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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

バテシバ考(補足)

2025-06-04 15:40:32 | 奥義書講解・旧約
以前アップしたバテシバの考察が見当たらなくなってしまいました。削除した記憶はないのですが。取り合えず、その時の考察の一部を短編風に書き出してみました。


「おや、ただ事ではなさそうね。」
王母の間に入ってきた侍従の顔に、困惑の色が浮かんでいるのをバテシバは見て取った。

バテシバの前で一礼すると、「アドニア王子様が、お目通りを願い出て外で待っておられます」と侍従は言った。

「これは少し面倒だ。ボンボンのくせに変に野心のあるアドニアのことだ。先だっての謀反の時には、粛正されずに退去を命ぜられ、今でも首の皮一枚でつながっているような者が、王母の私に何の用があるというのか。追い返しても文句の言える立場ではない奴だが、話を聞いて、あれの胸の内を探ってやろう」バテシバは一呼吸間をおいて、「通してやりなさい」と言った。

アドニアは恭しく王母の間に入ると跪いて礼をし、発言を許されるのを待った。

「面倒な用で来たのではないでしょうね」バテシバは少し冷ややかな声色で話しかけた。

「いえ、ご面倒をおかけするようなことではありません。ただお力添えいただけないかと思うことがあるのです」アドニアはあくまでも控えめだが、取り入るような姿勢で答えた。

内容を聞かないことには断じようが無いので、「どんなことですか」と王母は尋ねた。

「これまで物事は私にとってうまくいっておりました。王権は私のものになるはずでしたし、だれもが、次の王になるのは私だと思っておりました。ところが状況は変わって、すべて弟のものとなりました。そうなることを、主が望んでおられたからです」

神の御心を持ち出して、それらしいことを言っているが、ふざけたことを言い出したものだ。確かに今いる王子の中では年長だし、祭司エブヤタルと将軍ヨアブの支持をとりつけたかもしれないが、その他の閣僚や幕僚は支持しなかったし、全国民が支持がしたわけでもない。バテシバは身の程を知らないアドニアの言葉に内心呆れていたが、顔色を変えずに聞いていた。

「そこで今、ほんのちょっとしたことをお願いしたいのです。どうか、お聞き届けください。」

これだけ愚かしい前置きをした後にする願いごとなど、ろくなものではないに違いない。しかし、これを聞けば、王母としてどのように事にあたれば良いかがはっきりするだろう。バテシバは「どんな願いですか」と促した。

「どうか、ソロモン王にお願いしてください。あなた様のお口添えがあれば、王はかなえてくださるはずです。シュネムの女アビシャグとの結婚を許可していただきたいのです」アドニアはさも王母を立てるような表情と声色で話していたが、バテシバは内心爆発しそうな思いでこれを聞いた。

この義理の息子はあまりにも私を軽く見ている。十数歳ぐらいしか離れていない若い義母であるとはいえ、私はあの宮廷参議だったアヒトフェルの孫だ。王宮の流儀や掟は良く知っている。現在は国で一番の美女と言えるアビシャグに惚れ込んでの願いのふりをするとはなんと底の浅いことか。アビシャグはダビデ王の最後の妻と言える存在なのだから、彼女を娶るということは、次の王権を宣言するのと変わらない。そんな大変なことを、こともあろうに王母である私がやすやすと取り次ぐと思ったのか。どれだけ私を馬鹿にしたら気が済むのか。

しかし、バテシバはここでも顔色を変えることは無かった。彼女の心の中には、もう一人の冷静な自分がいた。ここでその願いを退けるのは容易い。しかし、そうするとアドニアは私に恨みを抱くかもしれない。あるいは、自分の野心が私に知れてしまったと思うかもしれない。それが早々に次の謀反の引き金になるかもしれない。エブヤタルやヨアブは役職を奪われたが、まだ存命なのだ。ならば、お前の思った通りの軽い王母を演じておこう。

