糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

聖書翻訳事業の記事から思ったこと

2023-11-24 09:48:20 | 忍者的思索・忍界
 世界宣教関連の広報誌を見ていましたら、下記のような記述に目が留まりました。

 1917年に、ウイリアム・キャメロン・タウンセントは、グアテマラのある部族に聖書の配布を始めました。(スペイン語訳だと思われます。)ある日、その部族の男性が、「お前の神が全知全能なら、何故神が我々の言語で語らないのか。」という質問をしてきたということです。ウイリアムは回答に窮しましたが、このことをきっかけに、ウィクリフ聖書翻訳協会が始まったということです。

 この働きに、私個人も敬意を払い、関係者との交流も少し有るのですが、今回は、この部族の男性の質問に対して思ったことを述べておきたいと思います。

 神が全知全能であるという信仰的事実と、神が彼らにその部族の言語で語られないことは、どういう関係になっているかということは、直ぐに思いつかなければならないのではないかと思います。人類は堕落した時に、基本的には神に逆らい、神を拒絶したのです。ですから、和解、悔い改めを経ないでは、神との対話は成立しません。人類が地球上に広がって行く時に、神との関係の断絶しているグループの人々に、完全に神の言葉が届かなくなったのは仕方ないことではないでしょうか。

 さて、聖書翻訳事業の話に戻りますと、新約の時代に生きる忍者たちには、宣教が託されているので、聖書翻訳事業に努力する者たちが起こされているのですが、現在、最低でも千二百六十八の言語への翻訳がまだ残っているということです。時々そういうことを思い出して、祈りや献金で支援したいただければ幸いです。






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恥ずかしくない裸、恥ずかしい裸

2023-11-23 20:59:33 | 奥義書講解・旧約
アダムとエバの裸の状態の記述についてです。

恥ずかしくない裸 (創世記 二章二十五節)
 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

恥ずかしい裸 (創世記 三章七節)
 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

 二章の方の裸を表す語は、アロームというような発音になる語で、三章の方の裸を表す語は、エロームというような発音になる語です。
 旧約聖書のヘブル語の辞典を確認しますと、定義はどちらも同じで、単に裸の状態を表しているだけのように見えます。それでは、一体この二つにはどんな区別が有るのでしょうか。コンコーダンスを見ても、いずれの用例も、人間が裸の状態であることをあらわしているだけで、どこに区別が有るのかよくわかりません。
 そこで、他の大忍の解説を探しましたところ、次のような説明を見いだして、成程と思いました。二章の恥ずかしいという語は、水源が枯渇しているというような意味になるということです。恥ずかしくないという状態は、霊的な源である神、命の水との関係が豊かであるという理解ができるということです。恥ずかしくない裸の方のアロームが用いられる場面では、神との正しい関係になることを呼びかけている要素が有るということです。
 更に、アダムとエバが神との関係が豊で、直接会える存在であったことを考えると、彼らも神の与えた栄光を身に纏っていたのではないかと考えられます。モーセが神と会って山から下りると、顔が光っていたために、民が恐れたので、顔に覆いを掛けたという記述があります。神の栄光の光、もしくは雲のようなものが、二人を覆っていたのではないかと考えられそうです。





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炊き立てご飯のような? 詩編三十三編三節

2023-11-20 12:27:32 | 忍者的思索・奥義書より
新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。(新改訳第三版)

