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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

十字架の部屋

2023-05-31 22:02:29 | 気まぐれ忍務報告
  先日、中里の会議に出席しました。議長が議事進行の前に奨励をしたのですが、その中で出て来た例話が面白いと思ったので、残しておきたいと思います。

  ある人が、自分の十字架と思える環境、境遇、課題などに悩んでいました。これは自分が担いきれるものではない、自分が担うべきものではないとさえ思ったということです。
  
  そんなある日、彼は夢を見ました。自分には担いきれない、自分には合わないと思っている十字架を背負い、苦しんで道を進んで行くと、大聖堂にたどり着きました。中に入ると、礼拝堂の横にも大きな扉が有って、その上に「十字架の部屋」という看板がかかっていました。気に入らない十字架を背負ってここまで来たので、他にどんな十字架が有るのか、もしかして、今の十字架よりももっと自分に適した十字架が有るのではないかという期待の気持ちをもってその部屋に入りました。
  入ってみると、天使がいて、自由に十字架を見て行きなさい。自分に最適だと思うものが有れば、それと交換していっても良い、と声をかけてくれました。彼は、これ幸いと、自分が背負ってきた十字架を下して、適当な所に立てかけ、十字架を選び始めました。奥の、宙に高くそびえる大きな十字架は、イエス・キリストの十字架で、到底人間が背負えるものではありませんから、論外です。彼は、時間をかけて、いろいろな条件の十字架を、あれでもない、これでもないと考えながら確かめて行きました。これがぴったりだと思えるものが、なかなか見つかりません。どうしても一つ選ばなければならないので、これならぴったりと言わないまでも、確かめた中で一番自分に合うだろうと判断した十字架に決めて、それを背負って部屋を出て行くことにしました。出口の所で、天使に十字架を見せると、「それは、君が持ってきた十字架だね。」と言われました。自分に合わない十字架を下して、もっと自分に合う十字架を背負いたいと思ったのに、同じ十字架を選んだのかと、驚くほかありませんでした。

  具体的にどのように結論づけるかは別にして、この人は、これまで背負ってきた十字架は、神の導きであったと受け止めて、続けて背負っていくことになります。私たち忍者も、現状を苦しく感じることが有るでしょうけれども、神に委ねられた忍者としての歩みを、謙遜に受け止めて、忍耐を持って歩んで行こうという思いを新たにしました。






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忍者の用語は世間とニュアンスが異なる部分

2019-04-30 12:44:58 | 気まぐれ忍務報告
 先日の礼拝でも説明させていただいたのですが、忍者の用語は世間のニュアンスとことなっていて、誤解が生じる、もしくは印象が違いすぎると思う点があります。時には忍者までもそのニュアンスの違いをきちんと把握してないように見受けられることがあります。

 先ず、多くの指摘がなされてきたものではありますが、代表的なのは「罪」とか「罪人(びと)」であろうかと思います。罪は倫理的に悪いことという印象が有り、里の子供の教室でもそういう言い方をしてしまう部分が有りますが、それは実際とは異なっています。忍者の言う罪というのは、神から断絶していることであります。神から断絶している、関係が無いということがその本質ですから、倫理的、道徳的に悪いか否かは関係ありません。「信仰によらないものはすべて罪である。」(ローマ14:23)と奥義書は述べています。ですから、世間一般にどんなに善人で、良い生き方を心掛け、慈善を為して称賛されるような人物でも、神と断絶しているならば、その要素のすべては忍者の信仰に照らし合わせると「罪」なのです。日本語では罪という言葉を採用しましたが、その概念や定義が異なっているために、このような感覚のずれが生じてしまっています。
 この感覚のずれのせいで、「罪人」という言葉も奥義書が述べようしている語義で受け取られないことがあります。それで、犯罪者扱いをすると言って怒ってしまった人の話が時々聞かれるわけです。上の定義に照らして考えれば、それは、断絶者とか部外者という(神と)無関係な人という意味合いで理解されるべき言葉です。ある大忍は、「ずれ人(びと)」という造語はどうかなどと言っておられましたが、微妙な感じがします。しかし、少なくとも、犯罪者とか悪者という理解にならないように努めることが忍者には求められていると思います。
 また、このような理解に立つと、賛美歌の歌詞にも問題が出てくる場合が有ります。「み救いを受けし罪人(つみびと)にすぎず」といった表現です。救いを受けたならば、神との関係が回復したのですから、確かに地上の歩みにおいて罪となる行為をすることは有りますが、断絶している者という意味になる罪人(つみびと)という語を当てはめることは矛盾しています。