そこでバテシバは、「わかりました。お願いしてみましょう。」と答えた。

アドニアは平伏して礼をすると、静かに退出したが、内心の喜びが透けて見えるようであった。

愚か者め。バテシバは一呼吸置くと、折を見てソロモン王の所に向かった。

ソロモンの怒りは想定通りのものだった。間も無くダビデの勇士の一人だったエホヤダの子ベナヤがアドニアを処刑したという知らせがバテシバの元にも届いた。







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血統的なカインの末裔は存在しない

2024-10-03 12:35:31 | 奥義書講解・旧約
講解と言う程のものではありませんが、奥義書の記述に基づいた説明ですので、このカテゴリーでお願いします。

 時々「カインの末裔」という言葉が思い浮かびます。有島武郎が同名の小説を書いており、2007年には奥秀太郎監督による同名のオリジナル映画が公開されたからではないかと思います。忍者としては、カインの罪の性質を知っているために、確かにそう言える存在と思える人々がいると感じる部分が有ります。
 翻って、奥義書に戻って考えてみますと、血統的なカインの末裔は今日存在しないのではないかと思われます。ノアの洪水の時には、箱舟に乗った8人以外は生き残ることができませんでした。ノアは奥義書に記録されているアダムとエバの三人目の息子、セツの子孫です。すると、カインの子孫は全滅したことになります。奥義書の記述から考えると、カインの子孫はセツの子孫と没交流の状態ではなかったかと思われるので、セツの妻や息子たちの妻がカイン系の家庭の出身であった可能性は大変低いように思います。
 しかし、神への反逆はカインに始まったことではありません。アダムとエバが神との約束を守らなかったことが人類の性質の根源となってしまいました。ですから、その意味では、精神的、霊的カインの末裔が地上を覆っているのだと考えることはできるでしょう。





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愛の招待状ー「あなたがたも聖なる者とならなければならない」ー(レビ十九章二節)

2024-09-25 15:22:11 | 奥義書講解・旧約
  表題の箇所を全部示すと、「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」となります。この神の言葉は過大で無理な要求のように思われる方も多いと思います。それは、わたしたちが「聖」という言葉の意味をよく理解していないことから来る感想だ思われます。私達は「聖」と聞くと、純粋で罪や汚れが無いことを思いがちです。しかし、奥義書における「聖」というのは、「神のために取り分けられる」「神に属する、神の領域に入れられる」という意味合いであって、その内容が異なります。
  レビ十九章全体は、神のために取り分けられた民は、他の民、民族と異なった、神の与えた行動規範で生活することを求め、示しています。そうすることによって、「聖なる者」となるのです。私達忍者も神が奥義書を通して啓示してくださった規範と教義に従って生活をしています。そうすることが「神のために取り分けられた者」としての歩みになるわけです。だから、私達は聖徒なのであり、聖徒と呼ばれるのです。
  聖なる者となったならば、それは、神に属し、神の支配する国に生きるということです。それは、天の御国における永遠の命に招き入れられることを含んでいます。ですから、この神の呼びかけは、私達に重圧をかけるようなものではなく、むしろ天国への招待状、神の愛の招待状と言えるものなのです。





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ユダ族のケナズ人カレブ(2)

2024-06-06 16:49:48 | 奥義書講解・旧約
 カレブは(1)で述べた通り、イスラエル人がカナンを偵察する時に送られた十二人のスパイの一人でした。この時、神の命令の通りに攻め上ることを進言したのはこのカレブとモーセの従者であるヨシュアの二人でした。残りの十人は、カナン人には巨人がいて、彼らと比較すると自分達はイナゴにように小さいから、とても歯が立たないと言って、民全体の士気を挫いてしまいした。その結果、彼らは神に従わなかったので、荒野を四十年彷徨うことになってしまいました。
 さて、ヨシュア十四章を読むとカナンの地への入植が始まって五年後に、各部族に領地の割り当てを決めるためのくじ引きが有ったことがわかります。ユダ族には規模に合わせて南の方に大きな領土が割り当てられました。その時に、カレブはヨシュアの所に行って、神がモーセを通して四十五年前に約束したように、ユダ族の領地の中で、彼に特定の領地を与えて欲しいと願い出ました。そこで、ヨシュアはカレブを祝福して、カレブが願い出た地域を与えました。その地域はヘブロンと呼ばれる所でした。

