければ、誰でも自由に実を取って食べることが許されていました。マタイとマルコに共通していることは、いちじくの木は単数形で表記されていることです。現在、イチジクは80程の品種が有るということです。当時はそこまでの品種改良は行われていなかったと思いますが、エルサレム近辺でも、おそらく10ぐらいの品種は有ったと思われます。一般には、イチジクは、夏なりの品種と秋なりの品種に大別されるそうです。イエスは過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに来ましたから、私たちの暦で4月初旬から半ばにかけての時期であったことが判ります。それでは当然いちじくの実は生っていないではないかと思われます。註解書を確認すると、このことについての説明には、二つの立場が有るようです。
  一つ目の解説は、いちじくの木が単数形であることに目を留めて、特別な品種だと考えるものです。稀に春なりのいちじくが有るというのです。その注解によると、その品種は、秋に小さな実を結び始め、そのまま越冬して、春になると実が膨らんで熟して来るもので、その後に新しい葉が茂り始めるということです。だから、葉が茂っているのを見て、実が有るかどうかを確かめに行ったということです。季節ではなかったという説明をしていないマタイの記述から考えると、この説が合うのではないかと思われます。
  二つ目の解説は、いちじくの品種にかかわらず、当時のいちじくの木の理解においては、季節を問わず、葉が茂っていれば、実がなっているはずだったというものです。私たちも園芸を楽しんだり、近所の植物や果樹園などを観察したりすると、狂い咲きという現象を見ることが有ります。通常花が咲くはずがない時期なのに、早く咲いてしまった、もしくは遅くまで咲いているということが有ります。あるいは、木の実がまだ熟れるはずがない時に、既に一部熟れているのを見たことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。ですから、葉が茂っているのを見て、イエスはそのいちじくの木に近づいて行ったのだと考えられます。
  どの解説の立場を支持するかは別にして、イエスの弟子たちは、そういう知識を共有していたはずです。同行していたマタイなどは、イエスが空腹であると言ったのを聞いたのではないかと思われます。もしかすると、弟子たちも、葉の茂っているいちじくの木を見て、「先生、丁度具合の良いいちじくの木を見つけられましたね。」などと言ったかもしれません。弟子たちは、いちじくの木が枯れたことに驚きはしましたが、イエスがいちじくの木に対して言ったことを驚いたり、理不尽に感じたりしてはいないところを見ると、その地方においては、葉が茂っているいちじくの木には実がなっていることが期待されるという共通理解が有ったと考えられます。

  次に、二つ目の問題を調べてみます。イエスは神の御子でしたから、そのおつもりが有れば、わざわざ近くまで行かなくても、その木に実がなっていないことは知ることができたはずです。すると、この奇跡は、三日後の十字架の死を目前に、同行する弟子たちに何かを教えようとして行われたものと考えられます。いちじくの木は、イスラエル民族の象徴として旧約聖書ではよく用いられています。イエスが見たいちじくの木の葉が茂っていたように、多くの人々が過ぎ越しの祭りを祝いに訪れていましたが、実際には彼らの心は神から離れていました。宗教的指導者たちでさえ、モーセの時と同様に、確実に神が遣わした預言者でありメシアであるしるしとしての奇跡を行ったイエスを受け入れませんでした。彼らは、神が望んでおられる霊的な実を実らせていませんでした。そんな状態のイスラエルの繁栄は、あっという間に滅ぼされてしまうのだということを示しています。この部分は、当時のイスラエルにたいする警告という部分が有ったことでしょう。

  更に、弟子たちが学ばなければならないことは何だったのでしょうか。イエスは、イスラエルの宗教指導者たちや、枯れたいちじくの木を反面教師として、イエスの弟子たちは、神が求める霊的な実を結ばなければならないのだということを教えようとされたと考えられます。マタイによる福音書では、この記事の前後に、エルサレム入りの日に祭司長たちがイエスに文句を言った記事と、神殿で教えるイエスに祭司長たちが誰の許可を得たかと詰問する記事が配置されています。祭司長達は、神の求める霊の実を結ばず、近いうちに枯れることになるいちじくの木のような存在でした。このような配置をすることによって、マタイは、中心に示した枯れたいちじくの木の教訓である、弟子たちは、神の求められる霊的な実を結ばなければならないという教えを強調しているように思えます。