  新しい歌をという勧めになっています。しかし、私たち皆が歌を作ることができるわけではありません。作曲が専門であるような人物でも、毎日きちんと作曲して仕上げることは難しいと思います。注解書を見ると、日々新たな心構えで、という説明になっています。そうしますと、私たちの日々の祈り、主を求め、信頼する心の告白が、新しい歌になると思います。
  その新しさを考えてみました。私たちは、多くの場合米飯を主食としています。いつも米のご飯を食べます。同様に、私たちは、絶えず祈り、主に感謝と賛美を捧げます。しかし、それは、同じ内容でも、どこかに保存しておいたものではなく、炊き立てのご飯のように、いつも新たなものなのではないでしょうか。
  これから、日々の祈りの時に、代わり映えのしない、いつもの祈りを捧げているような気持で負い目を感じるのではなく、炊き立てご飯を捧げるような気持で、新しい歌を主にむかって歌っているのだと考え、自覚することに意味が有ると思います。
  因みに、同じ節には巧みに弦をかき鳴らせと書いてありますが、巧みに、という語には、喜んで、という意味も有ります。私たち全員が楽器を奏でることができるわけではありません。しかし、誰もが、救われ、神との関係の回復の中に生きることができる喜びをもって、主に感謝して祈ることができるのです。




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930年間の傷

2023-11-20 12:07:25 | 忍者的思索・奥義書より
  タイトルの930年は、アダムの寿命です。創世記五章五節の記述による数字です。
  傷というのは、エバの心の傷のことです。アダムとエバは、堕落した後、神に問い詰められる経験をします。神がアダムにどうして善悪を知る木の実を食べたのかと尋ねた時、アダムは、エバが与えたからだと答えました。エバがどうしてアダムに善悪を知る木の実を与えたのかは、想像するしかありませんが、とにかく、自分のことを「私の肉の肉、骨の骨」と言い表して喜んでくれたアダムが、この反逆行為をエバのせいにする言葉を聞いた時には大きな衝撃、絶望を味わったに違いありません。この後、聖書に記録されている息子たちの名前から考察すると、アダムとエバは約束のメシアが自分達から生まれないかと期待していた様子がうかがえます。その救いを待ち焦がれるエバの心の中で、いつまでも、アダムに庇ってもらえなかった、曝しもののようにされたことへの傷が疼いていたのではないかと思われます。
  930年は、アダムの寿命で、エバの寿命の記述はありません。何等かの理由でアダムより早く亡くなったかもしれませんが、現代の傾向から推測すると、女性の方が平均寿命が長いので、アダムより長く生きていたということも有り得ます。

  私たちが、自己弁護、保身のために、口に出した不用意な言葉、嘘などが、長く人を傷つけることに注意しなければならないことを、この奥義書、創世記三章の記述からも考えさせられました。夫婦間での不用意な発言、特に妻をかえりみない発言が、長く傷やしこりを残す例は枚挙にいとまがありません。忍者として、改めて気を付けなければならないと思われるのでした。





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誰が全焼のいけにえを捧げたのか (サムエル記Ⅰ十三章九節)

2023-11-03 13:00:23 | 奥義書講解・旧約
イスラエルの初代の王、サウルが、サムエルの到着を待たずに全焼のいけにえをささげた記事についての解釈です。実際に全焼のいけにえをささげた、執り行ったのは誰かということです。考え方は二分されているようです。

1)サウルが執り行った。
2)同行の祭司、アヒアが執り行った。

私は1)の立場から教えられてきました。しかし、2)の立場の方が現実的であると思うのです。

いくらサウルが切羽詰まっていたとしても、自分で動物を処理し、石の祭壇を築いて全焼のいけにえをささげる確率は低いと思います。律法を守る者を体現することが使命の一つであるはずの王が、そのようなことをすることは考えにくいと思います。サウルがそんなことをしようとしたら、兵士たちや同行の祭司やレビ人たちが必ずや止めたであろうと思います。

2)の立場であれば、サウルがレビ系の人々にしか許されていないことをしたという誹りは関係なくなります。しかし、ペリシテに対する恐怖の故に、主の預言者サムエルが伝えた、彼が来るまで待つようにという神の指示を守らなかった不従順の問題は残ります。ですから、どちらの立場であっても、サウルの不従順の罪の問題にかわりはありません。

サウルの基本的態度がそのようなものであったのではないかということは、後に、十五章に示される、アマレクに対する取扱いにおける不従順にも現れていると考えられます。ですから、『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』という二十二節、二十三節の預言は、十三章十四節の『今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。』という預言の追認の意味が有ると思います。






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