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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

引っ越しのお知らせ

2025-06-17 02:46:20 | Weblog
goo blog のサービス停止が決定されたことを受けて、Ameba ブログに引っ越すことにいたしました。

下記URLから引き続きご覧いただければ幸いです。

https://ameblo.jp/barzillai21c/

ペンテコステに関して覚えておくべきこと

2025-06-11 19:30:47 | 奥義書講解・新約
聖書講解というよりは、背景の研究・確認のようなものですが、このカテゴリーでお願いします。

1)二つの初穂―過ぎ越しと五旬節:大麦と小麦の初穂の供え物
  ユダヤ教の三大例祭のうち、過ぎ越しの祭りと五旬節の祭りは、巡礼者たちにとっては一組のようなものでした。間が50日しか開いていないので、二回の往来をするよりはエルサレムに滞在して両方を祝ってから自分達の国に帰ることが通常でした。
  この二つの例祭には、初穂を神に供えるという共通点が有ります。
  過ぎ越しの祭りの期間最初の安息日の次の日、日曜日に、大麦の刈り取りをして一オメルの束にして神殿に運びました。大麦の束は揺祭として神の前で揺り動かされました。同時に、種を入れないパンの要領で大麦の粉と油を混ぜたものを捧げました。
  キリスト教においては、これらの大麦の供え物は、全人類の初穂となって死人の中からよみがえったイエス・キリストと、罪の無い存在であったイエス・キリストが罪の贖いのために父なる神に供えられたことの象徴になっています。イエスの十字架の死によって、例祭の意味が完成したのです。
  五旬節は、過ぎ越しの安息日から七週(四十九日)経った次の日、日曜日(五十日目)に、小麦の初穂の供え物として、種を入れて焼いたパンを神の前で揺祭として揺り動かしました。種入れるのは、人間の罪の性質をも含めて神の民が受け入れられることを象徴しています。この時、パンは二個供えられます。それは、ユダヤ人と異邦人を象徴しています。エジプト滞在中にエドム人に一部が合流したり、出エジプトの時にもケニ人などが一緒に行動したように、ユダヤ人と異邦人が共に神に受け入れられてきたことを示していると考えて良いと思います。
  キリスト教においては、その日に神殿にいた人たちが認識できるように、激しい風のような音と響き、炎のように別れた舌(理解困難ですが、視認できたことが大事です。)、ガリラヤ人が学んだことのない諸外国語で神の偉大な業を語るという印を伴って聖霊の力が弟子たちに臨んだ日と重なります。人々が言ったように、そこにはユダヤ人も改宗者・異邦人もいました。そして、ペテロの説教の後に三千人が信仰に入ったと記録されています。彼らが、新たに聖霊の働きによって神の民となる初穂となったのです
  当時の五旬節の祭りの実践には、もう一つ象徴的なものがありました。旧約聖書のルツ記が朗読されたのです。それは、ナオミとルツが大麦の初穂の頃にユダの領地に戻り、ボアズとルツが小麦の初穂の頃に結婚することになったという理解に基づきます。ここにも、ユダヤ人と異邦人の結合の物語を見るのです。そして、家系的にはこのボアズとルツの子孫としてイエス・キリストが生まれたのです。イエスが信仰の創始者であり完成者であるということに、この事実も関わっていると言って良いのではないでしょうか。律法の定めた祭りの意味が、イエスにあって成就し、完成したのです。
  イエスの復活と、五旬節の聖霊の降臨による教会の誕生はどちらも日曜日でした。ですから、主の日として、日曜日を尊ぶことが初代クリスチャンから始まりました。(このことは、安息日である土曜日を尊んで礼拝する実践を否定するものではありません。)

2)二つの目に見える印―復活のイエス(信じる者に)とペンテコステの印(未信者に)—
  復活のイエスは、イエスに従っていた者たち五百人以上に姿を現し、食事を一緒にしたりして、ご自身の体を伴った復活を証明しました。だからこそ、イエスのことを信じなかったイエスの兄弟たちもイエスを信じるようになり、弟子たちと一緒に集まって祈りに専念したのです。
  しかし、神の御計画はそこに留まりませんでした。忠実に律法を守って例祭に集まるユダヤ人と異邦人の神を敬う人々にも著しい印を見聞きさせて、イエスがメシアであることを証明することが御心でした。神がそのように取り計らってくださったからこそ、ペテロの説教の後に三千人の信じる者が起こされたのです。

3)神の約束の到来(ヨエルの預言の成就と、約束の聖霊の力)
  イエスに従う者たちと使徒たちに聖霊の力が臨んで、神の偉大な働きを宣べ伝えさせたことは、ペテロの説明の通りに、ヨエルの預言の成就でした。ペテロは聖霊の導きによって確信をもってこのことを断言しました。神のみ言葉は必ず成るのです。
  ヨエルの預言の言葉から判ることがあります。このような目的のための聖霊の力は、旧約の士師や預言者の時と異なり、老若男女問わず、身分を問わず与えられるということです。これが、イエスが弟子たちにエルサレムに留まって待ちなさいと命じられた、神の賜物だったのです。
  旧約の預言という約束でも、イエスが弟子に与えた聖霊の約束でも、神の約束は必ず守られ、履行されるのです。そして、この流れの中で最も大事な結論は、「主のみ名を呼ぶ者はみな救われる」ということなのです。私たちは、この約束を握って生きているのです。






