この部分は初期の教会の頌栄もしくは賛美歌の引用だと考えられている。
パウロがこれを引用した目的は、イエス・キリストの首位性を示すためである。
(首位性って言葉しか今思いつかない。Supermacyという感じ。)
背景としては、ユダヤ主義的影響を含んだグノーシス主義の教えがコロサイに入り
込んでいたことがある。その理解は、
1)天の諸霊や天使がクリスチャンや人間の上に勢力を持っている。
2)父なる神の好意を得るため、また、罪を犯した時に神との和解を得るためには
それら、天の諸霊や天使が仲介者として何らかの力を持っている。
というものであった。
解説者によって微妙な違いがあるが、この頌栄もしくは賛美歌の構成は
15~17節 - 全ての被造物の上に最高の権威を持つキリスト
18~20節 - 贖い・救いにおける最高権威を持つキリスト
という二連構成になっている。
15節
イエスは見えない神の特別な啓示である。イエスを見たものは神を見たのだとヨハ
ネによる福音書でもご自身が説明している。
日本語の聖書で「先に生まれた」というニュアンスで訳されている語は、英語では
「長子、長男」を表す言葉に訳されている。これはローマ・パレスチナ文化の背景
に由来する表現である。「正統な権利者」「最高位」「最重要人物」という、地位
を表す語である。このことは、長男でないヤコブや、ソロモン王が「長子、長男」
と表現されている聖書箇所があることからも分かる。
日本語の聖書ではこのあたりの表現があまり明確ではないが、この節でパウロが
言わんとしていることは、「キリストは全ての被造物の上に正統な権威を持つ」とい
うことである。
16節
被造物には、物質的な存在も霊的な存在も含まれている。「支配」「権威」などの
語は、ユダヤ教の用語としては天使の階級などを指した。キリストは天使の階級を
超えた首位性を持つ存在であることを示している。それらはキリストによって創造
された被造物なのであるから、キリストに勝る権威を持ち得ない。
17節
キリストが全ての生じる前から存在していることを示している。グノーシス的理解
では、天使や諸霊が働き合って天地を創造したことになっている。キリストはその
中の一部分に過ぎないという理解である。パウロはここで、キリストがそれらのも
の以前から存在したこと(永遠の存在である)を示して、グノーシス的理解が間違
いであることを指摘していることになる。彼によって全ては支えられているのだか
ら、キリストはそれらの霊や天使の力を借りなければならないような存在ではない。
18節
キリストは教会の「頭」である。「頭」と訳された語は「統率」「権威」の他に、
「根源」「起源」をも表すことができる。キリストが教会の創始者でもある。
ここでもキリストの首位性が主張されている。彼は死からの甦り(蘇生ではなく)
の第一のものとなった。「頭」が復活したのであるから、当然「体」も復活するの
である。その源も権威もキリストにある。また、我々はその復活に希望を持つこと
ができる。
キリストが頭であるのだから、教会を軽く見られてはいけない。また、キリストの
首位性を否定するような教えや信条に教会が牛耳られることが有ってはならない。
19節
「満ちた様」という風に訳せる語は、グノーシス哲学の用語でもあった。その場合
は「人の運命を左右する超自然的力の総体」を表した。この教えに従えば、諸霊や
天使の力を借りなければ「満ちた様」に到達することはできないのであり、キリス
トだけでは不足だということになるのであった。
しかし、パウロはここでその「満ちた様」はキリストの中に存在するのだというこ
とを確認している。父なる神がそれをキリストの中に宿らせたからである。
「全て」の「満ちた様」がキリストに与えられたということだから、それは神ご自
身の「満ちた様」を含んでいるはずである。それが成り立つためにはキリストも神
でなければならない。一位格と二位格が同じく一つの神であるということを確認す
る言葉が初代教会の賛美歌の中に歌い込まれていることになる。
日本語の聖書ではうまく表れないが、「満ちた様」がキリストの中に宿らせられる
ことは、「神の喜びであった」。(だいたいは「みこころ」というニュアンスの訳
になっている)だから、イエス・キリストを受け入れたクリスチャンも神の喜びと
成り得るのである。
20節
神は十字架の御業によって、キリストだけをご自身との和解の仲介者とされたこと
を確認している。神との和解には諸霊や天使の助けが必要とする誤りを正している。
十字架の贖いの重要性をもここでは確認している。
また、和解の対象は万物であるが、これは堕落による神との遮断を被った被造物が
来る世に最初の創造の時の秩序を回復することも含意している。
この賛美歌の中では「全て」という言葉が繰り返し用いられている。それは、キリ
ストの全ての領域にわたる首位性を繰り返し確認するためである。
クリスチャンにはキリストさえあればよいのである。キリストこそが全ての完成者
だからである。
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