「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

              肉眼で見えた金環日食

2012-05-21 09:26:29 | Weblog
僕は今朝、肉眼で金環日食をみた。二階の通路に張られた薄茶色のルーフ越しにはっきりとリング状に欠けた太陽があった。肉眼で見るなと聞いていたので、すぐ”観測”を止めたが、たしかに世紀の天体ショーであった。(肉眼では見えたが、僕のカメラには映っていなかった)

前回、東京で金環日食が観測されたのは175年前の1839年(天保10年)9月8日だったとのこと。幕末の人でいうと、高杉晋作はこの年の9月27日生まれだから見ていない。近藤勇は5歳、吉田松陰は9歳、勝海舟は16歳。金環日食時、この世にいたが観測したかどうかはしらない。

次回、東京で金環日食が見られるのは300年後の2312年4月8日だという。もちろん、僕らはこの世にいないが、その時日本がどうなっているのだろうかー。それこそお釈迦様でもご存じない。

        石見銀山 ポトシ銀山 二つの世界遺産

2012-05-21 06:36:58 | Weblog
毎月第3土曜日の午後、僕はスペイン協会の文化の集い「ドンキホーテ.クラブ」に参加している。80歳を過ぎると社会との接点がすくなくなるが、学生時代からの友人のお蔭で、外の空気に触れるこ事が出来るだけでなく、頭のブラッシュ.アップになっている。僕はまったくスペインやラテン文化には門外漢だが、講師の話はいつも楽しく勉強になる。

先週(19日)の会では、講師の田中努先生(元経済企画庁次官)が「ポトシ銀山発見の世界史的意義」について話をされた。ポトシとはボリビア高地にある銀山跡で16世紀に開発された。今は閉山されておりユネスコの文化遺産に登録されている。もちろん、僕は初めて聞く名前だったが、意外にも日本の石見銀山も同じ時代に発見されて一時は世界の銀の三分の一を産出していた。石見銀山も同じように世界遺産である。

田中先生の話は16世紀から17世紀にかけて銀が世界の主要通貨として流通していた、その世界的な流れが主題だったが、僕はこの「ドンキクラブ」で先々月話をした伊達藩、支倉常長の慶長使節との関連で面白かった。慶長使節は、その20年ほど前、欧州に派遣された天正使節が宗教的な目的だったのに対しヌエバイスパニア(メキシコ)との通商が目的だったといわれている。伊達正宗は石巻でアカプルコ行きの船を建造し、百人を超す人間を派遣している。この中には徳川幕府の船関係者にまじって京都の商人もいる。もしかすると、正宗はポトシ銀山についても知識があり、関心があったのかもしれない。

鎖国によって、わが国の外国との交流は明治維新から始まっているように感じるが、500年近く前から銀をめぐってこのような交流があったのだ。江戸幕府の財政がしっかりしていたのは、銀だとも言われている。

          今夏の首都圏の電力需給は大丈夫なのか

2012-05-20 06:28:08 | Weblog
今夏の電力需給対策が政府から発表になり7月2日から実施されることになった。しかし、なぜか東日本とくに首都圏の節電には一切触れていないが、果たして大丈夫なのか。僕の素朴な疑問である。昨年3月の福島原発事故の直後、東京電力は突如首都圏に「計画停電」を実施すると発表した。この”無計画”な停電で首都圏の交通機関は混乱し、一時無政府状態になったことは、まだ僕らの記憶に新しい。

原発事故当時経済産業相だった海江田万里氏が先日の国会事故調査会から聴取された内容の一部が新聞に載っていた。”やはりか”と誰もがが思ったのは、事故直後の政府の混乱ぶりであった。緊急事態宣言の発令をめぐって菅総理(当時)の理解が得られず、東電をはじめ関係者間に意思の疎通が欠けていたという。東電の「計画停電」はこんな混乱の中、事故から3日目、国民から見れば降って湧いてきたかのように発表になった。

まったく素人の推理だが、あの当時本当に東電は「計画停電」を実施しなければならなほど電力は逼迫していたのであろうか。東京23区内に住むわが家は幸い、一度も停電はなかったが、落ち着かない毎日であった。最近になって23区内の停電がなかったのは、都内の警察官が大勢被災地の支援にでかけ、停電すると治安上問題が生ずるという理由からであったという。

電力の需要予測はもっと”科学的”根拠に基づくものと思っていただけに驚いた。今思うと原発事故当時の政府の対応は異常であった。官房長官(当時)の発表は変に意識的なところがあり”大本営発表”であった。個人レベルの話で恐縮だが、なぜかわが家には「計画停電」のニュースが発表になる以前から”懐中電灯やローソクを用意したほうがよい”いう知人からのメールが流れてきていた。改めて問うが、電力需給対策は西日本だけでよいのだろうか。

