この箇所は、一つの前提を理由として、四つの命令がなされているのですが、それよりも、理由や目的の副詞句や節に注目して、三つの要点でまとめてみました。
前提・理由
万物の終わりが近づいたということです。キリストの出現から以降を終わりの時・日々と考えますから、現在の私達も、この期間に生きているということになります。世の終わりが近いと、世の中の悪は増し、愛の冷える時代になります。ですから、気をつけて取り組まなくてはならないことがキリスト者達には有るのです。
要点一 祈り
終わりの世にキリスト者が気をつけて取り組まなければならないことの第一は、祈りです。キリスト御自身が繰り返し弟子達に祈ることを教えてきました。祈り無しには、私達もこの世に流されてしまうことが多くなるのです。
どのようにして私達は祈り続けるよう努力するのでしょうか。ペテロは二つのことを指摘、指示しています。
一つ目は、心を整えることです。「心を整える」と訳された語は、「健全な判断」「きれいな心」というような意味合いが有ります。祈るためには、そういう心の状態を保つことに留意しなければなりません。そのためには、キリスト者の健全な判断と心を導く奥義書(聖書)を読み続け、確認し続けなければなりません。その心で祈ることによって力を得、また、その力がキリスト者を聖書の言葉に導き、良い循環の中に生きるのです。
二つ目は、身を慎むことです。「身を慎む」と訳された語は、直接的には、「酔っ払っていない」という意味を持ちます。酔っていれば眠くなったりしますし、そうでなくても祈りに集中するのは難しいことです。それが祈りを妨げます。ですから、酔っ払っていないで、ということが注意事項に入ってくるわけです。これをもっと発展的に考えると、「自制する」「身を慎む」ということになるのです。いずれも、祈りが妨げられないということがその焦点です。
ここで用いられている「祈り」を表す語は複数形です。私達の日々の祈り、繰り返しの祈り、絶えず祈るという習慣に留意した表現ということでしょう。
要点二 愛
世の終りには、愛が冷えるのだということをキリストも述べています。しかし、キリストは最後の晩餐で「あなたがたに新しい戒めを与える。あなたがたは互いに愛し合いなさい。」と言われたのです。ですから、終りの世に生きるキリスト者は愛に生きる努力をしなければなりません。ペテロはキリストの弟子として、主人の言葉を再確認していることになります。
ここで示されている理由は、愛が多くの罪を覆うからだとされています。これは、箴言十章十二節の引用です。多くの罪を覆うというのは、隠すという意味も有りますが、単純に知らないふりをするということではありません。忍耐や気遣い、想像力を駆使した気配りなどによって、その人の好ましくない言動を理解し、正し、良い方向に進めるようにすることを示します。
この愛に関する命令・指示が、八節と九節に一つずつ述べられています。一つは一般的原則、もう一つは具体的な適用例と考えることができます。
一つ目は、熱心に愛し合うということです。「熱心に」と訳された語は、元来形容詞で、競技者達が競争に勝つために筋肉を伸ばす様を表します。愛するという部分には、「保つ」という意味の動詞が用いられており、二つとも、愛はそういう意識と努力の上に成り立っていることがわかります。キリスト者が愛するということを考える時は、運動選手が優勝を目指して努力するような、例えば、イチロー選手が絶えず努力して良い成績を残し、記録を延ばして行くような、そういう絶え間ない努力が必要なのです。「何よりも」という語が添えられていますから、そこに優先順位が有るのです。キリストが最後に与えた戒めですから、それだけ重要と考えられます。
二つ目は、親切にもてなし合うということです。これが、愛し合うということの実例として示されていると考えられます。当時キリスト者は、伝道のため、迫害を逃れるため、追放されたためなど、様々な理由で旅行をしなければならない場合が有りました。しかし、当時は良い宿泊施設も無く、有っても必ずしも安全な場所とは言えませんでしたから、できるだけ信仰を同じくするキリスト者を探して泊めてもらうということが有りました。
もてなすと訳されている語は、「見知らぬ人に親切である」という意味合いが有ります。そういう親しくない人達をもてなすためには、普通以上に緊張したり神経を使ったりするものです。自分の時間を割き、部屋を用意し、普段以上の出費が必要になったりします。それは気楽にできることではありません。だから、八節に示された愛の原則、熱心に努力するということが必要になってきます。ですから、ペテロはここに「つぶやかないで、」つまり不平や文句を言わないでという注意書きを加えているのです。
