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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

なすべき正しいこととは?(ヤコブ四章十七節)

2024-06-12 18:23:09 | 奥義書講解・書簡
 この聖書箇所は、一般論的に引用されることがあります。しかし、そのような捉え方をすると、ヤコブの意図が薄くなってしまいます。文脈からこれを考える必要が有ります。
  
 ヤコブは直前まで神を考慮に入れず、自分の才覚と富にばかり目を留めている誇り高ぶったクリスチャンを戒めていたのです。その締めくくりに「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」という表現が来るのは、少々話が合わないと思われないでしょうか。
 ヤコブのユダ人クリスチャンに対する戒めの言葉は、二章からずっと続いてきました。するべきこと、してはならないことが述べられてきたのです。それをここで一段落つけるためにこのような締めくくり方をしたと考えるのが自然です。すると「なすべき正しいこと」は、ヤコブがそこまで書き連ねてきた戒めの内容に従うことであるということがわかります。
 今後、この聖書箇所の引用に出会った時には、依怙贔屓をしてはならない、憐みを示しなさい、虚栄心から教師になろうとしてはならない、兄弟姉妹を悪く言う、呪うような言葉を語ってはならない、敵対心を持ってはならない、言行一致が必要である、世を愛さず神に近づ生きなさい等の戒めに従い、実践しなさいということが第一義であると思い出していただければと思います。






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聖霊を消す

2022-12-12 22:49:19 | 奥義書講解・書簡
1 テサロニケ 5:19 には、「御霊を消してはなりません」という表現が出て来ます。御霊は聖霊で、それを火になぞらえて、消してはいけませんと戒めています。

聖霊を消すというのは、具体的にはどのような行為なのかということは、いろいろな考察が可能です。しかし、この聖書箇所の文脈から考える時、それが直接的に示しているいるのは、直前の16節ー18節の戒めに関係が有ると考えられると思います。

「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられることです。」という内容になっています。

喜びは、御霊の実の一つです。祈りは聖霊の導きによってするものです。詩編を見れば、感謝することが勧められており、詩編の記者はそれを聖霊の導きによって書留ました。
すると、これらの戒めに従わないことが、すなわち、聖霊を消すことになるのではないでしょうか。

更に広げて考えれば、12節から22節に出て来る戒めに気を配らない、無視する、従わないということが、聖霊を消す行為になると考えられます。それらは、13節に有る、平和を保ちなさいという戒めに関係しています。私たちの神と主イエスは、平和の神、平和の君と呼ばれる方です。その御心に従って行こうとしない態度は、聖霊を消すことになります。






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主の日を早めるとは?(2ペテロ三章十二節)

2020-11-18 10:31:44 | 奥義書講解・書簡
踏み込んだ聖書講解ではありませんが、このカテゴリーでお願いします。

 「主の日を早めなければなりません」という表現が出てきます。そこで、どうすれば主の日を早めることができるのかという疑問がわくのではないかと思います。十一節の表現を見ると、聖く、敬虔な生き方をすることがその方法であるようにも思えます。
 しかし、イエスは使徒行伝一章で、神の国が実現する日、すなわち主の日は、「父がご自身の権威をもってお定めになっています。(英語では完了形が使われます)」と仰ったのです。父なる神がお定めになったというなら、人間の努力で早くすることができる性質のことではありません。そうすると、主の日を早めるということの意味を、別の面に見出ださなければならないことになります。
 ヒントになるのは、同じ十二節にある、「待ち望み」という表現であると考えられます。主の日は最後の審判を伴います。それは、ある人たちには恐ろしい印象になるかもしれません。しかし、私たち忍者にとっては、それは「楽しみ」なことです。英語の聖書では、looking forward to を用いて訳しているものも有ります。楽しみにしている日が有れば、早くその日が来ないかと思うものです。子供の時は、あと何日寝ると夏休みになるかとか、遠足の日になるかなどと、期待し、楽しみにしながら過ごしたことが有るのではないでしょうか。奥義書の中では、創世記二十九章二十節で、「ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日にように思われた。(新改訳)」と記されています。ヤコブがラケルと結婚する条件が、伯父のラバンの元で七年使えることだったいうのです。それがほんの数日のように思えたというのですから、ヤコブがいかにラケルを思い、その日を楽しみにしていたかがうかがえます。主の日を早めるということも、そういう意味合いであると理解するのが適切であることが、「待ち望み・楽しみにし」という表現が直前に有ることからもわかります。
 私たちは、そのような意識をもって、主の日を楽しみにしているでしょうか。そういう忍者としての理解、意識、姿勢が問われる部分だと考えられます。