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バテシバ考(補足)

2025-06-04 15:40:32 | 奥義書講解・旧約
以前アップしたバテシバの考察が見当たらなくなってしまいました。削除した記憶はないのですが。取り合えず、その時の考察の一部を短編風に書き出してみました。


「おや、ただ事ではなさそうね。」
王母の間に入ってきた侍従の顔に、困惑の色が浮かんでいるのをバテシバは見て取った。

バテシバの前で一礼すると、「アドニア王子様が、お目通りを願い出て外で待っておられます」と侍従は言った。

「これは少し面倒だ。ボンボンのくせに変に野心のあるアドニアのことだ。先だっての謀反の時には、粛正されずに退去を命ぜられ、今でも首の皮一枚でつながっているような者が、王母の私に何の用があるというのか。追い返しても文句の言える立場ではない奴だが、話を聞いて、あれの胸の内を探ってやろう」バテシバは一呼吸間をおいて、「通してやりなさい」と言った。

アドニアは恭しく王母の間に入ると跪いて礼をし、発言を許されるのを待った。

「面倒な用で来たのではないでしょうね」バテシバは少し冷ややかな声色で話しかけた。

「いえ、ご面倒をおかけするようなことではありません。ただお力添えいただけないかと思うことがあるのです」アドニアはあくまでも控えめだが、取り入るような姿勢で答えた。

内容を聞かないことには断じようが無いので、「どんなことですか」と王母は尋ねた。

「これまで物事は私にとってうまくいっておりました。王権は私のものになるはずでしたし、だれもが、次の王になるのは私だと思っておりました。ところが状況は変わって、すべて弟のものとなりました。そうなることを、主が望んでおられたからです」

神の御心を持ち出して、それらしいことを言っているが、ふざけたことを言い出したものだ。確かに今いる王子の中では年長だし、祭司エブヤタルと将軍ヨアブの支持をとりつけたかもしれないが、その他の閣僚や幕僚は支持しなかったし、全国民が支持がしたわけでもない。バテシバは身の程を知らないアドニアの言葉に内心呆れていたが、顔色を変えずに聞いていた。

「そこで今、ほんのちょっとしたことをお願いしたいのです。どうか、お聞き届けください。」

これだけ愚かしい前置きをした後にする願いごとなど、ろくなものではないに違いない。しかし、これを聞けば、王母としてどのように事にあたれば良いかがはっきりするだろう。バテシバは「どんな願いですか」と促した。

「どうか、ソロモン王にお願いしてください。あなた様のお口添えがあれば、王はかなえてくださるはずです。シュネムの女アビシャグとの結婚を許可していただきたいのです」アドニアはさも王母を立てるような表情と声色で話していたが、バテシバは内心爆発しそうな思いでこれを聞いた。

この義理の息子はあまりにも私を軽く見ている。十数歳ぐらいしか離れていない若い義母であるとはいえ、私はあの宮廷参議だったアヒトフェルの孫だ。王宮の流儀や掟は良く知っている。現在は国で一番の美女と言えるアビシャグに惚れ込んでの願いのふりをするとはなんと底の浅いことか。アビシャグはダビデ王の最後の妻と言える存在なのだから、彼女を娶るということは、次の王権を宣言するのと変わらない。そんな大変なことを、こともあろうに王母である私がやすやすと取り次ぐと思ったのか。どれだけ私を馬鹿にしたら気が済むのか。

しかし、バテシバはここでも顔色を変えることは無かった。彼女の心の中には、もう一人の冷静な自分がいた。ここでその願いを退けるのは容易い。しかし、そうするとアドニアは私に恨みを抱くかもしれない。あるいは、自分の野心が私に知れてしまったと思うかもしれない。それが早々に次の謀反の引き金になるかもしれない。エブヤタルやヨアブは役職を奪われたが、まだ存命なのだ。ならば、お前の思った通りの軽い王母を演じておこう。

そこでバテシバは、「わかりました。お願いしてみましょう。」と答えた。

アドニアは平伏して礼をすると、静かに退出したが、内心の喜びが透けて見えるようであった。

愚か者め。バテシバは一呼吸置くと、折を見てソロモン王の所に向かった。

ソロモンの怒りは想定通りのものだった。間も無くダビデの勇士の一人だったエホヤダの子ベナヤがアドニアを処刑したという知らせがバテシバの元にも届いた。







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イエス・キリスト半端ないって

2025-02-25 13:56:09 | 忍者的思索・奥義書より
マタイによる福音書二十三章十三節から三十九節を確認した時の感想です。「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。」と叱られるイエス・キリストの一連の言葉の中に、三つのことを見いだしました。

三十二節で、「 おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。」と言っています。その意味するところは、「あなたたちは前々から私を殺すことを計画してきている。それを実行に移しなさい。」ということになります。ご自身のメシアとしての使命を全うする準備は整っているということです。そして、三日程後に、実際に十字架にかかるのです。

