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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

献花 8

2023-02-23 22:40:51 | 献花による礼拝的思索


この献花を観察し、瞑想を始めた時、あまり強く訴えかけて来るものは無いように感じていました。いつものように、赤い花からは、イエス・キリストの贖いの血と、救いの恵みを思いました。白い花は、イエスの義を着せられた聖徒達を思わせました。ピンクの花は、赤と白の中間色ですが、イエスの恵みとイエスからいただいた義の両方を心に留め続ける態度を表したもののように思いました。

あまり強い印象が無く、ここまでの思索で終わりかなと思って観察を続けますと、突然はっと気づくものが有りました。緑色の何かが突き出ているなと思ったのですが、それが麦の穂だということに気付いたのです。

聖書では、イエスは、よみがえる者たちの初穂だと表現されています。麦の穂はこの献花から四方八方に伸びています。イエスの血の恵みと、イエスの義を着せられた恵みを受けた聖徒たちの行き着く所は、よみがえりのイエスに続く穂として天に迎え入れられることです。この献花は、福音の要素である復活と神の国で永遠に生きる希望の信仰をはっきり告白しているではないか、と私は思いました。そして、今日でも、世界中で、そういう信徒が起こされ、また、天に迎え入れられている魂が起こされているのです。

私たちを贖い、義とし、復活と天の希望を与えられた唯一の恵み深い神に、栄光が永久にありますように。






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献花 7

2018-04-24 21:39:29 | 献花による礼拝的思索


彩という点ではやや地味な感じがしますが、赤系でまとめてあり、背景を支える緑の感じも良いなと思いました。

さて、私がこ献花を通してした礼拝的思索は以下の通りです。

中央に三つ配置された牡丹が三位一体の主を思い起こさせました。私達の全ての領域にこの三位格が働いていてくださる恵みを先ず思い、先ず礼拝するという所に最初に気持ちが引き付けられました。周囲に配置してあるチューリップよりも大きく、また浮き上がるように少し薄めの赤、もしくは濃いピンクを使ったことで、そのような効果が出た、と思います。献花をされた方にそのような思いが有って、見た人達がそれを感じられるとしたら、素晴らしい公同の礼拝を導くものになっていると思います。

周囲には濃い赤を湛えたチューリップが配置されています。これは忍者としてはイエス・キリストの贖いの血を思うところではないでしょうか。それが、献花の表現の全体に散らばるように配置されています。私達の忍者としての生活や歩みの背景に、いつも聖別された恵みを思い、この世とは異なる戒めに従って行くことを思わされる部分が有りました。

背景となっている緑は、赤と同様に典礼色に含まれていて、命を表します。三位一体の主の働きと贖いの血潮に支えられた生き方が広がり溢れる様子に考えられると思います。礼拝の最後に忍者を世に証人として送り出す、定型の派遣の言葉を述べる里が有りますが、それが献花にも表れているような気がしました。





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献花 6

2016-08-08 11:54:34 | 献花による礼拝的思索
 現在お仕えしている単里の忍者が、献花のプロジェクトをしてくださいました。生花を用いることがあまりできない状況ですので、造花のアレンジメントとなりました。感謝をすると共に、礼拝の後に献花からどのように賛美の心を読み取るかの説明をさせていただきました。


 最初に目立つのは、下の方に配置された大きな赤い花です。ダリアのような形のものです。イエス・キリストの血潮による救いが私たちの礼拝の基調となることを思い起こさせます。
 そこから立ち上がるように白い花が配置されています。また、隣にも白い花が置かれました。主にいただいた義、主の清め、聖めに与ったことを宣言するように見ることができます。全体の配置の一番上までその白い花が届くように配置されています。天国につながることを思うことができます。
 また、スミレ色もしくは紫色が二種類の花の形で配置されています。貴族の色、王族の色ですので、私たちが神の目に尊いものとされたことを思うことができます。
 ここまでの花の色については、私たちへの恵みではなく、イエス・キリストのご性質を思って賛美するという見方もできます。

