糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

適用は聖霊の導きと忍者本人の責任による

2019-10-14 09:34:52 | 忍者的思索・忍界
 大忍の奥義書講解(説教)において、その適用が聞く忍者の世代や生活感覚から乖離しているから、大忍にもそれなりの社会生活の経験を積んで欲しいというような要望を聞くことが有ります。大忍が高齢化のために、感覚がずれている場合も有るという指摘も聞こえます。
 確かに、大忍に任じられる者は見識が広いに越したことは有りません。しかし、社会全般に渡ってもれなく見識を持つことは不可能ですし、世代による認識の違いは確実に有ります。また、分類すれば16以上有るとされる性格プロフィールの中には相性の悪い組み合わせも有り、大忍と忍者の組み合わせがそれに当てはまっていたりすると、奥義書講解も把握しずらいということも出てきます。そこからよく考えると、大忍の示す適用が忍者達に合うようにするというのは、中心的な要素ではないと思われます。

 奥義書から神の声を聴くという礼拝形式には、忍者本人が傾聴する姿勢を捧げるという要素が有ります。大忍は、その捧げものを助けるために、文化背景、語彙の確認等をして、最初に霊感を受けた記者の伝えようとしたことをより正確に理解にできるようにするのが務めです。その上で、その忍者の生活への適用がどうなるのかということを述べて、忍者の生活がキリストの証人としての歩みとなり、生きえた供え物となるように導きます。

 しかし、先に述べましたように、万人に通じるような適用の提供はできません。ですから、大忍が提供した適用が自分に合うかどうかという部分は、必ずしも大忍に求められるべき事柄ではないと言えます。

 それではどう考えたら良いのでしょうか。先ず大事なのは、奥義書の言葉は聖霊の助けと導きによって読み、また個人的な適用を導いていただくということです。だから、奥義書の言葉を反芻し、思い巡らし、瞑想をするということが大事なのです。私の師匠は、「奥義書講解において、何でも細かく語ろうとしてはいけません。それは、忍者の中に働く聖霊を、肉の働きで邪魔することになる場合が有るからです。聖霊に働いていただくことが必要です。」と訓示されたことがあります。
 また、自分の適用は何だろうかと自ら進んで考える責任が忍者には有ります。詩編の記者の態度からもそれは伺い知ることができます。「神よ私をさぐり、心を知ってください。」という告白は、自分にはさぐりきれないので、全能の主に自分の心の有様を示してくださいと願う祈りです。そこに至るような、自発的に自分の状況を考え、適用を主に、また、聖霊に導いていただこうとする姿勢が不可欠なのです。
 そのような取り組みとして、準セルグループ的な取り組みをしている里を訪れたことが有ります。礼拝の後に、グループ毎に集まって、適用について自ら考え、分かち合いをし、それを大忍に報告するという取り組みをしていました。大忍任せの聞きっぱなしにはしないということが、主の前に責任有る忍者の取り組み、歩みであると考えます。一方、大忍は、そのためにも、パウロが祈ったように、忍者の霊の目が開かれるように祈り続けているのです。






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