              81歳の勤労動員クラス会

2012-05-19 06:01:57 | Weblog
70年近くの竹馬の友から電話があった。二人の共通の友人W君の弟さんから知らせがあって、昨年夫人に先立たれたW君が最近家に閉じこもりがちで心配だ。会でもあったら声をかけてくれという話だったという。御夫婦仲の良いことで知られたW君である。ショックなのだろう。早速二人で相談して、しばらく開いていない戦争中勤労動員で一緒だった当時のクラス会を開くことにした。

三人とも戦争中、中学2年で勤労動員された時一緒に苦労した仲である。僕らは昭和20年1月から4月15日の空襲で蒲田にあった工場が焼失するまで、その工場で○六という人間魚雷の部品を製造していた。動員時の我が2年C組は確か60人近くいたのだが、今連絡が取れるのは僅か24人しかいない。戦争で地方へ疎開し消息が分からなくなった友人が17人、すでに鬼籍に入った友が11人もいる。

老人の会合は連絡が大変である。若い人の会なら、今はメールやFAXで簡単だが、年寄りはほとんどPCをいじっていない。FAXもない人が多い。ケータイはあるのだが、昔の名簿にはその番号が載っていない。しかし、反面、直接友人たちと久しぶりに会話が出来る喜びはあった。予想はしていたことではあったが、ほとんどの友が癌とか脳梗塞、心筋梗塞といった大病の経験者で足腰が弱っている。元気な友もいたが夫人が認知症だという友もいた。

あらかじめ判っていた病人弱者を優先させて会も昼間に設定、会場も駅近くの階段の上り下りのない場所にした。会費もそれぞれの体調に合わせて自分の飲み食いした分だけ各自支払う方式にした。6月1日に集まりをもつことにしているが、今のところ参加者は意外に多く、連絡の取れた24人のうち半数の13人から出席の返事があった。81歳の老人の集まりとしては上出来である。

             都心の「限界集落」解消への道

2012-05-18 06:24:44 | Weblog
後期高齢者医療制度は”後期”という名称をとっただけで、そのまま存続することになるらしい。何のことはない。民主党は選挙に勝つために、後期医療制度の廃止をマニフェストに掲げ、年寄りたちを騙したことになったわけだ。僕は今でも覚えている。鳩山由紀夫幹事長が東京巣鴨の”おばあちゃんの原宿”へ宣伝カーを乗り付け”後期高齢者医療制度は現代版姥捨て山だ”と獅子吼していたことを。無責任な話だ。

都会での「限界集落」が問題になっている。東京の山手線新大久保駅近くの「戸山団地」約2,300戸の住民が住む高層団地だが、最近住民の高齢化が47.7%と進み、団地内での”孤独死”もでてきて「限界集落」に近づいているという。1970年代に開発された多摩ニュータウンにも同じ現象が出ているとのことだ。

同じ年寄りとして僕も心配だが、そんな中、東京品川区で、24時間見守る機能を持つ高齢者用住宅を区内の東大井に建設して90世帯の入居者を募集すうるという。テレビで僕は住宅の見学会の模様を見たが、よく出来ていてこれなら安全である。単身者用の家賃が1か月7万5千円、世帯者向けが10万円で民間に比べれば安い。「限界集落」解消への一方策だ。

80歳を過ぎてから、僕の周囲でも高齢者医療介護が身近な問題になってきた。先日も91歳でマンションに一人住まいの友人から電話があり、足腰が弱くなり身辺のことが面倒になった、と言ってきた。彼は介護サービスがあることさえ、よく知っていないようだ。6月に旧友会を開くので、別の友人に連絡を取ったら、本人は元気なのだが夫人が認知症で出席できないと返事があった。

後期高齢者医療制度が廃止できないことは僕ら年寄りにも解った。問題は「後期」という言葉をはずかどうかということではない。現実問題となっている「限界集落」とか「孤独死」とか「認知症」をいかに解決できるかである。

         父の生誕128年 ”坂の上”につぐ世代

2012-05-17 05:33:02 | Weblog
昨日は父の生誕128年であった。父は明治人らしく几帳面なところがあり、晩年自分の一生を綴り(未刊)写真を整理して特別なアルバムを残している。そのおかげで今、僕がブログを書く上で大変助かっている。

父は明治17年5月16日、東京の下谷区竹町(当時)に生まれている。祖父は徳川幕府の直参の武士で、維新後は東京府に勤めていたが、父が生まれた頃はすでに隠居していたようだ。幕末の文久3年(1863年)祖父が横浜で撮ったサムライ姿の写真が残っている。一度祖父が幕府で何をやっていたのか調べようと思っているのだが、まだ、そのままになっている。