  マタイは、弟子たちも同様なことができると言うイエスの言葉を記録しています。弟子たちの使命は、神の国の福音を伝えることでした。それを受け入れない人たちは、当然神の求める霊の実を結ぶことができないわけですから、最終的には、最後の審判の時には滅びることになります。ですから、弟子たちが直接滅びを宣言しなくても、同様の効果、結果が有るという意味で理解することができます。
  マタイとマルコの両方が、付随して信仰が有れば山を海に移すことができるというイエスの言葉を記録しています。ユダヤの表現では、山というのは困難の象徴です。それを移すというのは、困難が解決するということです。弟子たちが直面するであろう困難は、イエスの昇天とペンテコステを経て、大胆に伝道を始めると、迫害に遭うということです。そのような山を経験しても、神の国の宣教のために、神が助けてくださると信じて、解決を祈り求める時には、神が答えをくださるという流れで理解するべき内容であると考えられます。祈り求めたものが何でもかなえられるというのは、そういう文脈、意味合いであって、個人的な願いごとが何でもかなえられるという意味ではありません。

  今日、信仰を持って歩む私たち忍者は、枯れたいちじくの木のエピソードを思い出す時、外見ばかり立派な忍者の生活ではなく、神がご覧になった時に、霊的な実を結んでいるかどうかという視点から、自分を省みる機会とするのが良いでしょう。また、証人としての人生を、忍耐と信仰と祈りを持って歩むことを再確認することになると思います。





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蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい (マタイによる福音書 十章十六節)

2022-03-19 12:23:03 | 奥義書講解・福音書
 イエスが十二弟子を遣わされる前の訓話に出てくる表現です。実際にその意味するところは曖昧だと思われます。どういう理解が可能なのかを掘り下げてみたいと思います。

 先ず、この訓話は何に結び付けられているかを確認します。この箇所で、イエスは、弟子たちが迫害されて命を落とすことも視野に入れた表現で教えています。そのような厳しい状況において、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおであることの、具体的な内容は何だろうかということを知らなければ、何となく文学的で雰囲気の良い表現を聞いただけになってしまいます。
 蛇のイメージは、エデンでアダムとエバを騙したサタンに結び付きやすいものです。そこから、さとい、賢いというイメージも出て来ます。しかし、迫害に合った時に、どうすることが蛇のようにさといことなのかは、直接的には示されておらず、判り辛いのではないでしょうか。
 鳩のイメージは、ノアの箱舟から放たれて、陸地が乾いたことを示す情報をもたらした鳩に結びつきやすいかもしれません。一般的には、鳩は平和の象徴として用いられやすいものです。しかし、殉教を覚悟するような場面において、イエスの弟子たちが持っているべき鳩のようなすなおさとは何かと考えると、これも直截的には示されておらす、判り辛いのではないでしょうか。私がお世話になった里のご婦人は、鳩は実際には自分より小さい鳥を攻撃したり追い払ったりしていて、少しも平和的な存在ではないと言っておられました。

 ここで必要になってくるのが、聖書全体の記述から考えて行くという姿勢です。文化的なシンボルの理解や、言語の理解、聖書の背景からの理解を組み合わせていく必要が有ります。聖書神学の手法と私が読んでいる学び方です。

 先ず、「さとい」と訳された語から確認します。知性が有る、賢いという意味の語です。その用例を見ますと、マタイ伝のイエスの例話の中に六回程用いられています。岩の上に家を建てるかしこいひと、主人に委ねられた責務を果たしながら帰りを待つかしこいしもべ、明かりのための油を用意していたかしこい乙女たちなどの例話で用いられています。これらの例話の理解から、このかしこさは、イエスと親しい関係を築き、その再臨の準備ができていることに関連付けられると考えられます。
 では、この性質と蛇はどのように結びつくのでしょうか。聖書における蛇の象徴をもう少し考えてみる必要が有ります。民数記二十一章に蛇の記事が出て来ます。民が神とモーセに言い逆らい、神の恵みのマナを「みじめな食物」とけなしています。神の裁きと罰として、燃える蛇とされるものが送られてきました。噛まれると激しい痛みを伴う毒蛇であったと考えられます。しかし、神は悔い改める人々に、木にかけられた青銅で作られた蛇を仰ぎ見るように指示されました。そうした人たちは生きたと記録されています。ここから読み取れる蛇の意味は、神の裁き・罰と救いということです。

 次に、「すなお」と訳された語を確認します。純金などにも用いられる、純粋だという意味が有ります。ピリピ人への手紙では、信仰にあって純真な者という意味合いで用いられています。
 その性質と鳩は、どのように結びつくのでしょうか。新約聖書における鳩の用例は、八回程あり、その大半は、イエスの受洗の時に下られた聖霊の記述に用いられています。旧約においては、同等の語義のものは、三十一回程出て来ますが、その三分の一は、贖罪の犠牲の鳩の記述です。このことは、受洗した後のイエスを、バプテスマのヨハネが、「見よ世の罪を取り去る神の小羊。」と紹介していることにも重なってくるように思われます。