 黄色の花は、スミレ色、紫色との配色の相性が良いものです。黄色のイメージはあまり肯定的でない場合も有りますが、ここでは、喜びの表現として考えるのが良いのではないかと思います。
 幅広の緑色の葉が背後を支えるように配置されています。棕櫚のような、キリストを賛美して迎え入れる気持ちを表現しているように思えます。
 
 全体的な方向のイメージは上に向かって行くものになっています。天に在るもの、神に目を向けるというイメージにつながります。
 そういう方向のイメージから考えた時に、少し趣が異なるのが、下に垂れ下がっている緑色の花ということになろうかと思います。緑色は私が以前所属していたある改家の典礼色においては、命を象徴する色となっています。ですから、キリストに根差した命が溢れ流れ出ることを表し、感謝し、賛美するという表現ととらえることができます。

 欲張ったことを言えば、花瓶の淵、赤い花の下辺りに、見えるように青いリボンを結ぶと、大祭司であるキリストの執り成しを思うことができるように思いました。ただ、色の配置として良いかどうかという問題がありますし、表示の表現でもそれは十分に表わされている内容だと思います。






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献花 5

2016-03-06 23:18:13 | 献花による礼拝的思索
SNSで見つけた礼拝の献花です。   

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クリックしてご覧ください。

直接画像を使用するのは憚られますので、リンクでご覧いただくようにしてあります。
関心を持っていただけるようでしたら、一度ご覧になって、以下の思索にお付き合いください。


花瓶は青を基調としたものを用いています。青は大祭司の色ですから、イエス・キリストに土台しているというイメージを呼び起こすことができます。

花瓶に差されているもののうち、先ず画像左側の葉は棕櫚のような形に見えます。ホザナと声を上げてイエス・キリストを歓迎する賛美の心を表すことができると思います。

その他の緑も、キリストに在る命というイメージで捉えることができます。

次に、白い花は、キリストによって清められたこと、義を着せられたことを連想させる部分が有ります。そういう部分への感謝の祈りを導くことができると思います。

黄色の花は、明かり、収穫などのイメージで、恵と考えることができます。


まとめると、私たちは大祭司であるイエス・キリストに土台し、イエス・キリストを歓迎して生き、その生活の中にイエス・キリストの清め、義と頂いた全ての恵に感謝して礼拝者としての生活をするという礼拝の心を表す、もしくは導く献花になっていると考えることができると思います。






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献花 4

2015-07-26 23:29:20 | 献花による礼拝的思索
 写真が実際の色彩を良く反映していませんが、ご勘弁ください。

 今回は、淡い青、炎を思わせるオレンジ色、赤、葉の淡い緑が全体にバランス良く組み合わされた献花になっていると思いました。

 各色が思い起こさせること、象徴していると考えることができる事柄は以下のようになります。
 青-大祭司の色、キリスト、執り成し
 オレンジ-炎、聖霊、清め
 赤-キリスト、キリストの血、罪の贖い
 緑-命

 このように考えて礼拝的思索の内にこの献花を見ていると、イエス・キリストの執り成しと贖いの恵と、その結果として命と更なる清めや内在の聖霊の刻印、保証の恵への感謝と賛美向います。また、自分自身をそういう恵の中に置かれた存在として再認識し、その生き方を「生きた供え物」として行こうという確認と告白につなげていくことができると思います。








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献花 3

2015-02-08 21:03:04 | 献花による礼拝的思索
 


 ↑クリックしていただくと大きく表示されます 

わざわざカメラを持ち歩きませんので、今回も携帯カメラで画質が良くありませんがご勘弁ください。

 この献花を見て私は次のような礼拝的思索をいたしました。

 花瓶はガラス製でしたが、赤いものを用いています。私たち忍者の人生の土台はキリストの十字架の贖いであることを思い起こさせるものになっていると思います。
 その土台に支えられている花は、葉も一緒にアレンジされて、白と黄のものが飾られています。白はキリストの贖いにより義とされたことを思い起こさせます。黄は恵の色と考えることもできると思います。緑は改家(長老改革派のことです)のリタージカルカラーにおいてはキリストに有る命の象徴です。