三十七節で、「わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。」と言っています。翼の下に集める、翼で守るイメージは、詩編九十一編四節などで判るように、神の加護のイメージです。敵対し、イエスを殺そうとしている律法学者、パリサイ人たちに、「私は神としてあなた方とその弟子たちを神の国の守りの中に招いたのだよ。」と言っていることになります。「私は神だよ。」と臆面もなく言ったことになります。

三十九節で、「 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」と言っています。詩編百十八編二十六節の引用が含まれています。それは、メシアを歓迎する詩編です。イエスは重ねて、私は旧約聖書に約束されたメシアだよ、と言ったことになります。パリサイ人たちにしてみれば、殺意が増し加わるであろう宣言をきっぱりされたことになります。また、旧約の預言書や黙示録の記述などを考え合わせると、世界の終わりのイエスの再臨の予告も含まれることになります。

当然と言えば当然なのでしょうけれども、人間的には死のニ三日前に、敵対する律法学者やパリサイ人に、このようにきっぱりご自身のアイデンティティを突きつけ、あなたがたの抹殺計画を実行しなさいと言ったことに、イエス・キリスト半端ないと思った次第です。





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使徒パウロが作ったキリスト教?

2025-01-17 12:31:56 | 忍者的思索・奥義書より
ネット上のコメント欄を見ていますと、頻繁に忍者でない人たちが「キリスト教はパウロが作った」と理解できるようなコメントをしています。イエスにはキリスト教を興す考えは無かったというのです。しかも、どこの里の所属か判りませんが、大忍と名乗っている人まで同様の理解を支持している場合が有ります。しかし、奥義書をよく読めば、そういう理解にはならないはずです。

先ず、イエスは大宣教命令を出して、福音を伝えるように指示しました。そうすると、その中には霊的な原則や神との関係が含まれますから、世間一般にはそれは宗教に分類されるものです。初期にはその教えに従う者は、ユダヤ教の一派と思われましたし、道の者などの呼ばれ方もされました。ですから、宣教命令の結果、現在キリスト教と呼ばれる教えや体系が出て来るのは必然です。その意味ではイエスがキリスト教を興したと言って然るべきであると考えます。

次に、パウロが作ったという部分について考えます。確かにパウロの宣教の影響は計り知れませんが、教義に関しては彼が作り出したものはありません。彼は教義を明確に解き明かしたにすぎません。既にキリスト教の論理的体系はユダヤ教の教えや預言書によって組み立てられていましたから、パリサイ人であったパウロにとっては、イエスがメシアであることさえ受け入れることができれば、その体系や理論を説明するのは容易いことでした。そして、同じ土台を共有しているからこそ、パウロが初代教会の中心人物たちであったペテロ、ヨハネ、ヤコブとも合意することができたのです。パウロが作りだしたものであれば、そのような合意の形成は大変難しかったはずです。
  このことに関しては、アポロの存在も見逃せません。彼もイエスに関わる教えを大胆に宣べ伝えていました。使徒行伝の記述から考えますと、彼に足りなかったのは、イエスの命じるバプテスマとそれに続く約束の知識だけであったと推察されます。アポロにキリスト教の説明をしたのはアクラとプリスキラで、献身的な信徒です。パウロがアポロに教えたのではありません。そして、アポロの宣教をパウロは支援しています。それが可能だったのは、奥義書(旧約)の契約、預言の理解という共通の土台が有ったからです。だから、筆者が不明なへブル書について、アポロが候補に挙げられることも出てくるわけです。
  ペテロ、ヨハネ、ヤコブ(他の使徒も含む)、パウロ、アポロが同じ教義を共有できたのは、奥義書の教えという共通の構成や枠組みが先に有ったからであり、同じイエスの教えに従っていたからです。

従いまして、パウロがキリスト教を作ったと考えるのは忍者的理解としては考察が足りないと思います。






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説教は異教起源という主張に反論する

2025-01-17 12:18:05 | 忍者的思索・奥義書より
Youtubeを見ていましたら、説教は異教起源であるという主張をしているものが二つほど出て来ました。その主張するところは、教父の金口ヨハネはギリシャ・ローマ哲学者の講話術を学んだ人物で、そこから説教というものが定着したというようなものになっています。

私は奥義書を通して説教はユダヤ教の実践を受け継いだものと理解していますので、その主張を受け入れることはできません。ユダヤ教起源ということの説明は以下のようにできると思います。

キリスト教会の説教の起源はネヘミヤ記八章一節ー八節に始まるユダヤ教の実践の踏襲なので、異教起源とは言えないでしょう。 シナゴーグの説教はそこから発展したもので、イエスもそれを踏襲してルカ四章十六節-二十一節の記述のように、シナゴーグで奥義書(旧約)を読んでそこから教えています。また、宣教初期はマタイ五章二十三節の記述のように、もっぱらシナゴーグで教える、説教をするという方法を取りました。使徒行伝十三章十三節からのパウロのシナゴーグでの説教も同じ実践です。説教の後には個人的な質疑応答がや仲間同士が論じ合うことは有ったことが推察される記述になっていると思います。しかし、説教の段階においては、複数の説教者がいる場合も有ったようですが、一人で語ることも当たり前に多くある実践であったことが奥義書からうかがえます。 金口ヨハネがギリシャ・ローマ風の哲学講話術の背景を持っていたとしても、説教の仕方に講話術的要素を持ち込んだだけで、そこが説教の起源とは言えないでしょう。






