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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

妻の理想像というよりは(箴言三十一章十節~三十一節) 補足

2016-11-22 11:05:30 | 奥義書に見る結婚関係のあれこれ
 先のエントリーで、人間は堕落前に持っていた神の賞賛を取り戻したいという内なる欲求が有る故に、この世の生活においても無意識のうちに賞賛を求めており、特に女性にその必要が高いことを述べました。それを、夫婦の間では性差として理解しておくことが大事にあ要素の一つになることもお分かちしました。

 さて、そこで、一つ気を付けておかなければならないと思うことが有りますので補足しておきたいと思います。それは、過度に賞賛を追い求めたり、賞賛を要求することを正当化するような態度です。これはカウンセリングの領域でも、承認依存、アプルーバル・ジャンキーというような表現が当てはめられ、問題の有る傾向としています。私たちはそのような傾向に陥らないように注意する必要が有ります。
 このことの、忍者的問題点は何でしょうか。それは、神への信頼による平安、神からの承認を喜ぶこと、キリストによる完成と聖徒としての歩みを遠ざける行為だからです。それは、思考的偶像礼拝になっています。奥義書も次のように警告しています。

あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。 (イザヤ書二章二十二節 口語訳)

神からいただいた聖徒、神の子としての存在に満足しようとせず、人間からの賞賛を貪欲に求めることは、偶像礼拝であり、価値の無いことです。


主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。
彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。
おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。(エレミヤ書十七章五節~七節 口語訳)

ここでは更に踏み込んで、そのような態度であることは、「のろわれる」ことになるとしています。実際に、そのような態度に陥った人は、いつまでもその心が満たされず、無限に賞賛を求めますから、それこそのろわれ、また塩地にいるような心の状態と言えます。悔い改めて、心を決めて、神にのみ自己尊厳を見出す信仰の姿勢を保持することが必要になります。その結果は、さいわいで、ひでりの年にも憂えることがないものだとこの箇所の後半は私たちに語り掛けています。


 私たちは忍者として、互いに賞賛し、褒めたたえ、感謝し合って生きることが必要ですが、同時に、その姿勢が間違った方向に行かないように注意していなければならないこともご留意いただきたいと思います。






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妻の理想像というよりは(箴言三十一章十節~三十一節)

2016-11-21 18:38:48 | 奥義書に見る結婚関係のあれこれ
 上記箴言には、敬虔な女性の有様等のサブタイトルがつけられていたりします。そして、この記述を妻の理想像であると考える方々が多いと思います。極端な場合には、奥義書講義所の先輩である大忍に聞いた話ですが、これに見合うような生活をすることを義務付けているような家も有るということです。二人でとんでもない話だと言い合ったことを思い出します。
 さて、私、糸田十八は、この箇所については少々異なった理解をしています。妻の理想像を語っているという理解は違うのではないかと思うのです。その理由と、私の理解をご説明させていただこうと思います。

 先ず、理由です。神様は私たち人間を色々な性格、賜物、資質を持った存在としてこの世に送り出してくださいました。どの女性でもこの箇所に表されているような女性になることができるということは有りません。それはどだい無理な要求というものです。本気でそのように生活してみようとしたら、余程体力に恵まれているか、大変効果的な健康法を心得ているかしないと、たちまち健康を害して倒れてしまうだろうと思います。創造主である神様は、そういうことは全てご存じですから、非人間的な無理な要求をなさるはずがありません。それに、夫となる人の仕事なども様々で、皆がこの聖書箇所に出てくるような状況になるとは限りません。ですから、この聖書の記述の要点は別のところに有ると考えるのが適切であると思います。