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旧約聖書も新約聖書もあなたのため (第一ペテロ書一章十節~十二節)

2018-04-12 21:54:53 | 奥義書講解・書簡
新改訳聖書では以下のように示されています。

1:10この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。
1:11彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
1:12彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。(一部略)


 二種類の人が登場します。先ず、十節に出てくる預言者たちです。次に福音を語った人々と表されている人々、すなわち使徒たちです。両者に共通しているのは、聖霊の働きによってキリストの福音(キリストの苦難とそれに続く栄光)を伝えているということです。
 預言者たちは旧約聖書にその啓示を書き残しました。詩編二十二編やイザヤ書五十三章などがキリスト預言の記述としては広く知られていると思います。その神の摂理の内に有る目的は、あなたがたのための奉仕であるのだというのです。直接的には小アジアにいた忍者たちですが、今日奥義書を読む私たち現代の忍者にも当てはまることです。ですから、私たちはキリストを証する啓示として今日でも旧約聖書を読むことが必要になるのです。
 使徒たちは、イエス・キリストの言葉を忠実に伝えることがその任務でした。ペンテコステの日に約束の聖霊の力をいただいて、彼らもキリストの福音を伝えました。そして、彼らによってマタイ伝、ヨハネ伝の福音書、及びパウロ書簡、ペテロ書簡、ヨハネ書簡が残されました。これらもイエス・キリストを証するものです。
 そういうわけで、私たち忍者は今日でも聖霊が証するイエス・キリストを訪ね求めて旧約聖書も新約聖書の自分への言葉として読み続けるのです。





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知っていただきなさい

2012-04-16 22:03:12 | 奥義書講解・書簡
親友と賛美のプロジェクトを始めたので、選曲をすることになったのですが、候補の中 には私が作曲したピリピ4章6,7節のスクリプチャー・ソングも有りました。
その曲は選ばれなかったのですが、この聖句をしばらく思い巡らしていました。

なにも思い煩わないであらゆる場合に
感謝をもってささげる祈りと願いによって
あなたがたの願いごとを神に知っていただきなさい

そうすれば人のすべての考えにまさる
神の平安があなたがたの心と思いを
キリスト・イエスにあって守ってくれます。


「知る」という動詞について考えました。神は全知全能なのですから、知っていただくということがどういう風に必要なのかと思いました。

そこから、普通に「知る」という意味のギリシャ語の動詞は、「経験を通して知る」というニュアンスが有ることを思い出しました。古いギリシャ語においても、徹底的に知るという意味が有ったということでした。日本人が考える「知る」というのとはちょっと様子が違うようです。

ここで言う神様に「知っていただく」というのは、単純に知識としてその様子がわかっているということではなく、徹底的に経験的に知っていただくということのようだと考えました。すると、そこには動的な私達と神様との間の交流が無ければなりません。そういう交流、であるならば、ちょっと祈ったというようなことではなく、繰り返し祈らなければならにのではないでしょうか。もしかしたら、ヤボクの渡しでヤコブが神の御使いと格闘したような祈りまで視野に入っている祈りなのかもしれません。ヤコブはその後、まだ恐れを持ちながらも、引き返すことなくエサウに会いに行く力を得ました。ピリピ書においては、人の考えにまさる神の平安が守ってくださるというのです。そこにいたるまでには、徹底的に知っていただくための、繰り返し、また強くぶつかっていくような祈りと願いが必要であるということだと思います。また、神様もそのような私達との交わりを望んでおられるということでありましょう。そして、私達がそのような交わりを神様と持つならば、守られるのです。

幾つかの聖書注解を見ると、ピリピはローマ兵の駐屯地で、軍事的な守りの堅い都市であったということが書かれています。そこに住む市民達には、そういう守りの堅い都市であるということによる安心と誇りが有ったということです。ですから、このパウロの表現が、ピリピのクリスチャンにも実感を持って受け止められただろうということでした。