 カレブがヘブロンを自分の割り当て地に願い出たのには大事な理由が有りました。
 一つ目は、ヘブロンは巨人であるアナク人の住んでいた地域だということです。四十五年前に、アナク人を見たために、残りの十人のスパイは不信仰に陥って罪を犯し、荒野で死ぬことになりました。カレブは四十五年前と同じ信仰を維持していたので、その地を取ることで、神の約束が確かなものであることを証したかったのだと考えることができます。約百八十年後に、同じユダ族のダビデが巨人ゴリアテに立ち向かった時、彼の心の中には神への信仰だけでなく、語り継がれたカレブの証が有ったのではないかと考えられます。
 二つ目は、ヘブロンはイスラエル人の始祖であるアブラハムに縁の深い土地だったということです。創世記十三章を見ると、アブラハム(当時はアブラム)が神を礼拝する祭壇を築いたことが書かれています。神への信仰を象徴する場所でもあったわけです。それだけではなく、アブラハムは神が子孫たちにカナンの地を与えると約束されたことを信じる証として、マクペラに墓地を買ってサラを葬りました。(イサクとリベカ、ヤコブとレアも葬られました。)カレブは、アブラハムの信仰を自分の信仰としたと言えます。そして、アブラハムの子孫が一つの国となることが神の約束でしたが、カレブがヘブロンを取ったことは、その約束の成就であり証であったのです。





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ユダ族のケナズ人カレブ (1)

2024-06-04 20:01:14 | 奥義書講解・旧約
キャラクタースタディーの一例として、このカテゴリーでお願いします。

 カレブは最初に民数記十三章六節で、カナンの地を探るスパイとしてユダ族から選ばれた人物として登場します。そして、ヨシュア記十四章六節では、ケナズ人という説明がついています。興味深いことに、ケナズという名前を調べてみると、創世記三十六章十一節、十五節の記述から、エサウの息子だ考えられます。また、Ⅰ歴代誌一章三十五節、三十六節の記述では、エサウの孫とも考えられます。いずれにせよ、エドム人の部族の一つを成した人物の子孫だということになるのです。
 エドム人の末裔でありながら、ユダ族に属しているというのはどういうことなのでしょうか。カレブを含むケナズ人は、ユダ族として出エジプトの時に一緒に出て来たのです。詳しい説明は見つけることができませんでしたが、次のように推測することができそうです。
 ヤコブの一族がヨセフを頼ってエジプトに移住した頃は、ケナズは存命だったのではないかと思います。そして、エサウの子たちとヤコブの子たちは、いとこ同士です。ヤコブとエサウは父イサクの葬儀を一緒に執り行っていますから、当時はそんなに険悪な関係ではなかったはずです。ですから、ケナズとユダの間に何等かの親しさや絆が有ってもおかしくありません。年齢の差がどうであったか判りませんが、ケナズがユダの甥だったとしても、何等かのより親密な関係が有ったかもしれません。
 エジプトに起こった飢饉は、カナンにも影響が有ったので、エサウの子供たちもエジプトに食料を求めに行った可能性が高いことでしょう。そこで、ケナズはユダと再会し、神の大いなる御手が彼らと共に有ることを見たのでしょう。そこから、ケナズの一族全体か、一部分かはわかりませんが、ユダという親類を頼って彼らがエジプトのゴシェンに移住したのではないかと思われます。イスラエル人のエジプト寄留の期間は四世代で、聖書の記述では430年となっていますが、ケナズがユダと合流する時期は、初期を除くと可能性が低いと思います。
 出エジプトの過程で、ケナズが元々属していたエサウの子孫であるエドム人は、その領土の通行をイスラエル人に許しませんでした。歴史的にはずっと敵対関係に有り、ユダヤ教的には異邦人であるケナズ人の流れを汲むカレブが、イスラエル人の一族であるユダ族として強い信仰の歩みを示すことには大きな意味、示唆が有ると思います。ケナズ人が、後にイエス・キリストが生まれるユダ族に合流したことは、私たち異邦人がイエス・キリストの体なる教会にユダヤ人と共に建て上げられることの型なのではないかと考えられるように思います。そのように考えると、ケナズ人カレブの物語は、私たちにも関係の深いものになるように思います。