 では、どのような理解をすることになるのかということになります。十節は「しっかりした妻」という表現をもって始まります。その「しっかりした」ということのまとめとなる言葉が、三十、三十一節に示されていると考えられます。その中心的な要素は、「主を恐れる女」であることです。神を敬い、全き信頼を持って、自分の為すべきことを行う妻であれば、「ほめたたえられる」に値する女性であるということに焦点が有ると考えられます。
 私はこの箇所を更に次のように考えます。天地創造の時、神は人類を創造された時これを「非常に良かった」とされました。(創世記一章三十一節)堕落前の人類は神の賞賛の対象でもあったのです。しかし、罪を犯したために人類は神から与えられていた栄光を取り去られ、その称賛を受けることができなくなってしまいました。その評価は、「人が心に思い図ることは、幼い時から悪だからである。」というものに変わってしまいました。(創世記八章二十一節)ですから、人類は魂の深い所で何等かの賞賛に飢え乾いているのですそれをもう一度満たしていただくためには、「主を恐れる者」となって、イエス・キリストによる神の義を着せていただくしかないのです。
 さて、このカテゴリー、結婚関係のあれこれの観点から述べます。夫婦の間でも褒め合うことは大変大事なことです。主に贖われた同士である男女は、イエス・キリストの救いを受けたという意味で完全にされたのですから、賞賛の関係も回復されなければなりません。そして、堕落の時には女性が真っ先に非難の対象になったことと関係が有るかもしれませんが、女性の方は男性よりも賞賛されることを必要としているのです。女性のそういう傾向は、結婚カウンセリングの授業でも指摘され、性差の理解として重要であると言われました。
 今回の奥義書の箇所に戻って考えますと、この箴言は、妻をその家庭を築く努力に相応しく、褒めるべきであることを示していると考えることができます。そして、それは場合によっては夫婦だけでなく、コミュニティーの中でも知られるような有様でなされるように夫は気配りをしなければならないという忠告を含んでいます。それが最後の三十一節の「その手の働きの実を彼女に与え、その行いのために彼女を町の門でほめたたえよ。」という部分に現れていると考えられます。






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結婚に関する第一ペテロ書三章七節の記述

2016-10-12 11:53:59 | 奥義書に見る結婚関係のあれこれ
 奥義書は結婚に関しては男性に対する要求が責任の重いものになっている部分があります。その詳細は次回に譲ることにしまして、今回は一点だけポイントを絞って確認したいと思います。

 『夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈が妨げられないためである。』(口語訳) 

 この個所は、私が結婚前のカウンセリング、もしくはコーチングをする時に、考察の課題とするものの一つです。

 ギリシャ語テキストでは動詞が有りません。上記口語訳では指示の中心が「尊びなさい」になっていますが、原文にはそのような意味合いの語は用いられていないので、翻訳上の工夫であろうかと思います。複数の英語の聖書がしている翻訳の工夫は、スンオイケオーというような発音になる動詞の分詞形が用いられていることから、「共に生活しなさい(live together)」等の表現にすることです。直訳的には「共に家を営む、家庭を営む」という感じになります。口語訳で「共に住み」とした部分です。日本語の方は、これが分詞であることを示そうとしたのだと思われます。


 さて、前置きが長くなってしまいましたが、この分詞に直接つながっている副詞句が、夫たちの心得るべき大事な要素になっています。共に家庭を営む上での手段、前提が示されています。口語訳にも出てくる「知識」に従って生活しなさいということです。その知識は口語訳が「女は自分より弱い器であること」と訳した部分です。弱いという訳は原義をあまりはっきり表していないと思います。元の感覚は、「壊れやすい」ということです。女性がそれだけ精神的に繊細で傷つきやすい部分が有るということを表しています。それは、神様の創造のデザインでもあるわけです。
 壊れやすい器を想像してみましょう。高級なタンブラーやワイングラスがその雰囲気をよく表していると思います。少しぶつけただけで欠けたり割れたりしてしまいます。子供の時にタンブラーを恐る恐る手に取った時の気持ちを思い出します。女性にはそのような部分が有るという「知識」を夫は持っていなければならないということになります。その知識に従い、その知識を前提にして妻と家庭を営むことが夫には要求されています。
 いや、女性はそんなに弱くないとお考えの方もいらっしゃるかもしれません。しかし、態度や言葉の表現には関係なく、その内面や感性は「壊れやすい」ものが有るという認識に立つ必要が有ります。

 男性はもっと目標に向かって行動していく傾向が有り、感性をあまり重視しない傾向が有ります。また、気軽に無神経な冗談を言ったりしがちです。そういう部分が、妻には耐えがたいものであることが有ります。それは容易に離婚に向かう原因になり得るのです。私が参考にしている本で出ていた実話です。夫が帰宅すると妻は台所でサンドイッチを作っていました。彼は間もなく自分にもサンドイッチが運ばれてくると思ったのですが、妻は子供と一緒にサンドイッチを食べ始めました。夫は「どうして僕のサンドイッチは無いの?」と尋ねると、「本気で言っているの?あなたはいつも私が作るサンドイッチに、レタスが乾いているとか、何かが足りないとか文句を言っていたじゃない。あなたがサンドイッチを食べたいなんて、少しも思わなかったわ。」という答えが返ってきました。そういうただの事実を述べただけのように思える言葉が、妻には大変傷つく言葉だったのです。実際のカウンセリングの時に、私たちにもそういうことが有りましたと言って、体験を語られた女性の方がいらっしゃいました。男性は、ある意味、そういう知識が無いと無神経な言動をすることが多くなるのです。