 また、似たようなものに、「汚れ」という表現が有ると思います。罪の汚れとか汚れた霊という表現を、どのような印象で聞いておられるでしょうか。この「汚れ」の表そうとしていることは、神のみ心に適っていないということです。人でも無視されたり拒絶されたりすると心が痛む場合が有るでしょう。神を拒絶して、神に対してそういう心の痛みとなるような思いや状況にあることが汚れです。忍者が地上で罪を犯してしまったりする時、それは汚れとして認識されることになるでしょう。それで、忍者は悔い改めをするのです。イエスが最後の晩餐において、弟子たちの足を洗い、「あなたがたは全身がきよいのだから、足だけ洗えば良いのです。」と言われたのは、この感覚によると言えるでしょう。

 その対語のように思われるものに「きよい」という言葉が有るように思います。忍者の用語としては「聖い」と書き表されるべき場面が多いと思います。その意味するところは、「神のために・神の故に取り分けられた」ということです。ですから、これも世間で言うところの「聖人君子」というような言葉の印象とは違います。神と断絶していたが、神との関係を回復したので、その前の段階と区別されて、神のために取り分けられた存在になった、もしくはなっている人や物について、「聖い」という言葉を使うのです。世間で言うきれいであるとか立派であるとか徳が篤いというような意味には必ずしもならないわけです。それを意識していないと、「あなたは聖い」と言われて思わずそんなことはないと謙遜してしまったり、「わたしは聖い」などと言う表現を見ようものなら、思い上がった奴だと思ってしまったりすることになるわけです。

 新しいRPGを手に入れたり、人気シリーズの小説を買ったりすると、そのジャンルやそのあらすじに関わる名称の解説が巻末に載っていたしないでしょうか。慣れている人は、まずその解説を確認してから取り組むと思います。奥義書の言葉も、そのような心構えで、定義や語義に注意し、確認しながら理解していただければと思います。




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バテ・シェバ考

2019-04-10 10:05:18 | 気まぐれ忍務報告
 ダビデ王の妻、ソロモン王の母であるバテ・シェバの印象は、人によってかなり違うものになっています。ある人にとっては良家のお嬢さん育ちで、弱々しく情勢に翻弄される女性という印象になります。またある人にとっては、良家の出ではありますが、少し世間知らずで頭が足りない印象になったりします。一方で、三浦綾子女史などは、比較的計算ずくな人ではなかったかと疑っている様子が有ったりします。
 私のこれまでの印象は、どちらかと言いますと、ちょっと世間知らずで頭が足りないという立場に寄ったものでした。そして、列王記上二章に出てくるエピソードもそういう背景で理解していました。
 そのエピソードというのは、ソロモン王が王位に就いた後、兄のアドニヤが義母であるバテ・シェバの所に来て、シュネム人のアビシャグを妻にしてもらいたいという願いをソロモン王に取り次いで欲しいと言う話のことです。この時、彼女はアドニヤの願いを聞き入れて、ソロモン王にその依頼を取り次ぐのです。そして、そのことのために、ソロモン王は兄アドニヤを討ち取る、すなわち死刑にするということになりました。 
 このエピソードには、背景の理解が必要になります。先ず、シュネム人のアビシャグが誰であったかということです。この女性は、肉体関係こそありませんでしたが、ダビデ王の最後の妻と考えて差し支えない人物です。(一章一節~四節参照)この頃の中近東におきましては、王が代替わりをすると、次の王が権威の象徴としまして妻やハーレムの妾たちを引き継ぐということがありました。従って、アドニヤの依頼は、大変な美人とされる女性を妻にしたいという願望によるのではなく、次の王になるという野心によるものだったと考えられます。こんなことが公になれば、アドニヤは謀反の罪で罰せられるのは目に見えていました。
 ところが、バテ・シェバはいとも簡単にこれを引き受けて、ソロモン王にその願いを取り次いでしまうのです。お人よしにも程が有るというものです。仮にアドニヤの謀反が功を奏したら、ソロモン王とその一族は粛清されるのが当時普通のことだったからです。ソロモン王はそういう野心をすぐに嗅ぎ分けて、アドニヤを死刑にしました。こういうエピソードから、やはりバテ・シェバは世間知らずで頭の足りない人物であっただろうと考える立場が出てくるわけです。
 しかし、これはどうも不自然だと思えてきました。バテ・シェバの祖父はアブシャロムがダビデに謀反を起こした時にダビデ討伐案を出したアヒトフェルです。そういう地位が高くて政治的な見通しを立てることのできる祖父を家族に持って育ったバテ・シェバが、いくらお嬢さん育ちであったとしても、政治的情勢やしきたりに疎いとは思えません。すると、アドニヤの件は、バテ・シェバがこれ幸いと利用したことになるのではないかと思います。アドニヤのむき出しの野心は隠せるものではありませんでした。ですから、これを伝えるだけで賢いソロモン王は行動を起こして彼を滅ぼすだろうと想像するのは容易いことであったと思われます。そうすれば、現王の母親としても安泰で安心して暮らせるという計算が無かったとは思えないのです。
 皆様はどう思われるでしょうか。