以前、説教について再認識(クリックでご覧いただけます)というポストもしていますので、ご一読いただければ幸いです。


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喜んでいない 1サムエル十一章十五節

2024-12-10 17:13:25 | 忍者的思索・奥義書より
15 民はみなギルガルへ行き、ギルガルで、主の前に、サウルを王とした。彼らはそこで主の前に和解のいけにえをささげ、サウルとイスラエルのすべての者が、そこで大いに喜んだ。(新改訳)

 この記述を読んだ時、皆がこぞって喜んだ印象になりますが、十一章全体の流れから、明らかに喜んでいない存在が有り、その名前がこの節には出て来ていないと思われます。
 その喜んでいない存在は、神と預言者サムエルです。それまで、ユダヤ人、イスラエル人を治めていたのは父なる神でした。その神を退けて、「他国と同じように」王が欲しいとイスラエルの民は言ったのです。神のみ心を伝えるサムエルも民に警告を発し、この状態を嘆きました。ですから、初代王サウルの即位を喜ぶ記事に、神とサムエルは含まれていないことを記者は表しておきたかったように思います。




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ルカによる福音書十章三十八節~四十二節

2024-12-10 17:11:42 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
導入
イエスはエルサレムに向かって旅をしていましたが、直接エルサレムに入らず、先に、3.2キロぐらい東にある村、ベタニヤに行きました。そこには、イエスが心を許すことのできる3人の姉弟、マルタ、マリヤ、ラザロがいました。

解説
三十八節 ルカは村の名前を記してませんが、共観福音書等から、これがベタニヤであることがわかります。マルタという女がイエスを家に迎えました。イエスを迎え入れるということは、同行する弟子達も迎え入れるということです。それだけ大勢の人を迎え入れることができるということは、大きな家を持っていたということであり、裕福であったと推測されます。裕福でありながら、夫の名前が出てこないことから、多くの学者達は、マルタは寡婦であっただろうと考えます。
 すでに、パリサイ人、サドカイ人、律法学者達は、イエスを敵視していましたし、イエスを認める者は破門扱いであることが決められていました。ですから、イエスを迎え入れるということは、本当にイエスを認め、信仰を持っていなければできないことでした。

三十九節 マルタの妹のマリヤは、イエスの足元に座ったことが記されています。用いられている動詞と前置詞から、くっつくぐらい間近に座ったことがうかがわれます。当時、弟子達は、師の足元に座って教えを受けました。マリヤは、イエスに従う者、弟子であるという心構えを示したことになります。ユダヤでは、ラビは、女性を弟子にとることはしませんでした。しかし、女性を蔑視せず、平等に扱うイエスは、マリヤが弟子として足元に座ることを禁じたりはしませんでした。
 マリヤの「聞き入っていた」という動作は、継続的な動作を表す時制が用いられています。ある学者は、マリヤには、いつでも習慣的に、イエスの教えに耳を傾けて聞き入るということがあったのであろうと考えます。

四十節 マルタはいろいろなもてなしの用意のために、心を煩わされていたことが記されています。この状態を表す言葉は、「引き離される、分けられる」というような意味合いが有ります。準備のためにすることが多過ぎて、注意が分散されて落ち着かなくなってしまったのかもしれません。8章では、イエスの宣教旅行には、裕福な女性達が同行して、いろいろ助けていたことが記されていますから、この時も、マルタの準備を助けていたかもしれません。その場合は、女主人であるマルタとしては、「他人が手伝っていてくれているのに、身内で、お迎えする側のマリヤが何もしないのは体裁が悪い。」というような考えに、気持ちが落ち着かなかったということも有ったかも知れません。
 そこで、マルタはイエスの所に行き、マリヤに手伝いをするように指示してくださいと頼みます。彼女の言葉に、マリヤが彼女を離れっぱなしであるという不満が示されています。ここで用いられている「手伝う」という動詞には、「共に力を合わせる、共に支える」というような意味合いが有ります。協力して何かを為すという行為をよく表している言葉です。それだけ、マルタにとって、マリヤは頼りになる存在であったということかもしれません。
 マルタのこのような発言は、イエスに対して無礼なのではないかという印象があるかもしれません。しかし、この質問の真意は、「主よ、あなたもこれは問題だとお考えですよね。」という気持ちであり、イエスからの肯定的な答えを当然期待している質問でした。また、当時、弟子は、師の許可無く教えている師の元を離れることはできませんでした。マルタは、マリヤが許可を得るきっかけを作ろうとしたのだとも考えることができます。

四十一節 イエスはマルタの名を二度繰り返して呼びました。これは親愛の情の表現であり、また、注意を促す呼びかけでもありました。「愛するマルタよ、よく聞いてもらいたい」と呼びかけたことになります。イエスはマルタの現状を指摘します。多くのことに悩んでいるというのです。

