ダニエル書9章2節~、ネヘミヤ書9章2節などを根拠に、日本という国が戦時中に近隣諸国に対して犯した罪について悔い改めるということを勧めることが有ります。しかし、このことについては確認しておいた方が良いことが有ると思います。考慮するべき部分が有るということであって、全て的外れな解釈として退けるつもりは有りませんが、一応このカテゴリで書かせていただきます。
ダニエルやネヘミヤが先祖の罪を悔い改めるという態度において、理解しておかなければならないことが有ります。ユダヤ人は民族全体として神様と契約を結んだのだということです。ですから、その神を捨てて偶像の神に仕えることを選んだ時、民族全体が神に対して罪を犯したと考えることができます。それゆえに、ユダヤ人であるダニエルやネヘミヤが執り成し手として、当事者として先祖の罪の許しを請う祈りを捧げることができるのです。
一方、日本が戦時中に近隣諸国に対して犯した罪という点においては、そういう神様との契約は存在しません。また、その罪の内容が異なります。ダニエルやネヘミヤは神から離れた罪を悔い改めているのであって、他国を侵略したというようなことを悔い改めているわけではありません。ですから、取り成し手として祈るということは確かにできるのですが、ダニエルやネヘミヤの実践をそのまま根拠にするには少し論理的飛躍が有ると思われます。
また、ダニエルやネヘミヤの実践は、第二神殿の再建を持って完結したと言えると思います。しかし、日本の過去の罪に対して悔い改めるということは、そういう完結を見ることは無いでしょう。背景や内容があまりにも異なっているのです。
個人の時代において、昔広く共有された民族の共同体意識を喚起するような論調も見られます。それはまたそれで意味が有るとは思います。しかし、いずれにしても、旧約の聖徒の神との契約、神を捨てたことを悔い改める、というつながりを無視して、かつてのユダヤ人と戦時中の日本人というの二つの異なる状況を、単にダニエルやネヘミヤの実践を根拠として同じようなことを勧めるのは軽率であると思います。
日本人の忍者として、そのような部分について悔い改め、もしくは執り成しの祈りをすることは悪くはありませんが、ダニエルやネヘミヤの実践を根拠にするのは聖書の用い方として間違っている部分が有ると私は思います。
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ダニエルやネヘミヤが先祖の罪を悔い改めるという態度において、理解しておかなければならないことが有ります。ユダヤ人は民族全体として神様と契約を結んだのだということです。ですから、その神を捨てて偶像の神に仕えることを選んだ時、民族全体が神に対して罪を犯したと考えることができます。それゆえに、ユダヤ人であるダニエルやネヘミヤが執り成し手として、当事者として先祖の罪の許しを請う祈りを捧げることができるのです。
一方、日本が戦時中に近隣諸国に対して犯した罪という点においては、そういう神様との契約は存在しません。また、その罪の内容が異なります。ダニエルやネヘミヤは神から離れた罪を悔い改めているのであって、他国を侵略したというようなことを悔い改めているわけではありません。ですから、取り成し手として祈るということは確かにできるのですが、ダニエルやネヘミヤの実践をそのまま根拠にするには少し論理的飛躍が有ると思われます。
また、ダニエルやネヘミヤの実践は、第二神殿の再建を持って完結したと言えると思います。しかし、日本の過去の罪に対して悔い改めるということは、そういう完結を見ることは無いでしょう。背景や内容があまりにも異なっているのです。
個人の時代において、昔広く共有された民族の共同体意識を喚起するような論調も見られます。それはまたそれで意味が有るとは思います。しかし、いずれにしても、旧約の聖徒の神との契約、神を捨てたことを悔い改める、というつながりを無視して、かつてのユダヤ人と戦時中の日本人というの二つの異なる状況を、単にダニエルやネヘミヤの実践を根拠として同じようなことを勧めるのは軽率であると思います。
日本人の忍者として、そのような部分について悔い改め、もしくは執り成しの祈りをすることは悪くはありませんが、ダニエルやネヘミヤの実践を根拠にするのは聖書の用い方として間違っている部分が有ると私は思います。
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