 そういうわけで、この献花はキリストに有って贖い取られたことを土台とし、神に着せられた義と命と恵の中に活かされている祝福と人生を現し、主に感謝と礼拝を捧げる表現になっていると考えることができると思います。



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献花 2

2014-10-12 22:51:40 | 献花による礼拝的思索


インターネット礼拝から見つけた映像です。

私の考え過ぎかもしれませんが、この献花には礼拝の表現が比較的よく表されていると思いました。


上に立ち上がるように緑色の葉がアレンジされています。形は違いますが、イメージとしてはメシアを歓迎する棕櫚の葉のように見えます。私たちが礼拝で主に会い、主をお迎えし、主を礼拝する心を表現できていると思います。

その緑色の葉は赤い花を囲むように配置されています。私たち忍者はイエス・キリストの救い、十字架の血潮の贖いを信じ受け入れた存在です。この花の配置がそういう私たちの存在をも表しているように思います。このような象徴的表現で、この献花は主を賛美し、礼拝する表現になっていると思います。



下の方に配置されている青い花と白い花も幾つかの意味合いを表現できているように思います。

青は大祭司の色です。私たちの大祭司はイエス・キリストです。その大祭司の働き、十字架の血潮の贖いによって私たち忍者は神の目に聖いものとして受け入れられる存在となりました。下の方に白い花が少し多目に配置されていることがそういうことを連想させます。

違った見方では、下の白い部分を祭司やレビ人の象徴として考えることができます。大祭司と祭司、レビ人達が共に仕えて礼拝を司ったように、私たちもキリストの証人となって、神の力と私たちの存在が組み合わされた中で神を礼拝し、またイエス・キリストの死と復活を証し続けている様子を連想することもできると考えました。



皆さんも、教会に飾られた献花から礼拝の表現を読み取ることを考えてみてください。花を生けた本人がそのような考えを持っていなかったとしても、見る私たちが礼拝の瞑想を深めることができるなら、それが礼拝の思いを深め、またその時間の主との交わりを更に深める部分が有ると思います。






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献花 1

2014-04-28 00:15:59 | 献花による礼拝的思索
   ←クリックして大きなサイズで見ていただくことができます。


礼拝堂に飾られた花を通して、礼拝の表現を考えるカテゴリーを新設いたします。頻繁にアップはできませんが、機会が有れば少しずつ加えていきたいと思います。


今回の画像は解像度が良くありませんで、色合いも実物とかなり違いますが、ご容赦ください。

一番高い部分に有るのは紫色の花です。あやめ科のものだと思います。高貴な色の紫という連想から、神様が一番上に見られ、置かれているという意識、意味合いを思いました。

その一段下にはおなじくあやめ科と思われる白い花が配置されています。清められた、或るいは聖別された私たちを連想いたします。その聖化は、主イエスのご芳血によるのだという連想が、その下に固まっている大き目な花から出てきます。画像では色合いが悪いのですが、濃い赤が混じっていてそうい連想ができるようになっています。

その花から下は、彩度が落ちて判らなくなっていますが、細かい黄色い花がついた細い枝が分かれ出るように配置されています。二つのことを思いました。
  一つは、イエスの血潮の贖いに至るまでに、いろいろな歴史と神の摂理が有ったということです。そのことを思うことも霊想を深めることになると思います。また、感謝の念を持って思うことになると思います。
  二つ目は、イエスの贖い以降、様々な恵がそこから流れ出ているということです。


そういう一つ一つの要素を心の内に告白し、感謝の祈りを捧げながら他の忍者が奉げた花の意味を推し量り、自分の信仰告白とすることも、礼拝の形として認識されるべきであると思っています。







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