「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

”ブログ友”から贈られてきた朝取り北海道の野生蕗(ふき)

2016-05-31 05:34:36 | 2012・1・1
小ブログを通じて知り合った北海道在住の「頑固親父」さん(http//www.stove.93.com)から朝一の宅急便で、朝取りの新鮮な野生の蕗(ふき)がどさりと届いた。先日小ブログが、友人から頂いた朝取りのアスパラカスが美味しかったと書いたところ、「頑固親父」さんから、早速コメントの所感を頂戴した。その返事の中で、僕が40年ほど前、札幌に勤務していた頃、ゴルフ場に野生する蕗が美味しかったと書いた。これに対して「頑固親父」から、お望みならお贈りしましょうと書いてこられた。

僕が10年札幌に勤務して東京に戻ったのは昭和55年。だから35年も北海道の野生の蕗を食べていない。不躾にも僕はゴルフ場の懐かしさから、「頑固親父」さんに所望してしまった。贈られてきた蕗は、「頑固親父」さんが早朝5時、車で北広島のゴルフ場まで行き、朝取りしてきてくれたものだ。そのお気持ちの暖かさが有り難い。

写真の左二つが贈られてきた野生の蕗と越冬の馬鈴薯。三つ目は、たまたま娘が自由が丘の無人スタンドで買ってきた目黒産の栽培蕗。比較すればわかるが、長さも大きさも違う。早速、「頑固親父」さんのご教示に従って、老妻がたっぷりと茹で、味付けして食べ、さらに娘にも”本物”の蕗をおすそ分けした。35年前、まだ元気で下手なゴルフに興じていた頃の味であった。

競馬は認知症に効能? ダービーを取りました

2016-05-30 05:59:34 | 2012・1・1
昨日のダービーで1枚100円の3連複の券1枚が当たり850円也をせしめた。先週のオークス2080円に次いで連続の戦果である。普通、公営ギャンブルの投票は1枚200円からのようだが、近所に住む70年来の友人が、長年の競馬ファンで、中央競馬会との取引口座を持っており、100円から投票できるので、年に24回の大きなレース、G-1だけ彼の名義で、一回500円に限り参加している。

昭和1ケタ老人を評して酒好き、ギャンブル好き、新聞好きというのだそうだ。僕もそうだったが、今は新聞好き以外は改まった。しかし、根はギャンブル好き、やはり、旧友からの誘いがあれば断ることはできない。一回500円、年24回ならば投ずる額は計12000円である、全部取れなくてもたいした額ではない。うち何レースかは当たることがある。ちなみに今年になってあったG-1レース10回の戦果は3勝7敗、合計の配当金はマイナス380円也だ。

偶数月の15日は公的年金の支給日である。この日には町のパチンコ屋や競輪場などの公営ギャンブル場は、年金を手にしたお年寄りで一杯になるそうだ。ギャンブルは人間の本能みたいなものだ。独り住まいの高齢者が僅かなお金をもってパチンコ通いする気持ちは同じ年寄りとしてよく解かる。

年に24回、月にすれば2回だが、G1レースのある日は楽しみだ。前の日から新聞やネットの予想を見て推理する。その楽しみはファンでなくては解からない。それ以上に楽しみなのは、旧友と”ああだ、こうだ”と電話やメールでやり取りできることだ。競馬は認知症に役立つという記事を読んだことがあるが、もしかすると、その効能があるかもしれない。

ダバオの”日本のトンネル” スマトラの”日本の穴”

2016-05-29 05:35:28 | 2012・1・1
フィリピンの新大統領にロドリゴ.ドゥテルテ.ダバオ市長が当選した結果、これまで、あまり日本の新聞に登場してこなかった「ダバオ」の活字を見かけることが多くなった。常駐特派員を置いていない産經新聞のコラムにもダバオの記事があり、その中で、僕はダバオ市内に戦争中に旧日本軍が掘った全長7キロのトンネルがあることを知った。

僕は10年ほど前、西スマトラ(インドネシア)のブキティンギにある旧第25軍司令部が掘った防空壕跡を調べてことがある。当時、日本では学者たちの誤った報道で、この防空壕で労務者3千人が虐殺されたという虚報が流れていた。僕は何回も現地を訪れ、掘削当時の責任者を初め証言を取り、虚報であることを突き止めた。

ダバオの日本のトンネルはなんの目的で掘られたのだろうか。マニラで発行されている「まにら新聞」の”栄える商魂 消える戦場”という記事によると、このトンネルは”ダ.ジャパニーズ.トンネル1942”と呼ばれ、戦後の2001年、現地の製薬会社がトンネルの一部に観光目的でレストランやホテルを造ったことにより、しられるようになった。トンネルの入口には銃をもった等身大の旧日本軍の兵隊や展示室には兵器や軍票なども展示されているという。