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神殿再建と城壁の再建

2024-03-28 16:10:59 | 奥義書講解・旧約
ちょっとした基礎知識でありますが、このカテゴリーでお願いしたいと思います。

バビロン捕囚の後、クロス王の勅令でユダヤ人の勇士たちがエルサレムに帰還して、神殿の再建をします。そのことは、主にエズラ記によって確認できます。
神殿の基部が紀元前年535年頃に据えられ、紀元前517年頃に奉献が行われました。クロス王の元年に許可が出され、ダリヨス王の6年に完成し、約18年の歳月がかかったことになります。

私達の印象では、ともすると、エルサレムの城壁の修復も直後に行われたように思われるかもしれませんが、ネヘミアの指導によって修復が始まるのは、約70年後です。
その様子は、ネヘミア記で確認できます。六章十五節では、五十二日かけて修復されたと記録されています。

ネット検索で、その頃の年表を探してみるのもよいと思います。





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従順の二重奏 ーアブラハムとイサクー

2024-01-19 10:16:27 | 奥義書講解・旧約
講解という程の内容ではないのかもしれませんが、このカテゴリーでお願いします。

神がアブラハムに、愛する一人子であるイサクを全焼の生贄にするように命じられた箇所の話です。

アブラハムは神に何も尋ねたり言い返したりしせず、翌朝早く準備をして、指定されたモリヤの山の方に向かって旅に出ます。そして、指定された場所に祭壇を築いて、イサクを縛って薪の上に置き、刃物でほふろうとするのです。そこで神のみ使いが来て彼を止め、彼の信仰の従順が義とされました。

ここにアブラハムの従順を見ることができます。へブル十一章十九節は、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。」と述べて、彼の従順の土台となる信仰の有様を解説しています。

さて、奥義書には言及が有りませんが、我々忍者は更に理解しておかなければならないことが有ると思うのです。それは、イサクの信仰と従順です。

アブラハムはこの時、百三十六歳ぐらいではないかと推測されます。根拠は、この後、アブラハムより十歳年下のサラが、百二十七歳で亡くなった記録が有るからです。すると、アブラハムが百歳の時に生まれたイサクは三十六歳ぐらいであったことになります。ですから、イサクが抵抗すれば、アブラハムは簡単に打ち負かされて、彼を祭壇の上に載せることはできなかったでしょう。

祭壇を築いた時に、アブラハムはイサクに神の命令について説明をしたことでしょう。そこには、神の契約の内容の再確認も入っていたと思われます。そして、イサクはよみがえるという確信についても語ったのではないでしょうか。直接試されていたのはアブラハムでしたが、ここではイサクの信仰も試されていたと言えると思います。そして、イサクはアブラハムに従って縛られること、祭壇に乗せられることを承諾したのです。ここにイサクの信仰と従順を見ることができます。

この物語を、へブル書は、「型です」と述べています。イサクは父なる神に同意して十字架にかかるために地上に来られたイエス・キリストの謙卑の予表なのです。

忍者は、アブラハムの従順にはよく目を向けますが、イサクの従順のことを忘れることが多いと思います。この物語は、イサクの従順を抜きには成り立ちませんので、従順の二重奏の物語と言えると思います。






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恥ずかしくない裸、恥ずかしい裸

2023-11-23 20:59:33 | 奥義書講解・旧約
アダムとエバの裸の状態の記述についてです。

恥ずかしくない裸 (創世記 二章二十五節)
 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

恥ずかしい裸 (創世記 三章七節)
 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

 二章の方の裸を表す語は、アロームというような発音になる語で、三章の方の裸を表す語は、エロームというような発音になる語です。
 旧約聖書のヘブル語の辞典を確認しますと、定義はどちらも同じで、単に裸の状態を表しているだけのように見えます。それでは、一体この二つにはどんな区別が有るのでしょうか。コンコーダンスを見ても、いずれの用例も、人間が裸の状態であることをあらわしているだけで、どこに区別が有るのかよくわかりません。
 そこで、他の大忍の解説を探しましたところ、次のような説明を見いだして、成程と思いました。二章の恥ずかしいという語は、水源が枯渇しているというような意味になるということです。恥ずかしくないという状態は、霊的な源である神、命の水との関係が豊かであるという理解ができるということです。恥ずかしくない裸の方のアロームが用いられる場面では、神との正しい関係になることを呼びかけている要素が有るということです。
 更に、アダムとエバが神との関係が豊で、直接会える存在であったことを考えると、彼らも神の与えた栄光を身に纏っていたのではないかと考えられます。モーセが神と会って山から下りると、顔が光っていたために、民が恐れたので、顔に覆いを掛けたという記述があります。神の栄光の光、もしくは雲のようなものが、二人を覆っていたのではないかと考えられそうです。





