糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

なぜ「野蜜」と表記するのか(マタイ三章四節)

2024-05-17 19:25:45 | 奥義書講解・新約
 バプテスマのヨハネについての記述を見ると、「その食べ物はいなごと野蜜であった」という部分が有ります。(マタイ三章四節)そこで、どうしてわざわざ「野蜜」と表記するのかということが気になります。「蜜」と表記するだけで十分ではないかと思うのです。
 先ず、バプテスマのヨハネの箇所で野蜜と訳された語を確認します。メリと言う発音になるギリシャ語が用いられています。英語の聖書もwild honeyという訳を当てています。コンコーダンスを見ますと、同じ語が、黙示録において、小さな巻物が蜜のように甘いという記述の所でも用いられています。
 次に、旧約聖書で蜜と訳される語を数か所確認し、それがギリシャ語旧約聖書ではどの語で表されているかを確認してみます。すぐに思い出すと思われるのは、神がイスラエルの民を「乳と蜜の流れる地」に導くという表現です。(申命記六章三節等)七十人訳ギリシャ語旧約聖書を見ると、その場面でもメリという語が用いられています。旧約と新約で同じギリシャ語が用いられるならば、バプテスマのヨハネの場面だけ野蜜と訳すことにどんな意味が有るのかわかりません。
 ここで、旧約聖書で最初に蜜が出て来る場面を見てみます。ヤコブが飢饉の時に、エジプトに行って食料を買って来るように二度目に息子たちに命じた時、ベニヤミンを連れて行くことが条件だという場面で、エジプトの支配者(実際にはヤコブの息子のヨセフ)に持って行くようにヤコブが命じた土産の中に蜜が入っています。ギリシャ語の旧約聖書では、やはりメリが用いられています。そこで、注解書はどう説明しているかを見てみます。すると、複数の註解書に、ブドウジュースを煮詰めたものだろうという記述が出て来ました。
 そうすると、当時のユダヤ人にとっては、蜜という言葉から想起されるものが、人工的に果汁を煮詰めて作ったものと蜂蜜の巣から採取したものの二種類になることがわかります。それで、その背景を考慮に入れて、人工的に作ったものではないということを示すために、「野蜜」という普段日本語では使われない表現が当てられたのだと考えることができそうです。






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