糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

ろくでなし子さんが目を向けていない側面

2015-05-09 17:11:18 | 忍者的思索・一般
 偶然昨年発行されたオピニオン誌をめくりましたところ、この漫画家が自分の逮捕に至る様子を掲載しておりました。ニュースとしては古いものですが、その認識については私は足りない部分が有ると思いますし、彼女の主張がそのまま広く受け入れられていくようなことになるのも望ましくないと思っていますので、ここに書いておきたいと思い立ちました。

 ネットのニュースなどで目にした方も多いと思いますので、どんな事柄であったかはほとんどの方がご存知であるとは思いますが、一応概要を紹介します。
 私の読んだ記事によると、この漫画家は自分の女性器の型どりをしてアート作品のモチーフに用いていたのですが、3Dプリンターで用いるデータを取れば、大きさも含めてもっと自由にアレンジできると考えたそうです。それで、実際にデータを取って、活動を支援している人達に送ったということです。そのことをわいせつ物頒布等の罪に問われて逮捕されることになりました。彼女が書いていたことの中には、自分の体はわいせつ物ではないという主張も含まれていました。ネット検索をすると、他にも送ったのはデータであって実際の画像等ではないのにわいせつ物となることが納得いかないということも述べられていました。また、彼女は女性器を「まんこ」と表現して裁判官に表現を変えるように求められた記事も見られました。

 先に彼女の主張の中に同意できる部分が有りましたので記しておこうと思います。それは、あからさまに不特定多数の人間の目に触れるように意図されている女性器の移った写真や特定の女性の女性器の形を取って作られたいわゆる大人のおもちゃは摘発されないのに、自分のサポーター限定で入手できるようにしたアートが摘発されるのはおかしいという主張です。個人的には前者もきっちり摘発していただきたいものだと思います。多分利権が絡んでなかなかそういうことにならないのだろうと推測しています。私自身は、付録の2枚組CDフリーソフト集が欲しくて購入したPC雑誌に女性器の画像の含まれたものが有って、ぎょっとして捨てた経験が有ります。

 さて、先にお示ししたのが彼女にまつわる事件の私の理解であるわけですが、その主張は彼女が気づいていない、もしくは目を向けていない側面が有ることを表していると思います。思いつくままに挙げておこうと思います。
 一つ目は、自分の性器ならばどのように自分が用いるかの選択は自分の自由であるし、自分の性器は手と同じく立派な自分の体の一部であって猥褻物ではないという考え方です。勿論性器そのものは猥褻物ではありません。しかしその用い方なり他人の目にどのように触れるようにする選択をしたかが猥褻であるかどうかの判断になるわけですから、そのような抗弁は意味が無いと思います。そして、その用い方が猥褻であると判断されるような在り方であった場合は、自分の体をどう用いるかの選択の自由を主張してもそれも意味のないことだと思います。彼女が取り上げた手の例を考えてみると、手をどのように使うかは確かに個人の自由ですが、人に危害なり被害を与えるような使い方をした場合にはそれが犯罪と断定される場合が出て来るのと同じではないでしょうか。
 もう一つ手彼女が手を例に挙げることがこの状況に合っていない部分を述べておきたいと思います。手は多くの場合デフォルメされたり象徴や記号のように用いられていることが多いのです。おそらく女性器においてもデフォルメされたり記号的な用い方がされていれば猥褻罪などが問われない場合が多くなるのではないでしょうか。また、手は美容なり検視や解剖学的な場面でなければ性差を意識させない部位なのです。ですから掌紋や指紋がリアルに出ているものも有りますが、問題になることが有りません。そういう別の体の部位と女性器を同列に扱って抗弁するのは無理が有ると思います。
 更に手のことから考えます。手は普段から一目に触れる部位です。用途が多岐に渡る部位ですから、隠していては役に立ちません。その分個人の人格的存在を象徴するような要素としての認識は少ないものになります。しかし、性器はそういうわけにはいきません。普段は覆い隠されているのが普通の部位です。それを露出するということは、より深い、もしくは重要な自己情報を開示するということです。それは、本当に信頼する相手にしかできないことです。相手がサポーターなら信頼する相手だから良いではないかと思うかもしれません。しかし、私には問題となる部分が有ると感じます。日本には裸の付き合いという言葉有りますが、それは気の置けない親しい間柄です。そうでない者から一緒に風呂に入ろうだの、突然立ち入った身の上話などされたら、私たちはそういう間柄ではないではないかという不愉快さ、反発心がわくものです。サポーターは彼女のアートワークを応援したいのであって、そのモチーフとなっているものの素のデータをアートとして評価することは無いと思います。そういう立ち入った自己開示をサポーター全員が全面的に歓迎というわけにはいかないことだと思います。そういう感覚の一部が猥褻であるということにつながっているはずです。

 性器そのものの持つ意味合いに目を向けてみます。ろくでなし子さんは、その生殖機能、命の再生の意味合いに目を向けてアートのモチーフとしようとしている部分が有ります。しかし、性器その持つ意味合いの全てを含んでいるのであって、そういう機能や神秘だけを取り出して用いることは難しいのです。そのための工夫をするとしたら、デフォルメなり記号化なりの作業が必要なはずです。しかし、今回は生の3Dデータを配布しましたから、データを取った時の彼女という特定の人間の性器を寸分たがわぬと言える精度で再生できるわけです。彼女自身が生殖や命の再生を念頭に入れているのですから、これから私が述べる部分への考察も見落とすべきではないと思うのです。性器のそういう部分に目を向けるならば、それが単独では機能しえないことも当然考えられるべきであると思います。つまり女性器の提示は男性器の必要を内包しているのです。大脳のうち旧皮質がそういう欲求を司りますが、これは本能的な部分で、あまり高度な判断をする能力を持っていません。ですから、彼女の局部の正確なデータによって得られたオブジェを提示することは、それを感知した異性の旧皮質からすると、信頼と性交への合意のメッセージになります。勿論そういう意味合いになる刺激はこの世の中にはいくらでも溢れてはいますが、この場合は特定の個人が特定の人々へ発信しているという意味において、より不適切な度合いが高くなるように思います。自分では意識していなくても、不適切な馴れ馴れしさとでもいえるような内容がふくまれています。それはやなり猥褻という部分につながる要素であろうと思います。

 本質とは離れた事柄ですが、彼女が「まんこ」という表現を選んだことはあまり賢明ではなかったと思います。少なくとも関東圏ではその表現はどちらかというと卑語なり隠語的な性質が有り、意識的には猥褻な意識や表現につながるものと言えると思います。

 さて、冗長になりましたが、忍者として思うことは、自分が選んで生を受けたわけでもこの体になったのでもなく、天の与えるままに自己が存在するわけですから(あくまで忍者的考察においてですが)自分の体をどう扱おうと自分の自由という発想がかなり強い論拠になっているように感じられる彼女の主張には危ういものを感ぜずにはいられませんでした。






にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 尊厳死の忍者的随想 | トップ | 人間の表面的美意識-非人間... »
最新の画像もっと見る

忍者的思索・一般」カテゴリの最新記事