私、十八にもそのようにしてでも主に知っていただきたい状況が有ります。単純に知らせるというような祈りではなく、体験的に徹底的に主に知っていただくような祈りの姿勢を持っていきたいと思いました。







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弱い者とは? 其の三の補足

2011-05-15 00:13:31 | 奥義書講解・書簡
弱い者とは? 其の三に関する背景、問題、在るべき姿などを追加します。


偶像に供えた肉を食べることを巡る文化的背景
 1)コリントなどの異邦人の都市においては、肉は二種類の経路で食卓に上りました。一つは一般的な肉屋を通して得られます。二つ目は、神殿で偶像に供えた動物の一部が、偶像の信仰者や祭司の取り分として持ち帰られ、それぞれの家庭で用いられたり、更に市場に流されたりしました。神殿で売られる肉は、一般の肉屋よりも安価であったと考えられています。
 2)ユダヤ教においても、そいう肉を巡る二つの勢力の対立が有ったそうです。一つは旧約の律法だけを基準にして厳しく取り組み、そのような肉は食べてはいけないという立場でした。もう一方は、伝統主義とでもいいましょうか、ラビや長老達の解釈を守って取り組むというもので、彼らは、偶像の刻印などが付いていなければ自由に用いて良いという立場でした。
 3)実際のコリント教会における対立が、ユダヤ教の二つの理解の違いに影響を受けたものなのか、異邦人とユダヤ人の対立によるかなどは、はっきり示すことが難しいようです。関連する箇所で、パウロは「ユダヤ人にもギリシャ人にも神の教会にもつまずきになってはいけない」ということを述べていますが、それを根拠にして異邦人とユダヤ人の対立と結論付けるのも難しい状況であるようです。注解もいろいろな可能性を示唆しています。


対立する二つの立場と問題
 1)強い者:聖書的な理論とその知識によって、偶像に供えた肉を食べることに問題が無いとする者
 彼らは、自分の知識と自由の行使にあたって、優越感や思い上がった誇りを持っていました。それで、そういう知識の無い者たちに対する配慮が無く、キリストの与えた新しい教えである「互いに愛し合いなさい」という原則に従って行動しておらず、その結果、神の体である教会を建て上げず、かえって傷つけるという罪を犯していました。
 2)弱い者:聖書的な理論とその知識が乏しく、偶像に供えた肉を食べることに問題を感じ、強い者を裁くか、良心の咎めを感じながら強い者の真似をしてしまう者
 彼らは、正しい知識、確信によらずに判断、行動したことに問題がありました。よく理解できていないのに、他のクリスチャンに負けてはいけないというようなプライドから出た行動をしたりしていた場合も、神への信頼と信仰による行動ではなく、自分の肉的な思いを満足させるために行動するという罪を犯したことになります。
  カルト被害者たちに、元カルト信者が警告していました。自分を被害者だとだけ思ってはならず、自分を正しい側に置こうとした罪の態度を反省しなければならないのだと。


パウロによる回答、その実践や意味
 強い者こそ責任が重いのです。原則は正しい知識を誇ることではなく、愛によって行動することでした。先ずそのことが指摘されています。 
 勿論、強い者はその信仰によって肉を食べる自由が有ります。しかし、同時に、弱い者たちをつまずかせたり、罪を犯させたりする自由は無いということを意識しなければなりません。だからこそ、強い者の方が、その当然の自由や権利を制限することが求められています。九章は、別な話題に移ったような印象を受けますが、パウロは、その章全体を割いて、当然の自由や権利を進んで放棄する自分の実践例を思い起こさせています。
 最終的な実践上の具体的な指示は、十章二十三節から十一章一節に示されています。先ずは、正しい知識に従って、気にしないでどんな肉でも食べるように述べています。しかし、弱い者が関わっている状況においては、その人たちへの愛の配慮から、食べてはいけません。