 これらのことから、弟子たちが暴行や殉教を伴うかもしれない迫害が予想される伝道旅行に送り出される前の訓話として、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」がどのような意味を持ち得るかを、次のように示すことができると思います。

 殉教をも覚悟しなければならない宣教旅行に出かける弟子たちは、主イエスを知る知識をしっかり持ち、その主がなされる裁きと救いの計画をしっかり理解して受け入れていなければならない。また、福音宣教をするにあたっては、人類の罪の贖いのために来られたメシア、イエス・キリストに関する純粋な知識と信仰に留まっていなければならない

 これらのこと無しには、弟子たちは宣教の意義を失い、耐えきれずに落伍してしまうかもしれません。ですから、伝えようとしている内容をきちんと把握し、しっかり信仰を持ってでかけるのですよ、という訓話をしたことになるのではないでしょうか。






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意義が異なる五千人の給食と四千人の給食

2022-02-04 00:16:42 | 奥義書講解・福音書
講解と言うほどの内容ではないかもしれませんが、このカテゴリーでお願いいたします。

五千人の給食は四つの福音書が記録していますが、四千人の給食はマタイとマルコだけが記録しています。どちらも似たような内容に思えますが、その意義は異なります。

五千人の給食
この奇跡は、イスラエル人の領地内でなされました。季節は春であったと思われます。その意義は、イエスがモーセと同様に食物を民に与えることのできる、神の預言者であり、約束のメシアであることを示すことでした。食物を増やす奇跡は、預言者エリヤとエリシャも行っており、たとえモーセ程ではないと判断されたとしても、ユダヤ人にとっては、イエスが同様に神の預言者であることの十分な証明となり得ることでした。列王記上十七章では、エリヤの預言により、飢饉の間もやもめの僅かな蓄えであったはずのかめの粉とつぼの油が、使っても使っても無くならなかった記事が有ります。列王記下四章では、エリシャを通して、預言者のともがらの未亡人の持っていた油が、借金を返済することができるぐらい増える奇跡と、二十個のパンで百人もの人に食べさせて、余りが出たという奇跡が記録されています。更に、この時、五千人の人々は、青草の上に座らせられたということで、詩編二十三編の「緑の牧場に伏させ」というイメージと重なり、イエスが王であり神であることを示しています。

五千人の給食の意義は、イエスこそ約束のメシアであるということを、ユダヤ人にはっきり示すことに有りました。
但し、メシアを単に地上でイスラエルの国を治める王というイメージで捉えた人たちは、直ぐにでもイエスを王にしようと考えたため、イエスは山に退いています。

四千人の給食の奇跡
この奇跡は、デカポリス地方でなされました。異邦人の地域です。直前の癒しの奇跡の時に、人々が「イスラエルの神」をほめたたえたという表現からも、人々が異邦人であることがわかります。季節は少し進み、夏であったと考えられます。その意義は、ユダヤ人に与えられる神の命のパンの恵みは、異邦人にも与えらえるのだということを示すことでした。デカポリスの人たちは、旧約聖書にそれほど通じてはいなかったことでしょうから、単にすごい奇跡が起きたと思っただけだったかもしれません。一方、マタイによる福音書は、ユダヤ人に向けて書かれていますので、最初のユダヤ人の読者は、ここで、神の恵みは異邦人にまで及ぶのだということを読み取って、驚いたはずです。規模が少し小さいことや、余ったパン切れの量が少なかったなどの違いは有りますが、神の恵みが同様に異邦人に与えられることを示すには十分でした。

四千人の給食の意義は、イエスは、異邦人にとっても王、メシアとなられる方であることを、ユダヤ人に示すことに有りました。
神の恵みが異邦人に及ぶようになることは、旧約聖書中には何度か示されていたことです。そのことが間もなく成就することが示されたことになります。そして、その成就は、イエスの大宣教命令や、使徒行伝の記事の中に見出されます。





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イエスは彼らをベタニヤまで連れて行き(ルカ伝二十四章五十節)

2021-07-31 14:58:09 | 奥義書講解・福音書
それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。