奥義書の通読という日々の忍務の中から出てきましたので、このカテゴリーでお願いいたします。





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私の失敗談

2019-03-07 21:02:24 | 気まぐれ忍務報告
 数年前にした私の失敗を思い出しましたので、書いておこうと思います。

 聖餐式の有る日曜日でした。パンの分餐、ブドウジュースの分餐と進み、講壇に戻った時に、何かおかしいと感じたのです。そして、しまった!と思いました。私の後頭部には、サングラスが収まっていたのです。

 その日は、日差しが強かったので、里に出かける時にサングラスをかけて行きました。里の建物に着いたのですが、清掃等での出入りが予想されましたので、サングラスをしまわないで、グラスが後ろ向きになるようにして耳にかけました。しかし、その感触があまりに自然といいますか、負担が無かったものですから、そうやってサングラスを後ろ向きにつけていることをすっかり忘れてしまったのでした。

 パンやブドウジュースの分餐をして献卓に戻る度に、里の会衆は私の後頭部にくっついているサングラスを見て、おやおやと思っていたことと思います。優しい会衆で、誰も指摘しにはいらっしゃいませんでした。

 忍務中に起きたことでありますから、「気まぐれ忍務報告」のカテゴリーにさせていただきました。






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正教師学科

2019-02-01 12:07:48 | 気まぐれ忍務報告
 私、糸田十八は、一応大忍として働いてはおりますが、現在の里の規定ではまだ中忍のような立場でありまして、何とは申しませんが、四つの学科の学習を修了しなければ正式には大忍となりません。二科目は修了しているのですが、三科目目が手強く、課題量も多くて苦労しております。中里の書記からは一月中にその科目を終わらせるようにという努力目標を与えられましたが、七割ほどまでしか進みませんでした。ということで、二月一日の本日これをご報告している次第であります。
 なんとか二週間程の内に課題を済ませて、こちらの講義所の師匠に提出し、四科目目の指示をいただきたいものだと思っております。お読みくださった仲間の皆様がお祈りしてくださいますれば幸いであります。




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獄中のすごい面々

2018-10-27 09:06:14 | 気まぐれ忍務報告
 所属する改家の総会の初日の礼拝で、上会の書記を務める大忍が説教をしました。その中で、ああそうか、と思ったことを書いておこうと思います。会議出席という忍務の席でのことなので、このカテゴリーにしておきます。

 コロサイ書四章十節から十五節までに、パウロからの挨拶が書き残されています。そして、数名の同労者からもよろしくという言葉が書き連ねられています。手紙の末尾の挨拶で、情況的にはこれらの人々も獄中にあったか、面会していたかということでしょうけれども、一緒に囚人になっていたと考える注解が多いように思います。

 さて、この中で少々新鮮な思いで再確認したのは、ここに、マルコ、ルカ、パウロが一緒にいたということです。この三人の関係性も重要でありますが、その大忍が指摘したことは、この三人の著述が新約聖書の半分以上を占めるのだということでした。神のどんな導きであったかわかりませんが、そういう重要な役割を果たすことになった三人が共に獄中にいたということに、改めて注目させられました。





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覚えていなくても血肉となっている

2018-09-18 23:10:28 | 気まぐれ忍務報告
 先日、仲間の大忍のご厚意で、説教に関する講習会に参加させていただきました。そこで、講師が話した例話を紹介したいと思いました。ちょっと私が流れに合わせて作っている部分も有りますが、基本的には内容は同じです。

 私たちは食事をして、何が美味しかったとか記憶している場合も有りますが、大抵は何時何を食べたか覚えていません。五週間前の夕食は何だったかなんて全然記憶にないだろうと思います。でも、思い出せないから無駄だとか意味が無いということはなく、その食事が確実にこの体を支える栄養になってきています。
 説教も同じです。先週の説教の要点の記憶だって怪しいかもしれませんし、ましてや五週間前の説教が何だったかすら覚えていないでしょうけれども、確実にそれが霊的な養いになって、その人の信仰を支え形成する働きをしているのです。