十章十四節から二十二節の理解
 そこだけを読むと、偶像礼拝に通じるから偶像に供えた肉は食べるなという指示のようにも思えます。しかし、八章で示された原則や十章二十三節以下の指示、結論の方は、偶像に供えた肉を食べないようにという指示にはなっていません。この箇所と前後の指示に関する違いは何でしょうか。
 偶像礼拝を避けなさいという指示は、実際に偶像礼拝をしてはおらず、そういう意識の無いコリントの教会の信徒たちにとってはどういう意味を持つのかを考えます。偶像礼拝は、偶像が安置されている場所でなされます。ですから、これは、これからは異教の神殿で食事をすることは止めなさいという指示と捉えることができます。そのことは、続く具体的な指示の中で、神殿で食事をすることに関する指示が出て来ないことからも理解でいると思います。他人からみれば、それも偶像礼拝に見えたりします。弱い者に誤解されるような行動は止めなさいという部分も含まれているように思われます。


強い者、弱い者の分類と、在るべき姿
 細かく考えますと、強い者、弱い者もそれぞれ二種類ぐらいに分けられるように思います。
 強い者1 信仰的知識が有り、理由付けがしっかりできて、偶像に供えた肉を食べる権利と自由を理解しているが、愛によって弱い者への配慮、権利と自由の制限を甘受できる人。
 強い者2 信仰的知識が有り、理由付けがしっかりできて、偶像に供えた肉を食べる権利と自由を理解しているが、愛によらず、優越感や誇りによって行動して、弱い者を傷つけている人。
 弱い者1 信仰的知識が無く、偶像に供えた肉を食べると何らかの悪い影響が有り、罪を犯したことになると考えている人。
 弱い者2 信仰的知識が有るが、それでもそれを受け入れられないか、感情的に違和感を感じて、偶像に供えた肉を食べることに確信や平安の無い人。

 できることならば、強い者1のタイプになれることが理想であると思います。
 強い者2のタイプは、キリストの体なる教会を傷つける罪を犯すことにつながりますから、基本に立ち返って、人間的な優越感や誇りを悔い改めて、愛によって行動するように、強い者1のタイプに変わるようにしなければなりません。
 弱い者1のタイプは、強い者1によって、きちんと教えを受け、強い者2のタイプにならずに、強い者1のタイプの仲間入りすることが理想です。
 弱い者2のタイプは、信仰によって聖書的原則に従順することを徐々に学ぶ必要が有ります。一方人間の感情は簡単には変わらない部分が有ります。ですから、強い者1は、信仰的知識が有るのにどうしてそのように行動できないのかと責めたりしてはいけません。同時に、弱い者2のタイプの人も、強い者1などの人たちを裁くような態度を持ってはいけません。






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弱い者とは? 其の三

2011-05-11 21:26:10 | 奥義書講解・書簡
今回は、コリント前書八章九節のものから考えます。


  しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、
  気をつけなさい。(口語訳)


 今回は、どんなことについて「弱い者」と表現しているのでしょうか。先ず、この章が何を扱っているのかを確認します。
 八章全体が偶像に供えた肉を食べることについて扱っていることが、一節と十三節を見るだけでも判ります。実は、この内容についてはいろいろ背景などを調べると興味深いことが出てくるのですが、今回は、本文を読むだけでわかる事柄についてだけ確認してみようと思います。

 八節を読むと、パウロは一つの結論を出していると考えることができます。


  食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、
  食べても益にはならない。(口語訳)


つまり、偶像に供えた肉であろうと、クリスチャンにとってそれは霊的な意味を持たず、従って、それを食べてもかまわないということです。


 では、その理由はどういうものでしょうか。それは四節から六節までの内容で確認できます。簡単にまとめます。偶像は実は神ではないし、実際にそういう神が存在しているわけでもありません。だから、偶像に供えられた肉であるということは、クリスチャンに対して何ら霊的な意味を持つことはないということです。(勿論、そういう偶像から来る恩恵を期待したりしていたら、偶像礼拝の罪であり、クリスチャンでありながらキリストの心に反した行動をする反逆ということになります。)


 この箇所で「弱い者」というのは、七節に述べられているように、上に書いたような「知識を持たず」また、「良心が弱い」クリスチャンたちということになります。


今回は、八章を読むだけでわかることに限定して書きました。しかし、その背景やその他の解説も大事だと思いますので、次回はその補足を書きます。






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弱い者とは? 其の二

2011-05-10 22:09:07 | 奥義書講解・書簡
 使徒行伝の記事で「弱い者」と訳されていた語が使われている他の聖書箇所を調べてみました。三つほど似たような用例を見つけましたので、これから確認を進めてみたいと思います。今回はローマ書のものを考えてみます。