父が生まれた明治17年とはどんな年であったのか興味がありwikepedia で調べてみたら面白いことが判った。僕ら戦中世代には忘れられない軍人二人がこの年生まれである。一人は連合艦隊司令長官だった山本五十六元帥、もう一人は開戦時の総理であった東條英機中将である。また戦後の政治家で総理を勤めた石橋湛山や”ヤミ将軍”といわれ自由民主党結党に功があった三木武吉も同じ年生まれである。

この世代は、言ってみれば”坂の上の雲”の登場人物につぐ世代である。日清戦争は子供だったが、ちょうど徴兵検査期に日露戦争が始まり、山本五十六は見習士官として巡洋艦「日進」に乗り日本海海戦に参加している。大東亜戦争で山本は59歳で南方戦線で戦死、東條は戦後の連合軍裁判で死刑の判決を受け65歳で刑死してる。

三木武吉は72歳、石橋湛山は86歳、父も84歳まで生きている。山本、東條二人の軍人に比べれば長寿を全うできたが、考えてみると文人でも一生のうちに日清、日露、大東亜と三つの戦争を体験、その波に翻弄されて一生を送った不幸な世代であった。

            大学卒の就職率の好転と中小企業

2012-05-16 06:07:36 | Weblog
文科省と厚労省の発表によると、来年度の大学卒の就職率が前年同期に比べて2.6ポイント上昇し、4月1日現在93.6%と4年ぶりに改善された。1997年にこの調査が開始されて以来、昨年は最低だったが、今年好転に転じたのは、多少景気がよくなったこともあるが、学生たちの間で、大企業志向だけでなく中小企業へも目が向けられてきたからだ、という分析もある。

僕が大学を卒業した昭和28年(1953年)は、戦後の学制改革で旧制と新制の大学で一緒に卒業者が出た年で未曾有の就職難であった。景気もそれほどよくなく、卒業式を終えても就職が決まらない友人も沢山いた。当時は役所と大学との間の就職を話しあう調整機関はまだなく、学生たちはかってに知り合いや先輩たちを頼って企業を訪問、情報を得ていた感じだった。「就活」という言葉はなく、リクルート.ス―ツもなく学生服での企業訪問であった。「職業安定所」(ハローワーク」に出かけたことはなかった。職業安定所はイメージとして失業者が職探しをする場であった。

当時をもやはり僕らは大企業志向であった。”寄らば大樹の下”ではないが、大きな安定企業を望んだが、僕らのような文学部卒は最初から試験が受けられないところが多かった。あれから60年近くたち、それぞれの人生双六を振り返ってみると、果たして大手企業に就職し、定年まで無事勤めたのがよかったのかどうか。友人の一人は卒業しても職がなく、進駐軍クラブでバーテンダーをやりながら大学院を卒業、大学の教授になった者もいる。小さな企業に勤めたが、時代の波に乗って会社が上場企業に発展、社長になった者もいる。人間努力が第一だが、運不運もあるような気がする。


          境川部屋三力士の活躍と大相撲の人気

2012-05-15 06:41:10 | Weblog
大相撲五月場所も昨日、九日目を終え後半戦に入ったが、今場所は一人横綱の白鵬が、どうしたことか早くも四敗し、優勝争いは混とんとしてきた。大荒れの序盤での話題は横綱を二敗させ、大関を計八敗させた境川部屋の豪栄道、妙義竜、豊響の三力士の活躍だ。まだ人気が完全には戻らない国技館の場所を面白くさせている。

また古い話で恐縮だが、僕はこの三力士の活躍をみて昭和14年1月場所の出羽一門三力士を想いおこした。この場所は大横綱、双葉山がどこまで連勝をのばすかに注目が集まり、国技館は徹夜組のファンが出るほどの大盛況であったが、四日目に横綱がまさかと思われた初顔の安芸ノ海に敗れ連勝は69で阻まれた。そして翌5日目にも両国に負け、さらに六日目にも鹿島洋にも負けた。安芸ノ海、両国は出羽の海部屋、鹿島洋は一門の春日野部屋であった。

当時僕はまだ小学2年生だったが、双葉山の69連勝はよく覚えており、連勝を阻止するために出羽一門の力士が集まって、参謀役の早稲田大学出の笠置山を中心に連日策を話し合っていたことまで知っていた。今場所の境川三力士が横綱、大関打倒のため同じように作戦を練ったかどうかは知らないが、七日目に豊響が白鵬に勝ち、勝ち名のりを受けたとき顔に涙を浮かべていたのが印象的だった。後で聞くと、検査役をしていた師匠の境川親方(元小結両国)と土俵上で目があい、思わず涙がこぼれたのだという。

好い話である。二年前の八百長騒ぎやトバク騒動がうそみたいである。相変わらず、国技館は土日を除けば館内はガラガラである。が、こういった境川力士の活躍があれば、近いうちに、往年の大相撲の人気の回復も期待できよう。