糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

説教者とストロー

2018-11-08 13:03:14 | 忍者的思索・忍界
 私が説教のご奉仕の機会をいただくと、時々礼拝後に「素晴らしい説教でした。」と言いに来られる忍者がいます。私はそういう時には心掛けて、「ありがとうございます。でも、素晴らしいのはみ言葉です。」ということをお伝えしています。その聖書の意味が説き明かされて、傾聴するという捧げものをした忍者が、聖霊の働きによって何等かの恵みを感じた、開かれたことが有ったという事実が大事なのであって、取り次いだ説教者はその勤めを全うしたにすぎません。
 司会者や説教者が説教の直前の祈りで、「通り良き管としてお用いください。」という表現をすることが有ります。そういう歌詞が含まれる讃美歌等も有ります。説教者も礼拝に出席する忍者も、説教者はその管であるという認識が必要であると思います。
 皆さんいかがでしょうか。例えば、1992年に四国で食べたカツオのたたきは美味しかったなぁというような思い出はないでしょうか。でも、2000年に沖縄で飲んだマンゴジュースについていたストローは素晴らしかったなぁなどという思い出は皆無に等しいのではないでしょうか。ストローよりも、それを通って口に入るジュースの方が大事なのですから、ストローの思い出が無いのは当然なのです。
 一方、ストローが折れていたり、穴が開いていたりして、ジュースがうまく吸えないようなことが有ったら問題です。私が子供の頃には紙を巻いて蝋を浸み込ませたようなストローが有りました。ジュースと一緒に蝋のにおいがするのが時には気になっていやなことが有りました。説教者は、そういう部分になりそうなことを最小限にとどめる努力をします。
 一方で、説教者は神様は自分の個性をも用いてくださることを信じて語ります。しかし、あくまでも説教者はストローのようなものです。自分が素晴らしいというのではなく、ストローが当たり前にその機能を果たしたのと同じように、自分の委ねられた働きをしたにすぎないのであり、そのことを他の忍者にもはっきり意識してもらいたいのです。
 次に説教者に一言声を掛けたくなるような気持ちになった時には、「〇〇大忍、~~は素晴らしいみ言葉ですね。」というような言い方を考えてみてはかがでしょうか。

 




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