      信仰の弱い者を受けいれなさい。(ローマ書14章1節a 口語訳)

 今回は、「信仰の」という語を伴っていますが、その具体的な内容はその箇所だけではわかりません。確認してみますと、2節に食べ物の話が出てきます。そして、この章を閉じる23節も、食べ物に関係有る終わり方をしています。それでは、14章においては、信仰と食べ物はどんな関わりで出てきているのでしょうか。 
 14章を通して読んでみますと、21節に記述が有るように、肉や酒をクリスチャンが食べたり飲んだりすることをどう判断するかということに関わって、信仰の強い者、弱い者という表現をしていることがわかってきます。
 ここで信仰の弱い者というのは、クリスチャンは肉や酒を食べたり飲んだりしてはいけないのではないかと考える人たちのことということになります。どういう風にそれが信仰の妨げになり、信仰の弱い者と表現されることになったのでしょうか。
 いくつかの注解を見ましたところ、これは、ユダヤ人の背景を持った人や、異邦人でユダヤ教的理解の有る人がクリスチャンになった場合、まだ律法に従って食べてよい肉と食べてはならない肉(たとえば豚肉)を区別しなければならないのではないかと考えて、食べてしまった時に良心の呵責を覚えたり、食べる人を罪人と思ったりすることを指しているということです。また、酒については(実際はワインということです)、ユダヤ人には普通の飲み物だったのですが、ナジル人(ひと;部族などではない)やレカブ人(じん;家系、一族)は酒を飲まなかったという聖書的記述を学んだ異邦人クリスチャンが、皆酒を飲んではいけないと信じたりした場合が有っただろうとしています。
 肉や酒については、別な背景や議論が無いわけではありませんが、この箇所については特にそういう意味合いであるという理解が伝統的なものであったことが伺えます。
 パウロがそういう立場のクリスチャンを「信仰の弱い者」と表現していますから、逆に言えば、モーセの律法にとらわれずに豚肉を食べてよいと理解し、ナジル人たちのように酒を断つ必要が無いと理解しているクリスチャンを信仰の強い者、控えめに言えば、信仰の弱くない者ということになります。

 この箇所における「信仰の弱い者」というのは、律法やナジル人の誓願の掟がクリスチャンにも適用されなければならないと理解し、そういう物事に良心の呵責を感じたり、動揺してしまったりするクリスチャンということになります。





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弱い者とは?

2011-05-09 22:55:31 | 奥義書講解・書簡
 使徒行伝を読んでいましたら「弱い者」という言葉が出てきたのですが、具体的にはどういう風に弱いことなのかが一瞬ぴんと来ませんでした。それで、少し時間を取って確認してみました。


 あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。
 わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。(使徒行伝20:34、35)


 パウロがエペソの教会の長老達を集めて最後の話をした時の、最後の部分です。パウロは書簡の中で、信仰的な知識が足りなかったりして、他のクリスチャンの行動に動揺してしまうような信徒を弱い者という風に表現したりしていましたが、ここでは、どんな意味でしょうか。

 35節を確認すると、「弱い者を助けなければならない」ということを長老達に述べているのですが、その手段は、「このように働いて」ということです。どのようになのかは、先の34節に説明されています。パウロは自分の手で働いて、自分の生活や一緒にいた人たちの生活を経済的に支えたことが読み取れます。
 後半の主イエスの言葉という部分は、「与える」ということを促す根拠として述べられています。
 これらを合わせて考えると、助けるという行為は「経済的に与える」ことを指しています。そういう助けが必要な「弱い者」は、結局、経済力が弱くて貧困に苦しんでいる人たちのことになります。

 長老教会においては、信仰に篤くて経済力の有る人が長老になったりする場合が有りますが、それは、この伝統を踏まえたものであると理解することができるかもしれません。(全ての長老教会がそういう実践をしているということではありません。)







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祈り、愛、奉仕 (ペテロによる第一の手紙四章七節~十一節)

2009-10-13 03:35:41 | 奥義書講解・書簡
この箇所は、一つの前提を理由として、四つの命令がなされているのですが、それよりも、理由や目的の副詞句や節に注目して、三つの要点でまとめてみました。

