糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

可愛さ余って憎さ百倍?

2024-03-18 11:38:48 | 奥義書講解・福音書
 イエスのエルサレム入城の時と、ピラトの官邸での裁判の時では、群衆の対応が正反対で、その変わり身の早さ、掌返しには驚かされます。私の読み込みが浅く、また、きちんとした解説も聞いたことがなかったため、群衆心理のいい加減さ、節操の無さのように理解していました。しかし、よく考えてみると、それは無理もない部分が有ったことが見えてきました。

 先ず、エルサレム入城の時の反応です。群衆はイエスを王と認めて、上着を道に敷いたり、道を平にするために枝を切ってきて敷いたりしました。また、メシアだと認めて、メシアを歓迎する詩編と考えられる詩編百十八編二十五節、二十六節の言葉を叫び続けました。ところが、ピラトの官邸での裁判の時になると、バラバを釈放し、イエスを十字架に着けよと叫びます。マタイ二十七章の記述によると、パリサイ人たちが群衆を説き伏せたということです。それまでは、群衆の反対を恐れてイエスを捕らえることができなかったのに、ここでは群衆を説得することができた背景を考える必要が有ります。

 群衆は、イエスの教えを聞き、メシアの印としての奇跡を目撃して、イエスがメシアであると信じていました。しかし、彼らの期待は、あくまで地上の王としてのメシアであり、イスラエルを再興し、ダビデ王朝を回復させる王としてのメシアでした。ですから、イエスがパリサイ人たちに捕らえられ、敵であるローマの総督の前で裁判を受けることになると、彼らの期待は裏切られたことになります。神が出現を約束しているメシアを自称したのに、逆にローマの権威の元に捕らわれているということは、偽メシアであり、群衆を騙したことになると理解されました。その意味では、神を冒涜した罪があると理解されたかもしれません。そんな状態の群衆を説得することは、パリサイ人たちにとっては容易いことであったと思われます。

 群衆の問題は、二つ有ったと思われます。
 先ず、彼らはゼカリヤ九章九節の預言に現れるメシア像をしっかり把握していませんでした。柔和でろばの子に乗って来ることの意味を考えていませんでした。ろばはありふれた家畜ではありましたが、律法では汚れた動物で、動物の犠牲としては捧げることができませんでした。そのような動物に乗るということは、謙遜の現れということになります。更に「柔和で」と訳された語の原義は、虐げられた、貧しい、遜ったというものです。虐げられる王とはどういうことかを考えたことがなかったと思われます。
 次に、彼らはイエスの教えをきちんと聞いていませんでした。山上の垂訓をはじめとし、イエスがこの世の王でないことを示す教えは多く有りました。また、メシアの印としての奇跡は、イエスにどのようなことが起きて信じられるべきものでした。イエスはご自身がパリサイ人たちに苦しめられることをも予告していました。その通りのことが起きたのですが、群衆は続けてイエスを信じることができませんでした。それは、あまりに伝統的理解や自分達の期待に固執していたからだと考えられます。
 
 私たち忍者も、自分の期待や思い込みに固執して、イエスを間違って理解しないように自戒する必要があると思います。





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