四十二節 マルタは「多く」のことに悩んでいたわけですが、イエスは必要なことは「一つ」であると言いました。そして、マリヤは「良い方、良い部分」を選んだと宣言しています。それが何であるかは、続きの言葉からわかります。「それを取り上げてはならない」ということが書かれています。マリヤがマルタを手伝うために立ち上がることによって取り上げられることになることとは何でしょうか。それは、「イエスの教えに聞き入る」ことです。
 世の中にはしなければならないこと、したいことが「多く」有るでしょう。しかし、その中の「一つ」が「良い方、良い部分」であるならば、その他のものは、価値や良さがより少なく、優先順位が下であるということになります。イエスの教えに聞き入る、イエスの教えを聞き続けるということが、最優先であるということになります。
 イエスは、「愛するマルタよ、私を迎え入れてくれて有難う。多くのことに心を奪われて、思い煩っているね。しかし、私の教えを聞くことが最優先なのだよ。」ということを言ったのです。

まとめ
 現代に生きる私達が、この聖書箇所から学びとらなければならないポイントは、次にように考えられそうです。

1)どのような困難の中でも、イエスとその教えを迎え入れること。
   最高権力であるユダヤ人の議会から排斥されているイエスを迎え入れるこ
  とは、大変難しい判断でした。しかし、それでも、信仰のゆえに、マルタ、
  マリヤ(そしてラザロも)イエスを自分の家の迎え入れました。私達も、こ
  の模範に倣って困難や迫害が有っても、私達の心にいつもイエスとその教え
  を迎え入れる態度を持ち続けましょう。

2)困難や不満を、イエスに打ち明け、答えを得ること。
   マルタは自分の不満や苛立ちをイエスに話しました。返ってきた答えは、 
  自分の期待と全然違っていたかもしれませんが、愛に溢れた答えと、必要な
  教えをいただくという結果になりました。
   私達も、心にある不満や苛立ち、困難などを、イエスに祈りのうちに告白
  するのです。自分に期待した答えではないかもしれませんが、私達がイエス
  に告白して祈る時、聖霊によって、聖書の言葉を通して愛に溢れた答えと、
  必要な教えをいただくことができます。ヨハネによる福音書では、イエスの
  ことを「ことば」であると表現しています。ですから、聖書のことばを通し
  て答えを得るその時、イエスが直接教えてくださったと信じるのです。

3)聖書の言葉と教えを聞き続けることを優先すること。
   私達には、この世の思い煩い、あるいは、神への奉仕をあれこれ考え過ぎ
  て、心が落ち着かなくなることが有るかもしれません。その時こそ、優先順
  位を確認するときです。イエスは、必要なことは「一つだけ」だと言いまし
  た。最優先となるべきことは、神の言葉である聖書を読み続け、聖書に答え
  を求め続けることです。継続的に聖書に親しみ続けるのです。

 クリスチャンであるならば、私達はすでにイエスを迎え入れた存在です。イエスを迎え入れていても、心が乱されることは有るものです。しかし、乱れた心をイエスに告白する時、私達には答えが有るのです。その答えを得るためにも、私たちは、イエスの教えに聞き入ること、聖書を読み続けることが最優先となるのです。
 イエスの言葉に聞き入っていたマリヤの心は、あれこれ考えて、心が千路に乱れてしまったマルタの心とは反対に、平安であったでしょう。私たちも、聖書の言葉を聞き続け、神と神の言葉に信頼して、委ねて生きる時、心が乱されることが少なくなり、困難な中でもより平安に過ごすことができるようになるのです。そのような平安を得たいと思いませんか? まだそのような信仰の前進を始めていないのならば、信仰を新たにし、新しい決意をして、祈り、聖書を学び続け、神に信頼して委ねる人生の第一歩を踏み出しましょう。

1)どのような困難の中でも、イエスとその教えを迎え入れること。
2)困難や不満を、イエスに打ち明け、答えを得ること。
3)聖書の言葉と教えを聞き続けることを優先すること。

このことを毎日心に留め、神への信頼が深められ、より平安に生きる忍者を目指そうではありませんか。





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ルカ十七章五節~十節 ただ主の命に従う信仰

2024-12-10 17:07:37 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
五節
弟子達はキリストに「私達の信仰を増してください。」と言いました。それは前の節までのキリストの教えに関連しています。キリストの弟子達は「気を付けていなければならない」のです。そして、兄弟、他の弟子達が罪を犯したら、諌めなければならないし、自分に対して罪を犯した後でやってきて悔い改めるならば、赦さなければならないのです。弟子達はそれを聞いて、罪を犯した兄弟を諌めたり、自分に対して罪を犯して悔い改める兄弟を赦さなければならないとは、難しくて到底このままではできないことだ、と思ったのです。だから、キリストの言いつけを守れるように、信仰と増して欲しいと願い出たのです。