前提・理由
万物の終わりが近づいたということです。キリストの出現から以降を終わりの時・日々と考えますから、現在の私達も、この期間に生きているということになります。世の終わりが近いと、世の中の悪は増し、愛の冷える時代になります。ですから、気をつけて取り組まなくてはならないことがキリスト者達には有るのです。


要点一 祈り
終わりの世にキリスト者が気をつけて取り組まなければならないことの第一は、祈りです。キリスト御自身が繰り返し弟子達に祈ることを教えてきました。祈り無しには、私達もこの世に流されてしまうことが多くなるのです。
 どのようにして私達は祈り続けるよう努力するのでしょうか。ペテロは二つのことを指摘、指示しています。
 一つ目は、心を整えることです。「心を整える」と訳された語は、「健全な判断」「きれいな心」というような意味合いが有ります。祈るためには、そういう心の状態を保つことに留意しなければなりません。そのためには、キリスト者の健全な判断と心を導く奥義書(聖書)を読み続け、確認し続けなければなりません。その心で祈ることによって力を得、また、その力がキリスト者を聖書の言葉に導き、良い循環の中に生きるのです。
 二つ目は、身を慎むことです。「身を慎む」と訳された語は、直接的には、「酔っ払っていない」という意味を持ちます。酔っていれば眠くなったりしますし、そうでなくても祈りに集中するのは難しいことです。それが祈りを妨げます。ですから、酔っ払っていないで、ということが注意事項に入ってくるわけです。これをもっと発展的に考えると、「自制する」「身を慎む」ということになるのです。いずれも、祈りが妨げられないということがその焦点です。
 ここで用いられている「祈り」を表す語は複数形です。私達の日々の祈り、繰り返しの祈り、絶えず祈るという習慣に留意した表現ということでしょう。


要点二 愛
世の終りには、愛が冷えるのだということをキリストも述べています。しかし、キリストは最後の晩餐で「あなたがたに新しい戒めを与える。あなたがたは互いに愛し合いなさい。」と言われたのです。ですから、終りの世に生きるキリスト者は愛に生きる努力をしなければなりません。ペテロはキリストの弟子として、主人の言葉を再確認していることになります。
 ここで示されている理由は、愛が多くの罪を覆うからだとされています。これは、箴言十章十二節の引用です。多くの罪を覆うというのは、隠すという意味も有りますが、単純に知らないふりをするということではありません。忍耐や気遣い、想像力を駆使した気配りなどによって、その人の好ましくない言動を理解し、正し、良い方向に進めるようにすることを示します。
 この愛に関する命令・指示が、八節と九節に一つずつ述べられています。一つは一般的原則、もう一つは具体的な適用例と考えることができます。
 一つ目は、熱心に愛し合うということです。「熱心に」と訳された語は、元来形容詞で、競技者達が競争に勝つために筋肉を伸ばす様を表します。愛するという部分には、「保つ」という意味の動詞が用いられており、二つとも、愛はそういう意識と努力の上に成り立っていることがわかります。キリスト者が愛するということを考える時は、運動選手が優勝を目指して努力するような、例えば、イチロー選手が絶えず努力して良い成績を残し、記録を延ばして行くような、そういう絶え間ない努力が必要なのです。「何よりも」という語が添えられていますから、そこに優先順位が有るのです。キリストが最後に与えた戒めですから、それだけ重要と考えられます。
 二つ目は、親切にもてなし合うということです。これが、愛し合うということの実例として示されていると考えられます。当時キリスト者は、伝道のため、迫害を逃れるため、追放されたためなど、様々な理由で旅行をしなければならない場合が有りました。しかし、当時は良い宿泊施設も無く、有っても必ずしも安全な場所とは言えませんでしたから、できるだけ信仰を同じくするキリスト者を探して泊めてもらうということが有りました。
 もてなすと訳されている語は、「見知らぬ人に親切である」という意味合いが有ります。そういう親しくない人達をもてなすためには、普通以上に緊張したり神経を使ったりするものです。自分の時間を割き、部屋を用意し、普段以上の出費が必要になったりします。それは気楽にできることではありません。だから、八節に示された愛の原則、熱心に努力するということが必要になってきます。ですから、ペテロはここに「つぶやかないで、」つまり不平や文句を言わないでという注意書きを加えているのです。
 実際の適用は個々に違うでしょうけれども、同じ覚悟、心構えでいるということが必要なのは同じです。