 ルカはイエスの昇天の記述の直前にこのように記しています。ルカの記述に従えば、イエスはベタニヤから昇天されたと考えられます。このような大事な出来事のために、どうしてイエスはベタニヤを選ばれたのでしょうか。ベタニヤが、復活を象徴する大事な町であったからだと考えられます。

 ベタニヤでは、復活に関わる出来事が二回記録さいれています。一つ目は、ラザロの復活です。イエスは、神の栄光が表されるために、知らせが届いても、病に倒れたラザロが完全に死ぬまでベタニヤを訪れませんでした。死んで四日になるまで待たれたのは、ユダヤ人の理解では、死後四日経てば、生き返る望みは無いと考えたからです。ベタニヤに着くと、イエスは姉のマルタと言葉を交わし、イエスを信じる者は死んでも生きるのだと言われました。その完全に死んだとされるラザロを、よみがえりの主であるイエスは、ご自身の権威をもって「ラザロよ出て来なさい。」という一言で生き返らせたのです。それは、復活の信仰を弟子たちに強く持たせるためでもあったと考えられます。
 二つ目は、ベタニヤのマリアがイエスの頭に香油を塗ったことです。マルコ伝十四章九節には、「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」というイエスの言葉が記されています。マリヤのしたことに、ここまでの大きな意味・意義が有ったのは、それが、復活の信仰に関わっていたからです。埋葬の用意としての香油であったという理解が示されていますが、同時に、そこに復活の信仰が無ければ、そこまでの言葉をイエスからいただくことはできませんでした。ベタニヤはエルサレムに近い場所でしたが、ベタニヤのマリヤはイエスの墓に香油を塗りに行くことはしませんでした。

 そういうわけで、昇天される時も、復活信仰をはっきり心に留めるようにという意味合いも込めて、ベタニヤを選ばれたのではないかと私は思います。





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サマリアの女はふしだらだった?(ヨハネ四章十八節)

2021-04-10 11:47:38 | 奥義書講解・福音書
  まとまった段落を扱ったものではなく、特定の人物のキャラクター・スタディにあたりますが、このカテゴリーでお願いします。  

  該当の箇所で、サマリアの女には過去に五人の夫を持ったことが有り、且つ、現在同居している男性は夫ではないというイエスの指摘が出てきます。このことをもって、サマリアの女をふしだらで身持ちが悪いような印象で語る人がいますが、果たしてそういう理解で良いのでしょうか。

  当時の風習では、女性の方から離婚を申し出ることはほとんどできませんでした。何かが気に入らないと理由をつければ、夫の方から簡単に離婚を言い渡すことができた時代です。十四歳ぐらいから結婚適齢期と考えられていましたから、私たちが結婚適齢期と考える二十四歳までに限定しても、複数回の離婚歴が有ってもおかしくなかったのです。それでも、五人の男性が妻にしたのですから、それなりに聡明だったり魅力の有る人物だったのかもしれません。
  そうは言っても、後段の、現在同居している男性は夫ではないという指摘を考えると、あまり素性の良くない人物だったのではないかという考えも出てきます。学者たちが指摘しているのは、ユダヤ人の指導者たちは紀元千年まで重婚を認めていたという事実です。その状況では、第二婦人以降(第四婦人まで認められていました。)は妻と呼ばれず、女性の方からも同居する男性を夫と呼ぶのは難しい場合が有ったというのです。

  これらのことを考え合わせると、サマリアの女がふしだらで身持ちの悪い人物と断定することはできないように思われます。また、人々が彼女のイエスについての証言を聞いた時、人々が彼女についてイエスに会いに来たことを考えると、彼女が人々に蔑まれるような人物ではなかったのではないかという推測もできるのではないでしょうか。彼女がふしだらであった可能性は皆無とは言えないかもしれませんが、ふしだらであったと決めつけるのは難しい状況だと考えられます。

  サマリアの女がふしだらであったという説明を、無批判にそのまま受け止めるのではなく、当時の背景に照らしてどうであったかを考えてみる慎重な姿勢が私たち忍者には求められていると思います。





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昔から聞いたこともない (ヨハネによる福音書九章三十二節)

2018-11-02 11:29:22 | 奥義書講解・福音書
 特にまとまった講解ということではないのですが、この箇所を理解する背景として明確にしておくと良いことだと思いましたので、このカテゴリーでお願いしたいと思います。

 ヨハネによる福音書九章は、生まれつき盲目だった人についての話が記録されています。この人がそういう状態で生まれたのは、神の栄光を現すためであるとイエス・キリストは明言されました。そして、この人の目がイエス・キリストの神としての権威によって癒され、正に神の栄光を現すためにこの人は用いられたということになります。