 男性の皆さんは、何かを取集していた経験は有りませんか?それを磨いたり、ほこりを払ったり、力加減にすごく注意して手に持ったりしたことはありませんか?腫れ物に触るような恐れではなく、愛と気配りの中で、喜んでそうしていたのではないでしょうか。それが妻に対してもいつも必要であり、その現実を受け入れ、その知識に基づいて行動しないさいと、奥義書は命じているのです。そうする時、忍者たる妻たちは、それを悪用するのではなく、さらに良く「共に家庭を営む」ことができるのです。





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結婚に関する創世記三章の記述 付録

2016-09-29 21:20:48 | 奥義書に見る結婚関係のあれこれ
 創世記三章には神からエバに次のような言葉が語られています。

 『つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。』

 ここで、「治める」と訳された語は、「治める、統治する、支配する」というような意味が有ります。それで、男性忍者の中には、妻に対してそのような姿勢、振る舞いをすることが神の御心であるという理解をする人がいます。しかし、それはこの個所の理解が不十分であることを示しています。
 神からエバに語られたこの言葉は、彼女、ひいては女性の子孫に対する呪いの内容を示しています。つまり、夫が妻に対してそのような態度や振る舞いをするなら、それは呪いなのだということです。間違った理解をしている男性忍者は自分の妻に呪いをもたらしていることになります。もし、そのような理解を示している男性忍者に出会った場合には、その理解を正していただきたいと思います。
 では、神の御心に適った有様はどういうものになるのでしょうか。神の恵みによって神との関係を回復した存在である忍者夫婦の在り方は、イエス・キリストが命じたように、「神を愛し、互いに愛し合う」ということを実践することにあります。その理解には、支配的な姿勢は含まれないはずです。具体的な姿勢や指示は、このカテゴリーで奥義書の新約の部分で扱いたいと思います。







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結婚に関する創世記三章の記述

2016-09-29 00:04:59 | 奥義書に見る結婚関係のあれこれ
 創世記三章には人類の堕落の様子が記されています。(私、糸田十八は、所謂福音派の改家に属する忍者でございます。立場を異にする方々はその点は目をつぶっていただきたいと思います。)

 堕落につながった心の姿勢は「神にいただいた状態よりもっと良くなりたい」「神以外の方法でもっと良くなりたい」と表現できる部分が有ります。神の栄光をいただいて創造された人間ですが、その神を蔑ろにしてなお神の栄光に留まることは有り得ません。神の栄光は人類から取り去られ、霊と肉の死が入って来ました。そして、その有様が結婚にも当然影響を及ぼすことになるのです。

 「現実の自分よりも良くなりたい」「神以外の方法で良くなりたい」という法則が結婚にも入り込んで来るとどんなことが起こるのでしょうか。

 先ず、エバが善悪を知る木の実を食べる時に、彼女はアダムに相談をしませんでした。結婚においては、夫も妻も家族の意思決定において相談されないと軽視されたと感じて傷付くことが有りますが、特に男性の方は権威に対する挑戦を受けたというような気持ちが働き、必要以上に反応してしまう場合が有ります。エバのこの行為は、アダムの気持ちを強く突き動かしたと想像されます。この時、アダムは神の権威に従うことによって自分の尊厳を保つことを選ばず、エバと同じ行動をすることによってそれを得ようとしたと考えられると思われます。つまり、先に示した罪の法則のサイクルが始まってしまっているのです。

 次に、神がアダムとエバに質問をする場面にそれは現れます。「食べるなと命じておいた木から取って食べたのか?」という問いに対して、アダムはエバを晒し者にするような発言をします。彼は現実の自分を少しでも良く見せる方法を求めました。自分は悪くないと考えられる方法を見出そうとしました。正にそれは、「現実の自分よりも良くなりたい」「神以外の方法で良くなりたいという姿勢によって生み出されたものです。エバの弁解も同じです。また、この時、エバはアダムの言葉に裏切りを感じ、酷く傷ついたことが想像できます。女性は特に男性には想像もつかない繊細な部分が存在し、男性からのちょっとした非難や嘲笑に大変傷つく部分が有ります。