 説教が役に立っているのかと疑問に思ったりする場合も有るかもしれませんが、神の言葉が生きて働いていることを信じ委ねてその務めを続けるのだという奨励になっていました。

 奥義書研究会でこの例話を紹介したところ、一人の忍者が15年前に聞いた説教の知識がふと思い出されて役に立つようなことも有ったと言っていました。
 




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イエス・キリストの公生涯三十三年半に関わる数字

2018-03-07 12:15:51 | 気まぐれ忍務報告
イエス・キリストの公生涯は三十三年半という説明がされます。そこに関連の有る数字を拾っておこうと思いました。


紀元二十七年‐ヘロデ(アンティパス)王とヘロデヤの結婚
紀元約三十年‐イエス・キリストの宣教開始(ルカ三章二十三節より)
紀元三十一年‐バプテスマのヨハネ斬首
紀元三十六年‐ポンテオ・ピラトの在任期間終了(紀元二十六年着任)
紀元三十九年‐ヘロデ(アンティパス)王没


これらの年と福音書に見いだされる過ぎ越しの祭りへの参加の回数を照らし合わせて、三十三年半という結論を出しています。

ちなみに、民数記四章の規定が天幕での奉仕ができるようになる年齢が三十歳となっていることを関連つけて考える立場も有ります。






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その場所には草が多かった(ヨハネ六章十節)

2018-02-20 16:20:27 | 気まぐれ忍務報告
 お仕えする単里の奥義書研究会でこの箇所が開かれました。十節の言葉で講義所の師匠のことを思い出しました。説教学Ⅱを担当されていたC師匠がこの箇所を取り上げて、旧巻の記述との関連とイメージが大切であることを説明されたことを懐かしく思い出しました。今回調べて判ったことなどを交えてご紹介しておこうと思います。

 C師匠は、ここで「草」の持つ旧巻的イメージを説明されました。それは、よく引用される詩編二十三編のイメージだということでした。「主は私を緑の牧場に伏させ」という部分を連想させられるわけです。この詩編の前半は、神のイメージ、シンボルとして羊飼いが用いられています。そして、取りも直さず、このイエス・キリストこそが神でありメシアであるということにつながっていくということなのです。
 また、この「草」への言及は、先に四節で述べられた「過ぎ越しが間近になっていた」という記述を裏付けるものということです。過ぎ越しの頃に草が生え、それを刈り取るということが有ったそうです。

 この後、イエス・キリストは五千人の給食の奇跡を起こされました。そのことも、詩編二十三編のイメージにつながるのです。この詩編の後半のイメージは神を宴会の主催者として描写しています。「私のために食事をととのえ」「私の杯は、あふれています。」という言葉が見られます。五千人の給食でふるまわれたのはパンと魚でしたが、みな欲しいだけ取って食べることができましたので、この「あふれています」という記述と重なる部分が出てくるのです。この詩編のイメージとも重なったからこそ、人々はイエス・キリストのことを「世に来られるはずの預言者だ」と判断しました。この言葉は申命記十八章十八節と関わりが有り、モーセのことを思い起こさせるものです。モーセはマナをイスラエルの民に与える奇跡を仲介しました。それは、五千人に給食した奇跡とも重なるものでした。

 この箇所は詩編二十三編の二つの神のイメージ、羊飼いと宴会の主催者の両方をイエス・キリストの中に見出すことになるものであり、ナザレのイエスは明確に約束の救い主、メシアであるという力強い宣言になっています。その証の確かなことを、人々の口からでる言葉で確認させるようになっています。このようなことが、この奇跡を四つの福音書の全部に記録されている唯一の奇跡になる要素と言えるでしょう。






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ダビデによる創世記一章二十六節

2018-02-13 17:24:00 | 気まぐれ忍務報告
 私がお仕えしている里の学びの時に、気づきました。ダビデの作品である詩編八編は、創世記一章二十六節をよく反映させた内容になっています。ダビデの時代は、まだモーセ五書しか広く読まれていなかったと思われるという記述を読んだことが有ります。そうすると、ダビデはその五書だけを繰り返し読んで、霊的な生活を深めていたことになります。私達には、時には退屈に思えるモーセ五書を通して、ダビデがいかに深い霊的な取り扱いを受けていたかを思うと、襟を正されるような気持ちになります。
 ダビデはユダヤ人の二代目の王でした。王となる者は、モーセの律法を身近に置き、日々これに親しまなければならないことが聖書の規定には記されています。ダビデはそれを忠実に守っていただろうということも、このような詩編からうかがえると思います。






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