 イエスがこの人を癒したのが安息日であるということで、敵対するパリサイ人たちはイエスに難癖をつけるばかりでなく、この人の両親を尋問したり、この人を再三尋問したりということをしました。それだけ、この状況は強烈な部分が有ったと言えます。それは、メシア預言とみなされているイザヤ書三十五章の記述に合うものでした。

 五節 その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。(口語訳1955)

 しかし、パリサイ人たちにとっては、イエスは敵でしたし、メシアであっては困るわけで、詳細に状況を把握して彼を否定しようとしていたわけです。そこで、もう一度生まれつき盲目であった人を問い詰めるとところ、このような言葉を聞くことになりました。

 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。(新改訳 二版)

 ここで、注目していただきたいのは、「昔から聞いたこともありません」ということです。旧約聖書には、死んだ者が生き返ったというような奇跡の記録は有るのですが、なんと、盲目の人に視力が与えられたという奇跡の記録は無いのです。イエスはその公生涯で何人かの盲目の人の目を開いた記録が有りますが、それはそれまでに無かった大変稀な奇跡であったということになります。正に、神の栄光が現れるためにこの奇跡は行われたのであり、強力なイエスがメシアであることの証であったのです。
 イエスが盲目の人の目を開いた奇跡は、私たち忍者には馴染みの有る話ですが、他の奇跡とは異なった強い意味を持つことをもう一度意識することに意味が有ると思います。





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五千人の給食の旧約的イメージ

2018-07-23 18:29:36 | 奥義書講解・福音書
 五千人の給食の奇跡の物語は、四福音書全てに収録されている数少ない出来事のうちの一つです。実は、この物語は、ユダヤ的背景を持った読者には、明らかな王、もしくはメシアのイメージが重なっています。特にそれをはっきり示したのが、ヨハネによる福音書ではないかと思います。(ヨハネによる福音書六章一節~十三節)
 
 そのことを示すのは、先ず十節です。
 
 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい(横にならせなさい)。」その場所には草が多かった

 続いて、十一節もそのことを示しています。

 彼らにほしいだけ分け与えられた。
こと
 これらのことが想起させるのは何でしょうか。詩編二十三編です。十節は、「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」という詩編二十三編二節の内容を想起させます。五千人の給食の時、イエスは彼らを草の上に横にならせたのです。山の上ではありますが、それはガリラヤ湖に近い所でありました。十一節の内容は詩編二十三編五節の内容を想起させます。「あなたは私のために食事をととのえ」「私の杯はあふれています。」イエスは五千人のために食事をととのえ、杯ではありませんが、人々が欲しいだけ食物を与えました。十二節でも「十分に食べた」ということが記されていますし、十三節では余ったもので十二のかごがいっぱいになったが記されています。

 この五千人の給食を通して、イエスは、ご自身が詩編二十三編に表されている神、主と同じ存在であるということを証されたことになるわけです。




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冬や安息日にならぬように

2017-08-01 22:17:56 | 奥義書講解・福音書
福音書のちょっとした語句の背景の理解を記しておきたいと思っただけなのですが、一応このカテゴリーでお願いしたいと思います。

イエス・キリストがエルサレム滅亡を預言した中に出て来る祈りの指示のことです。私が思っていたことが、資料の内容と異なっており、背景の理解が不足していたことに気が付きましたので書いておきます。不勉強であったことの告白でありますので、ご存知の方にはどうってことの無い内容です。

先ず、冬にならぬようにということです。つい日本の季節感覚で考えてしまったのですが、少々事情が異なるようです。勿論寒さが逃避行の妨げになることでしょう。しかし、それ以上に問題なのは、エルサレムの周囲では冬に川が増水して渡ることが困難になるということだったそうです。実際に、冬に脱出を試みた一団が、川に阻まれて全員ローマ軍に殺されたという記録が有るそうです。

次に、安息日にならぬようにということです。自分の考えでは、皆が礼拝に集まるような日に城壁が崩されてローマ軍が攻め入れば、一網打尽にされてしまうから、そうならぬようにということだと思っていました。しかし、それよりも、安息日規定の要素の方が大きかったということでした。ご存知だと思いますが、律法では安息日に働くことが禁じられていましたが、それに従って民の伝統では移動する距離も定められていました。まさか緊急の時にそんなことを守るだろうかと思ったのですが、強い拘束力が有ったようです。しかも、家畜に乗ることも禁じられていました。そうしますと、もう逃げようが有りませんので、安息日にならぬように祈れということだったわけです。





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