糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

セカンド・チャンスの根拠にはならない

2020-01-28 14:38:46 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 1ペテロの手紙には、死んだ人に福音を聞く機会が有る、所謂セカンド・チャンスを示すのではないかと考えられる箇所が有ります。しかし、他の聖書箇所にはそれを補強する材料は見当たりません。ペテロはパウロに比べると、論述の手順が整理されていなくてわかりにくい場合が有りますが、きちんと背景、文脈、時制、目的語等を詳細に確認するとセカンド・チャンスの根拠に成り得ないことがわかります。順番に確認をしてみましょう。

 一つ目は三章十九節、二十節です。

『その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。(新改訳)』

 先ず、時制に注目してみます。「行った、宣べられた」の部分は過去時制です。過去に限定された動作ですから、現在も死んだ人がキリストのみことばを聞くということは述べられていないのです。
 次に、目的語です。キリストのみことばを聞いたのは「霊たち」です、しかも、どの霊たちかということが二十節に示されていて、対象が限定的であることが示されています。やはり、死んだ人が一般的に皆キリストのみことばを聞く機会が有るという理解はできません。
 更に、用例の研究をしますと、「霊たち」という複数形の用例は、超自然的な力を持つ霊、天使や悪霊に用いられていることが判ります。二十節の説明も、人間について語っている調子ではないことがおわかりいただけると思います。
 では、キリストが宣べられたみことばとは何でしょうか。宣べるという動詞は、福音宣教にも用いられるものなのですが、反逆する悪霊に対して福音を宣べることは有り得ません。ペテロの記述をたどっていくと、その内容は二十二節に出て来ていると考えて良いと思います。キリストは、それらの悪霊たちに対して、ご自身が最後の審判の時にすべてを裁く権威を持ち、更に加えて考えれば、イエスを信じた者に救いを得させる贖いの業を完成させたのだということを宣言したのだということになります。


二つ目は、四章六節です。

『というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。
(新改訳)』

 ここでは、「死んだ人々」と書いてあります。しかし、動詞の時制は「宣べ伝えられていた」という過去時制です。やはり、一般論として、死んだ人がキリストの福音を聞くという判断はできません。そして、その「人々」が肉体において「さばきを受ける」という表現はアオリスト時制で、過去の終わった動作を表します。肉体を持っていた、すなわち生きていた時にさばかれたということになります。
 この部分はどう理解したらよいでしょうか。先に背景の確認をすることが助けになると思います。この当時のローマ皇帝は、キリスト教徒を激しく迫害したネロであると考えられています。また、ペテロが手紙を書いた目的は、小アジア、現代のトルコにいる、迫害に苦しむクリスチャンを励ますことに有りました。ですから、今回の一連の記述にも、そういう意図が反映されていることを前提として理解しなければなりません。
 これらのことを総合して考えると、これは迫害されたクリスチャンについての記述と考えるべき箇所です。ネロの迫害の時代に、肉体において、すなわち生前、社会や法廷でキリスト教の信仰の故に悪者、あるいは有罪と断じられ、迫害の中で生涯を終えたり死刑になったりした人々も、霊においてはキリストにある永遠の命を受けるのだという希望の確認をし、ペテロはクリスチャンたちを励ましているのです。

 このように、背景、文脈、時制、対象・目的語を詳細に確認すると、対象は信仰を持たないで死んだ人たちではないし、宣べ伝えるという動作は継続的、一般的状況ではないことがはっきりしてきます。ですから、これらの聖書箇所を、セカンド・チャンスの根拠として用いることはできないのです。





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