実際の適用は個々に違うでしょうけれども、同じ覚悟、心構えでいるということが必要なのは同じです。
要点三 奉仕・仕え合うこと
終りの世にキリスト者が気をつけて取り組まなければならないことの三つ目は、二つ目の愛し合うにも通じている部分が有るように思います。それは、互いに仕え合うことです。今回も、十節に一般的原則が述べられており、十一節に具体的な適用例が示されています。
先ず、一般的原則です。仕え合う理由は、キリスト者の中には有りません。その理由は神に発しています。それは「それぞれが賜物を受けているのですから」という理由に示されています。キリスト者は、管理し、用いるべき才能が必ず神から与えられています。それは自分のものではないので、そういう自覚のもとに、それを忠実に用いなければならないのです。「仕える」「管理者」という語は、それぞれ他人の家などを忠実に管理する執事やしもべなどを連想させる言葉です。それは自分のものではありませんから、更に注意して忠実にことを為さなければなりません。
神が個々に与えられた才能や霊的な力は限られているかもしれません。しかし、神の体の成員であるキリスト者達全体を見れば、多様な才能や霊的な力が与えられています。だからこそ、それをもって「互いに仕え合う」ことによって、それが豊かに発揮され、用いられるのです。そして、それは、神に与えられた務めですから、忠実に為されなければならないのです。どうでもよいことではありません。
しかし、注意しなければならないことが有ります。この務めは神からの賜物であることが前提であり、且つ、愛の実践であることが必要です。強制されて、単なる組織運営のための人材として用いられることが有ってはなりません。
次に、具体的な適用例が示されています。語る人の例が挙げられています。語る人というのは、聖書を説き明かしたり、勧めの言葉を語ったりする人です。キリスト者の間では、説教者からそういう訓練を受けていない信徒まで、幅広く考えることができると思われます。しかし、そこには大事な原則が付加されています。「神の言葉にふさわしく語る」ということなのです。しかも、ここで「ことば」と訳された語は、「神の託宣、神の言葉、モーセの律法の内容」などを表すものなのです。ですから、キリスト者が言葉の奉仕をするにあたっては、慎重に且つ聖書の言葉に忠実にそれを行わなければなりません。聖書の示す原則に沿わない内容であってはなりません。ちょっとした感話や証であるとしても、その慎重さが欠けることが有ってはなりません。聖書的であるか、神の栄光を現しているかどうか、慎重に考えながら語る必要が有ります。そのことは、十一節にも示されています。
十一節には、そのようにする目的が示されています。一重に「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるため」なのです。このことを忘れ、いかにも自分が良い、優秀なキリスト教徒であることをアピールするかのように言葉を発する説教者や信徒は、この原則を破っており、また、賜物の良い管理者としても失格であり、「語る人」の価値が有りません。私達が語る時、そのような過ちに堕することのないように、鋭意注意し、警戒しなければなりません。
一方で、もしキリスト者達がこの原則を忘れず、忠実に「語る人」の務めをまっとうしようとするならば、「神が豊かに備えてくださる力によって奉仕する者らしく」語ることができるのです。語る人の実例に止まらず、全ての奉仕がそのような心構えでなされることが必要です。(私が主に用いている和訳では、「奉仕する人」を別に訳していますが、別の理解では、その部分を「語る人」の在り方の説明の節とします。私は後者に従って書いています。)
まとめ
私達は終りの世に生きるキリスト者達であるという自覚をいつも持つ必要が有ると思います。その自覚が有れば、ここの示された原則をしっかり心に留めることができるのではないでしょうか。そして、この原則を心に留め、実践して行くにあたって、もう一つ心に留めておかなければならないことが有ります。今回取り上げた箇所には、「互いに」という意味の言葉が三度出てきます。「~し合いなさい」と訳されている箇所がそれに該当します。私達は、孤独な戦いを強いられているのではありません。この原則の実践は、互いに、一緒に、共同体として為されなければならないのです。そのために、私達はキリストに在って一つに召し出されたのです。
終りの世に、神の栄光のために生きるキリストに有る共同体、一つの体として、祈り合い、愛し合い、奉仕し仕え合うことに、イチロー選手のような使命感と努力をもって取り組みたいものです。
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