六節
キリストので弟子達への答えは、多分予想とは違ったものであったでしょう。弟子達の予想は、おそらく、キリストが弟子達に信仰が増し加えられるように、祝福の祈りなどをしてくれるというようなことであったと思われます。しかし、キリストは、とても短い植物を用いた例話で、別のことを教えました。
 最初に出てくるのは、からし種です。からし種は、パレスチナで見られる種子の中では一番小さいものです。次に出てくるのは、桑の木です。日本で見られる桑とは違う品種かもしれませんが、パレスチナでは身近な植物で、その特徴は、根がとても強くて、広く深くはるということです。ですから、そういう桑の木を引き抜くというのは、殆ど不可能に近いことなのです。その根の強さで、樹齢が六百年ぐらいにまでなるという説明をしている注解も有ります。
 キリストはこの例話で何を教えたのでしょうか。
 「からし種ほどの信仰が有ったなら」と言っています。からし種は確かに小さいかもしれませんが、きちんと発芽して成長します。つまり、からし種に命が有れば、大きさなどは関係無いのです。同様に、信仰は持っていさえすれば、そして、それを働かせさえすれば、結果が伴うのです。増し加えられるようなものではないのです。ただ、信仰でありさえすれば良いのです。
 桑の木を抜くのはその根の強さのせいで殆ど不可能です。大勢の人や牛馬を使えば抜けるでしょうが、それは大儀なことです。これは、躓きが起きないように気を付け、兄弟を諌めたり、赦したりするのが困難だと考えた弟子達の心の持ち方を表しています。しかし、信仰を働かせさえすれば、諌めることも赦すこともできるのだとキリストは言っているのです。それを、目の前に有る桑の木が、近くにあるガリラヤ湖にでも移ってしまうと表現しているのです。
 ここで一つ確認しておくべきことが有ります。信仰とは何かということです。信仰を表す言葉の持つニュアンスは、信じること、信頼することの他に、忠実であること、忠誠を尽くすことという部分も含まれているのです。ですから、この例えは、もし命令を下した方が神であると知っているならば、信じているならば、また、その方を信頼し、忠誠を尽くすべき神だという認識が有るならば、ただその心構えから、それを行動に現すだけで、その弟子の恐れる困難は困難でなくなるはずだということです。逆に言えば、それだけの神への信頼と帰依がなければならないということです。

七節、八節
ここからキリストは、関連するもう一つの例話を示します。しもべもしくは奴隷と主人との関係を示して、キリストの弟子と神との関係を確認しているのです。
 しもべや奴隷が耕作や羊の群れの世話から帰ってきたということは、そんなに楽ではないその日の仕事をやり終えてきたということです。ですから、彼らは疲れているかもしれません。しかし、だからと言って、主人は彼らに食卓に着くようには言いません。しもべや奴隷は、あくまでも主人のために働いているのであり、一日の仕事は最後まで決まっていて、それを終えることに優先順位が有るのです。ですから、しもべや奴隷が疲れて野から帰ってきても、主人は当然のこととして次の割り当ての仕事の指示をするのです。
 割り当ての仕事が変われば、装いもそれに相応しく替えなければなりません。畑仕事の時の服のままで主人の食卓を整えて給仕することはできません。相応しい服に着替え、また、袖やその他の部分が過って主人の料理に触れたりしないように、帯を締め、現代風に言えば、エプロンなどもしなければならなかったかもしれません。
 この例話を読むと、主人は奴隷に冷たいのだと考え、弟子と神の関係もそんなものなら、神は善なる存在ではないではないかと思う人もいるかもしれません。しかし、これはあくまでも例話です。そして、その中心は、しもべや奴隷の仕事は当然するべきものであり、優先順位が有るということに有るのです。そして、キリストはこの例話の中ででも、弟子への配慮の部分も忘れてはいません。例話の中の主人に「あとで、自分の食事をしなさい。」と言わせています。しもべや奴隷の食事は、主人が十分足りるように支給するのです。また、ギリシャ・ローマ文化における奴隷は、私達が持っているこき使われる使用人という印象とは違い、家族の一員と考えられていたのです。ですから、この例話においても、神とキリストの弟子との関係は、そういう家族的な関係として捉えられるようになっているのです。

九節、十節
キリストは例話の中心となる事実の再確認をして、その原則に従った弟子達への直接の指示を与えます。
 主人はしもべや奴隷が割り当ての仕事をしたからといって、いちいち感謝したりなどはしません。しもべや奴隷の方も、そんなことは当たり前だと思っていますから、そのような期待は持っていません。同様に、キリストの弟子達も、キリストの命じることや、聖書の命じることをしたら、たとえそれが難しい内容だったとしても、賞賛や栄誉を求めるようなことはしないのです。そして、いつでも、しもべである自分と神との関係を自覚し、告白できる準備ができていなければならないのです。
 キリストが弟子に言うように指示した言葉の中に、「役に立たないしもべ」という表現が有ります。この「役に立たない」と訳された語は、「求められたことを超えない」と言う意味で、無能であるとか、求められた水準に満たないという意味ではありません。この言葉には、しもべとしての謙遜な態度のほかに、忠実に命じられたことをするという部分も含まれているのかもしれません。
 また、この指示と結論は、パリサイ人達の批判も含まれていて、弟子達に彼らに倣わないように警告をしている部分が有るように思われます。パリサイ人達は、律法や伝統を守るべきこととして教えていました。守るべきことを一生懸命守るだけなら良かったのですが、週に三回断食しているとか、日に三回の祈りの時間を守っているとかいうことを、これ見よがしに目に付くように行っていたのです。彼らは外出中に祈りの時間が来て、人目の付く通りで祈りを始められるように予定を組んだとさえ言われています。彼らは、するべきこととして教えたことを実行するだけでなく、人からの賞賛や誉を求めていたのです。
 プライドのために行動し、人々を神の御心から引き離し、収税人や罪人を見下し、お金に貪欲で、人々の躓きとなっていたパリサイ人の性質は、サタンの性質の反映でした。しかし、キリストの弟子はそんなパリサイ人と同じ態度を取ることは決して有ってはならないのです。「信仰を増してください。」と頼んだ弟子達は、信仰を強くしてもらって、難しい兄弟を諌めることや、兄弟を赦すことができるようになって、「よくやった」と褒めてもらうことを期待していようです。キリストは、弟子達の中に賞賛や誉を求める心が有ることを見て取って、そのような態度に釘を刺し、諌めようとされたと考えられます。
 