 この姿勢は、神を愛さない姿勢です。そして、神を愛さない姿勢は、他人を愛さない姿勢につながるのです。配偶者の言動に怒りを感じたりした時には、自分が繰り返し確認した二つの法則が自分の思考の中に働いていないかを立ち止まって考える必要が有ります。

まとめ
 結婚における障害となる事柄が、三章には示されていました。重要なのは男女の性差に関係なく働く法則は、先に示した二つです。
「現実の自分よりも良くなりたい」「神以外の方法で良くなりたい」という姿勢で行動する時に、夫婦は傷つけ合う結果になることが有ります。

 更に、人間は称賛を必要とする部分が有ります。神は人間を創造され、全ての創造を終えられた時に、全ての物を「よし」とされました。その称賛を、人類は罪を犯すことによって失ってしまったのです。しかし、人類の魂は深い所でその称賛に対する渇望が有るのです。夫婦は特に神によって結び合わされた者同士として、意識して感謝し合い、褒め合うことが必要になります。それが、神との正しい関係にイエス・キリストの恵みによって戻された者同士の取り組むべき領域です。

 そして、特に女性が気を付けなければならないことは、男性は権威を傷付けられたと感じる時に自らを律するのが難しくなるという事実です。また、特に男性が気を付けなければならないことは、女性は傷つきやすい部分が有り、特に非難には敏感であるということです。


 なお、創世記三章に関しては、「いちじくの葉を捨てて生きる」というタイトルでアップロードした記事もご一読いただければ幸いです。







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結婚に関する創世記一章と二章の記述

2016-09-25 22:49:44 | 奥義書に見る結婚関係のあれこれ
 一章二十六節に人間の創造に関する記述がなされ、二十七節に最初から人間は男と女に創造されたことが記述されています。ですから、二章の記述を、女性が後付けで創造されたと考えることはできません。
 では、どうして女性の創造は同時ではなかったのかということを考えます。二章二十節は、男性にふさわしい助けてが見つからなかったと記しています。女性の創造の時間差は、男性に自分には足りない部分が有るということを自覚させるための意図が有ったと考えるのが順当であると考えられます。そのことが明らかになった時点で女性が創造されました。男性にとって、女性が大事な存在であることを自覚させるための時間であったと考えられます。
 実際、男女が結婚するまでにお互いに大切な相手を見つけるのに時間がかかります。その過程で、お互いがどう補い合わなければならないのかを考える必要が有り、それをきちんと突き止めたり考えたりすることが大事になります。自然に生まれつき相手が決まっているようなことがありません。それは最初の男性の意識、現実においてもそうであったと言えるのではないでしょうか。

 女性の創造に関しては、それが男性のあばら骨から取られたという記述が有ります。心臓に近い骨という連想で考えることが一般的であると思います。女性を大事なパートナーとして尊重することを象徴していると考えられます。

 二十三節の記述について、知り合いの大忍が興味深いことを述べておられました。アダムはエバを見た時に大変感動して彼女を「わたしの骨の骨、肉の肉」と表現しています。それだけの一致や相性というようなものを感じたのでありましょう。しかし、アダムはそこで神への感謝の言葉を述べていないのです。人間の神を忘れる姿勢はすでにその時点で芽生えていたのかもしれない、ということでした。その上、アダムの言葉は、「わたしの」という表現になっています。神にいただいたパートナーでありますが、「わたしのもの」という態度になっています。この態度も結婚の妨げになっている場合が有るという理解ができそうです。

 二十四節は「それで」という理由を示す言葉でつないで、男女は親を離れて結び合わされるという記述がなされています。アダムとエバに人間的な親はいませんでした。「それで」というのは、それと同様な状況に合わせるようにしてということと理解できそうです。実際問題として、結婚する男女のどちらかでも親から精神的に、また財政的にも独立していないと、その結婚は大変なものになることは明らかなのではないでしょうか。


 まとめのようなことはいたしませんが、大事なポイントはお分かりになるのではないかと思います。

 カテゴリーとして追加しました。今後も少しずつポストを加えていくつもりです。





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