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誰が全焼のいけにえを捧げたのか (サムエル記Ⅰ十三章九節)

2023-11-03 13:00:23 | 奥義書講解・旧約
イスラエルの初代の王、サウルが、サムエルの到着を待たずに全焼のいけにえをささげた記事についての解釈です。実際に全焼のいけにえをささげた、執り行ったのは誰かということです。考え方は二分されているようです。

1)サウルが執り行った。
2)同行の祭司、アヒアが執り行った。

私は1)の立場から教えられてきました。しかし、2)の立場の方が現実的であると思うのです。

いくらサウルが切羽詰まっていたとしても、自分で動物を処理し、石の祭壇を築いて全焼のいけにえをささげる確率は低いと思います。律法を守る者を体現することが使命の一つであるはずの王が、そのようなことをすることは考えにくいと思います。サウルがそんなことをしようとしたら、兵士たちや同行の祭司やレビ人たちが必ずや止めたであろうと思います。

2)の立場であれば、サウルがレビ系の人々にしか許されていないことをしたという誹りは関係なくなります。しかし、ペリシテに対する恐怖の故に、主の預言者サムエルが伝えた、彼が来るまで待つようにという神の指示を守らなかった不従順の問題は残ります。ですから、どちらの立場であっても、サウルの不従順の罪の問題にかわりはありません。

サウルの基本的態度がそのようなものであったのではないかということは、後に、十五章に示される、アマレクに対する取扱いにおける不従順にも現れていると考えられます。ですから、『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』という二十二節、二十三節の預言は、十三章十四節の『今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。』という預言の追認の意味が有ると思います。






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心を尽くして主に拠り頼め 箴言三章五節

2023-08-17 21:38:41 | 奥義書講解・旧約
箴言三章五節の全文は、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(新改訳第三版より)となっています。

主に拠り頼むこと、完全に信頼して生きることが奥義書全体を通して忍者たちには要求されています。
心を尽くして、という部分は、心を総動員してという意味合いが有ります。そして、心というのは、知性、理性、理由付けをする思考の座という考え方がされています。

神はこういうご存在だから、神はこう約束されたから、神は過去にこのように私と関わってくださったから、というように、様々なありったけの理由づけをして、だから神に拠り頼むのだと自分に言い聞かせる生活をすることが求められています。

その有様は、パウロがよく例えにした、競技者が栄冠を得るために気合を入れて訓練し、競技で戦う有様に似ていると思います。俗な表現をすれば、気合を入れて主に拠り頼めと言うことになるのではないかと思います。

どうしてそのようにしなければならないのでしょうか。それは、後半の記述が示していると思われます。人間は、自分の悟りに無意識のうちにたよっていることが多いからではないでしょうか。それは、多くの場合、自動的に発動してしまうのです。だからこそ、心を尽くして、あらゆる理由付けを自分に言い聞かせて、神に拠り頼む、気合を入れて神に拠り頼むことが必要になってくるのです。実生活において、神に完全に拠り頼むことは容易ではありません。むしろ、難しい場面も多いかもしれません。だからこそ、心を尽くして、気合を入れて神に拠り頼むのです。

ヨシュアが率いるイスラエルの民は、エリコの攻略に成功した後、アイの攻略の時に、神の御心をうかがいませんでした。自らの悟りに立って出撃し、失敗しています。
完璧な模範は、イエスに見出されると思います。ガリラヤ湖の突風の中で、船が沈みそうな時も、ともで眠っておられました。気合の入った神への信頼が有ったと言えると思います。因みに、ヨシュアとイエスは、ヘブル語とギリシャ語の違いが有りますが、共に、「神は救い、神は救う」という意味です。ヨシュアは失敗しましたが、イエスは完璧でありました。

私たち忍者にとって大事なこの戒めを、度々思い起こし、気合を入れ直して歩み続けようではありませんか。






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