まとめ
弟子とは、師に学び従う者という意味が有ります。私達もキリストに学び従う者です。キリストのこの例話と教えを心に留めて生きなければなりません。この箇所から心に留めておくべき原則は何でしょうか。

私達は躓き、すなわち罪への誘惑や、間違った信仰理解に迷い出させることを避けなければなりません。そのためにキリストは弟子達に同じ信仰を持つ仲間が罪を犯したなら諌め、悔い改めるなら赦すことを命じました。弟子達にはそれはとても難しいことと思われましたし、実際に私達が取り組む場合にも困難に感じることです。

しかし、私達はただ主の命に従う信仰を持たなければいけません。そのためには、
1) 我々が仕えているのは神であるという自覚を持つこと
2)信仰を信頼と忠誠のうちにただ働かせること
3)賞賛や栄誉を求めないで、謙遜と忠実のうちにただ従順すること
です。
こうして、例え困難に感じても、同じ信仰を持つ仲間が罪を犯した時に諌め、悔い改めるなら赦すことを実行に移せるように、気を付けていなければならないのです。






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ルカによる福音書十七章一節~四節

2024-12-10 17:04:03 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
状況
十五章から始まったキリストの教えと同じ場面であると考えられます。イエスと十二弟子の周りに、収税人や罪人と呼ばれる人達が教えを求めて集まっており、それに批判的な言葉をかけるパリサイ人や律法学者達も居ました。

直前に、キリストは、ラザロと金持ちの例話を用いて、自分達こそ天国の上席に着く者達だと思っているパリサイ人達に、彼らの在り方は決して天国を継ぐようなものではないことを、痛烈に語りました。

そして、それを踏まえて、キリストは弟子達に向き直り、弟子達に語り始めました。



解説

一節
最初にキリストが弟子に示したのは、私達のこの世における霊的な現実でした。「つまずきが起きるのは避けられない」というのです。
 ここで「つまずき」と訳された言葉は、誘惑、罪を犯すこと、間違った教えにそれてしまうことを示すことのできる言葉です。そして、そういうことが起きるのは避けられないとキリストは明言しているのです。どうしてでしょうか。
 先ず、この世では、まだサタンや悪霊が活動しているからです。次に、どんな人間にも肉の性質、罪の性質が有ることは無視できません。そして、それらの故に、パリサイ人達のようなプライドに満ちた偽教師達がいつの世にも存在するからです。だから、つまずきが起きるのは避けられないという現実が私達には有るのです。

そういう霊的現実において、そういうつまずきをもたらす者は忌まわしい者だというのです。聖書にはキリストが「忌まわしい者だ、律法学者、パリサイ人」と呼びかけている場面が有ります。間違った律法理解と伝統で人々を縛って、人々を神の心から引き離していた彼らは忌まわしい者たちでした。そして、その背後で働いているサタンがその忌まわしい者の親玉ということになるでしょう。


二節
キリストは次いで、具体的なつまずきを指摘し、それがどのような処遇が相応しい行為であるかを示しました。
 キリストは「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら」と言っています。「この小さい者たち」とはどんな人達でしょうか。小さいのだから子供達だろうと単純に考えてはいけません。実際にキリストを取り巻いていたのは、弟子達、収税人、罪人と呼ばれる人達でした。子供達ではありません。
 当時、権力や社会的地位の無い者達、また、ユダヤ教の実践の乏しい者達や信仰的知識が乏しい人達は「小さい者達」と呼ばれたということです。キリストの周りに教えを求めて集まった収税人や罪人と呼ばれる人達は、パリサイ人達から見れば、「小さい者達」で、見下されていました。
 キリストはこのように弟子達に語りかけることで、間接的にパリサイ人達を非難している部分が有ります。「パリサイ人達よ、お前達は霊的に飢え乾いてキリストの教えを求めて集まって来た収税人達を「小さい者達」と裁いている。そして、彼らを神の国から遠ざけている。お前達は忌まわしい者達なのだ。」と。そして、弟子達に向かって、決してパリサイ人達と同じような態度を取ることが有ってはならないと戒めているのです。

