糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

ご理解いただけなかった絆

2022-02-18 18:51:36 | Weblog
  且つて、私がお仕えする単里に、養護老人ホームから週日も含めて頻繁に来られるご婦人がいらっしゃいました。日曜日には二回の礼拝の両方に出席することも多く、帰りに私が自動車で施設までお送りすることが度々ありました。そのうち、だんだん足が弱ったりしてくるのがわかりました。里に来られるようになって10年目ぐらいになったころ、体力の低下が目立ってきて、私も何度か施設にお見舞いに行きました。お年のせいもあって、なかなか良くならず、違う施設に移りました。そこにも二度程お見舞いに行きましたが、呼吸が荒く、話が殆どできないようになっていました。妹さんがいろいろな調整や決定をしておられました。もう回復の望みは無く、臨終が近い時には、電話口で泣いておられました。

  告別式は、妹さんの関係する里の大忍が司式をされ、私には奥義書朗読を一つ割り当ててくだいました。思い出の時間に写されたスライドが素晴らしいと思いましたので、ご婦人に優しく接してくださった里の皆様にも見せてもらえたらと思って、妹さんに依頼のeメールをしました。ところが、直接私には回答をくださらず、執事の一人に電話でお断りの連絡をしてこられました。執事が言うには、「家族の思い出の写真なので」と、何と言えば良いのわからないような複雑な様子で言っておられたとのことでした。私たちの里も、家族のような絆が有ったのにと思って、悲しい気持ちになりました。仕方ないことだと理解できますが、10年近い歳月を、毎週何日も里で会う関係であった私たちの絆を理解していただけず、そういう形で否定されたような形になったことを時々思い出しては残念に思う時が有ります。





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意義が異なる五千人の給食と四千人の給食

2022-02-04 00:16:42 | 奥義書講解・福音書
講解と言うほどの内容ではないかもしれませんが、このカテゴリーでお願いいたします。

五千人の給食は四つの福音書が記録していますが、四千人の給食はマタイとマルコだけが記録しています。どちらも似たような内容に思えますが、その意義は異なります。

五千人の給食
この奇跡は、イスラエル人の領地内でなされました。季節は春であったと思われます。その意義は、イエスがモーセと同様に食物を民に与えることのできる、神の預言者であり、約束のメシアであることを示すことでした。食物を増やす奇跡は、預言者エリヤとエリシャも行っており、たとえモーセ程ではないと判断されたとしても、ユダヤ人にとっては、イエスが同様に神の預言者であることの十分な証明となり得ることでした。列王記上十七章では、エリヤの預言により、飢饉の間もやもめの僅かな蓄えであったはずのかめの粉とつぼの油が、使っても使っても無くならなかった記事が有ります。列王記下四章では、エリシャを通して、預言者のともがらの未亡人の持っていた油が、借金を返済することができるぐらい増える奇跡と、二十個のパンで百人もの人に食べさせて、余りが出たという奇跡が記録されています。更に、この時、五千人の人々は、青草の上に座らせられたということで、詩編二十三編の「緑の牧場に伏させ」というイメージと重なり、イエスが王であり神であることを示しています。

五千人の給食の意義は、イエスこそ約束のメシアであるということを、ユダヤ人にはっきり示すことに有りました。
但し、メシアを単に地上でイスラエルの国を治める王というイメージで捉えた人たちは、直ぐにでもイエスを王にしようと考えたため、イエスは山に退いています。

四千人の給食の奇跡
この奇跡は、デカポリス地方でなされました。異邦人の地域です。直前の癒しの奇跡の時に、人々が「イスラエルの神」をほめたたえたという表現からも、人々が異邦人であることがわかります。季節は少し進み、夏であったと考えられます。その意義は、ユダヤ人に与えられる神の命のパンの恵みは、異邦人にも与えらえるのだということを示すことでした。デカポリスの人たちは、旧約聖書にそれほど通じてはいなかったことでしょうから、単にすごい奇跡が起きたと思っただけだったかもしれません。一方、マタイによる福音書は、ユダヤ人に向けて書かれていますので、最初のユダヤ人の読者は、ここで、神の恵みは異邦人にまで及ぶのだということを読み取って、驚いたはずです。規模が少し小さいことや、余ったパン切れの量が少なかったなどの違いは有りますが、神の恵みが同様に異邦人に与えられることを示すには十分でした。

四千人の給食の意義は、イエスは、異邦人にとっても王、メシアとなられる方であることを、ユダヤ人に示すことに有りました。
神の恵みが異邦人に及ぶようになることは、旧約聖書中には何度か示されていたことです。そのことが間もなく成就することが示されたことになります。そして、その成就は、イエスの大宣教命令や、使徒行伝の記事の中に見出されます。





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