要点三 奉仕・仕え合うこと
終りの世にキリスト者が気をつけて取り組まなければならないことの三つ目は、二つ目の愛し合うにも通じている部分が有るように思います。それは、互いに仕え合うことです。今回も、十節に一般的原則が述べられており、十一節に具体的な適用例が示されています。
 先ず、一般的原則です。仕え合う理由は、キリスト者の中には有りません。その理由は神に発しています。それは「それぞれが賜物を受けているのですから」という理由に示されています。キリスト者は、管理し、用いるべき才能が必ず神から与えられています。それは自分のものではないので、そういう自覚のもとに、それを忠実に用いなければならないのです。「仕える」「管理者」という語は、それぞれ他人の家などを忠実に管理する執事やしもべなどを連想させる言葉です。それは自分のものではありませんから、更に注意して忠実にことを為さなければなりません。
 神が個々に与えられた才能や霊的な力は限られているかもしれません。しかし、神の体の成員であるキリスト者達全体を見れば、多様な才能や霊的な力が与えられています。だからこそ、それをもって「互いに仕え合う」ことによって、それが豊かに発揮され、用いられるのです。そして、それは、神に与えられた務めですから、忠実に為されなければならないのです。どうでもよいことではありません。
 しかし、注意しなければならないことが有ります。この務めは神からの賜物であることが前提であり、且つ、愛の実践であることが必要です。強制されて、単なる組織運営のための人材として用いられることが有ってはなりません。
 次に、具体的な適用例が示されています。語る人の例が挙げられています。語る人というのは、聖書を説き明かしたり、勧めの言葉を語ったりする人です。キリスト者の間では、説教者からそういう訓練を受けていない信徒まで、幅広く考えることができると思われます。しかし、そこには大事な原則が付加されています。「神の言葉にふさわしく語る」ということなのです。しかも、ここで「ことば」と訳された語は、「神の託宣、神の言葉、モーセの律法の内容」などを表すものなのです。ですから、キリスト者が言葉の奉仕をするにあたっては、慎重に且つ聖書の言葉に忠実にそれを行わなければなりません。聖書の示す原則に沿わない内容であってはなりません。ちょっとした感話や証であるとしても、その慎重さが欠けることが有ってはなりません。聖書的であるか、神の栄光を現しているかどうか、慎重に考えながら語る必要が有ります。そのことは、十一節にも示されています。
 十一節には、そのようにする目的が示されています。一重に「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるため」なのです。このことを忘れ、いかにも自分が良い、優秀なキリスト教徒であることをアピールするかのように言葉を発する説教者や信徒は、この原則を破っており、また、賜物の良い管理者としても失格であり、「語る人」の価値が有りません。私達が語る時、そのような過ちに堕することのないように、鋭意注意し、警戒しなければなりません。
 一方で、もしキリスト者達がこの原則を忘れず、忠実に「語る人」の務めをまっとうしようとするならば、「神が豊かに備えてくださる力によって奉仕する者らしく」語ることができるのです。語る人の実例に止まらず、全ての奉仕がそのような心構えでなされることが必要です。(私が主に用いている和訳では、「奉仕する人」を別に訳していますが、別の理解では、その部分を「語る人」の在り方の説明の節とします。私は後者に従って書いています。)


まとめ
私達は終りの世に生きるキリスト者達であるという自覚をいつも持つ必要が有ると思います。その自覚が有れば、ここの示された原則をしっかり心に留めることができるのではないでしょうか。そして、この原則を心に留め、実践して行くにあたって、もう一つ心に留めておかなければならないことが有ります。今回取り上げた箇所には、「互いに」という意味の言葉が三度出てきます。「~し合いなさい」と訳されている箇所がそれに該当します。私達は、孤独な戦いを強いられているのではありません。この原則の実践は、互いに、一緒に、共同体として為されなければならないのです。そのために、私達はキリストに在って一つに召し出されたのです。
 終りの世に、神の栄光のために生きるキリストに有る共同体、一つの体として、祈り合い、愛し合い、奉仕し仕え合うことに、イチロー選手のような使命感と努力をもって取り組みたいものです。







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