忌まわしい者達に相応しい処遇とはどういうものでしょうか。キリストは「石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」と表現しています。そんなことをされたらどうなるでしょうか。石臼の重さで海の底に沈んで溺死して、だれも生きて帰れないでしょう。これは、ギリシャ文化の影響を受けた諸国の死刑の方法の一つであった言われています。ユダヤ社会での死刑の方法には含まれていませんが、広く知られている死刑の方法で、キリストの話を聞いた人達は、その恐ろしいイメージに驚き、つまずきを起こすことがそんなにも重い罪であるということを思い知らされたかもしれません。
 ここで用いられている石臼を表す語は、オリーブや小麦を挽くために、ロバを使って回すような大きい石臼を指しています。家庭の主婦が使っていたような小さなものではありません。
 海という語は、深い淵というような語感が有り、刑罰の場所を想起させるものだということです。
 投げ込まれるという受動態の動詞は、激しい怒りでぶん投げるという語感の有る語だということです。神の心をわきまえないパリサイ人達の行いが、神の怒りの対象であり、処罰の対象であることを示していると思われます。


三節
つまずきが起きることは避けられないことと、つまずかせることがいかに大罪であるかを示した後、キリストは、弟子達に命令、指示を始めます。
 
最初に与えられた命令、指示は「気をつけていなさい」ということでした。何を気をつけるのかが続いて示されます。
 兄弟というのは、直接的には弟子同士ということでしょう。弟子達は、将来的には教師、指導者となる人達でした。兄弟が罪を犯すというのは、文脈から考えれば、「これらの小さき者をつまずかせる、間違った信仰に導き、罪を犯させる」ことをして、罪を犯したということと考えられます。そんな行為は恐ろしい刑罰に値することで、忌まわしいことですから、先ず、そういう罪に敏感に気付かなければならないでしょう。だから「気をつけていなさい」なのです。
 そのような行為に気付いたら、その兄弟を戒め、正さなければなりません。そうすることによって、その兄弟および彼によって罪や過ちに陥った「小さい者」を神の御心にかなった道に回復しなければなりません。しかし、心に備えがなければ戒め、正すことは難しいでしょう。だから、「気をつけていなさい」なのです。
 兄弟を戒めても聞き入れるかどうかはわかりません。実際にキリストの戒めを聞いても、パリサイ人達は耳を貸しませんでした。しかし、兄弟が戒めを聞き入れて悔い改めるならば、赦さなければなりません。被害の内容によっては、赦すことが難しい場合が有ります。被害が直接自分に関わっていれば尚更そうでしょう。しかし、いつも赦す心構えができてなくてはいけません。だから「気をつけていなさい」なのです。


四節
キリストはここで追加の確認をしています。兄弟が、直接自分に被害を与えた場合のことを想定しています。しかも、「一日に七度罪を犯しても」という状況・条件を提示しています。どうして七度でしょうか。ペテロがそのような質問をした、もしくはしたことが有るということに関連しているかもしれませんが、旧約聖書からの影響と考えることにも意義が有るように思われます。箴言二十四章十六節には、正しい人が七度たおれても、また起き上がるということが書いてあります。ユダヤ文学的には、七という数字は完全を表すと考えられています。正しい人でも完全に倒れてしまうことが有るという示唆ではないでしょうか。今回の聖書箇所と関連付けて考えれば、弟子でも深刻に仲間をつまずかせてしまったりすることが有るかもしれないことを示しているように思います。
 しかし、この人がきちんとその一つ一つについて、直接出向いてきて「悔い改めます」と言うならば、赦しなさいという指示で、キリストはこの話を締め括っています。勿論、ここでは口先だけの悔い改めではなく、真実な悔い改めのことを指しています。


まとめ
 キリストは、悔い改めと赦しについて、繰り返し言及したことになります。ユダヤ文学では繰り返しは強調を表します。ここで取り扱ったのは、直接的には「小さい者」を間違った行動や信仰に導く罪ですが、この原則は罪全般に適用できるのではないでしょうか。罪を犯しても、真実に悔い改めるならば赦しなさいということが、繰り返し語られて強調されました。どうしてでしょうか。それは、キリストが、人間は「つまずきが起きるのは避けられない」状況に生きていることを理解していたからではないでしょうか。そういう難しい状況に生きているのだからこそ、きちんと悔い改めをするならば、赦しなさいという部分が有ると思われます。そんな世の中、そんな状況では、悔い改めることだって難しいはずです。それをきちんと悔い改めるのですから、評価し、受け入れるべきなのではないでしょうか。それに、いつか立場は逆転するかもしれないのです。


キリストの直接の命令、指示は「気をつけていなさい」でした。気をつけていなければならない理由は何でしょうか。
1)つまずきが起きるのは避けられない世の中だから。
2)「小さな者」をつまずかせてはならないから。
3)罪を犯したことに気付けなければならないから
4)罪を犯した者を戒める備えができていなければならないから
5)悔い改めを受け入れて、赦す心の備えができていなければならないから。
6)自分が罪を犯したなら、悔い改める心構えを持っていなければならないから。

 
私達がキリストの教えを守り、神の良い御性質を反映した生き方をすることが弟子としての本質です。「気をつけている」ことによって、1)~6)を守り、実践するならば、それ自体が弟子の使命を果たしていることになり、神の国と神の義を求めていることになるのではないでしょうか。これが、パリサイ人達のような偽教師になることなく、天国を相続する生き方をする弟子の共同体であり、心構えと言えるでしょう。






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