”ダ.ジャパニーズ.トンネル1942”という表記から見て、トンネルは1942年(昭和17年)に掘られている。ダバオが本格的な米軍の空襲にあったのは44年、ミンダナオ島に連合軍が逆上陸してきたのは45年5月である。敗戦の8月15日までの3か月間にダバオ地区だけで2万人が犠牲になっており,そのうちの多数は、戦前からダバオでマニラ麻の製造に当たっていた民間人であった。

日本のトンネルの入口には”ダバオの歴史の不思議を知り日本を探検しよう”という看板があるそうだが、探検しようにも日本側の資料や説明がなければ、スマトラの穴のように誤解の原因になる。僕らは有志の協力をえて、現地にインドネシア語と英語で”日本の穴”築造記を作り、これを現地の了解をえて配布してきた。戦後70年、防空壕と郭ふく陣地の違いが判らない世代が多くなってきている。従軍世代が健在のうちに戦地のこういった「遺産」をきちんと整理すべきである。





"第三者”精査の結果が出てどうするの 舛添都知事

2016-05-28 05:27:51 | 2012・1・1
東京だけのローカルTV局「Tokyo.MX」が舛添都知事の定例記者会見をナマ中継するというので、1時間おつきあいした。結果は最初から釈明にすぎないと解かっていたが、それにしてもひどすぎる。知事は深々と頭を下げ、ご迷惑についてお詫びするといっていたが、何か白々しく僕の目には映った。

知事は会見で、終始この問題は弁護士さん方二人に精査を依頼している。先生方が”しっかりと一日も早く即刻に全力をあげて疑惑を明らかにしてくれることを望む”という言葉をくりかえした。”公私混同”の疑惑が出てから、3回目の釈明記者会見だが、一向に解結への道は見えない。知事はまた、第三者に精査を依頼したのは、自分の信頼が失われたからだ”ともいっていた。

”民(たみ)信(しん)なくんば立たず”(論語)。デジタル大辞泉によれば、政治を行う上で重要なのは軍備、食生活、民衆の信頼の三つだが、そのうち、最も大切なのは、民からの信頼とある。舛添知事は、すでに自分から都民の信用を失ったと自認している。それなのに、第三者の精査の結果を待ってどうするのか。知事が期待しているように”公私混同”の中には”法”的には許されるものが幾つかあるかもしれないが。

こんなに連日、”公私混同”の問題がマスコミを賑わせていて、果たして都政は大丈夫なのだろうか。たまたま記者会見のさなか、東京の空の玄関口、羽田空港が大韓航空機のエンジン出火で大騒ぎになっていた。直施、知事には関係ないかもしれないが、美術館”視察”する時間があるのなら、大事の際の羽田空港の危機管理について事前に自分の目で確かめていた方がよいのでは。

北イタリアのアスパラガス料理

2016-05-27 05:40:00 | 2012・1・1
先日小ブログで北海道の朝とりアスパラガスの美味しさを紹介したところ、昔、北イタリアのルーゴ.ヴィチェンツア(Lugo.Vicenza)で、旧友(故人)と一緒に留学生活を送られていた夫人から、メールで次のような同地のアスパラ料理の想い出が寄せられてきた。

「アスパラは美味しかったでしょう。あの味は忘れられません。私どもがいたルーゴ.ヴィチェンツアもアスパラの産地で、5月一杯はすべて掘りたてのアスパラ料理です。ホワイト.アスパラでしたが、掘りたての味は忘れられません。朝掘りのタケノコと同じです。一般的には、きざんで茹でたものをオリーブ油やヴィネガーなどのドレッシングで食べますが、スープ、パスタすべて、この時期はアスパラジ―です。直径2,3センチもあって見事です、畑の端で朝堀りを求め、日本人にこの味を味あわせたいといったら、お年寄りが、近くの大きなチーズ工場へ連れて行き、真空パックにしてくれた親切な想い出が忘れられません」

今は便利な時代である。早速、お二人がいたルーゴ.ヴィチェンツアをネットで調べてみた。ヴェネチアから西65キロの人口10万人ぐらいのヴィチェンツアの小さな町のさらに郊外である。ヴィチェンツアは、町全体が全体がルネッサン期の有名な建築家の設計によるもので、ユネスコの世界遺産にもなっている。その近くにはイタリアで度の強い食後酒て有名なグラッパの醸造所もある。愛飲家であった旧友が夫人と共にアスパラ料理を食べ、グラッパを楽しんでいた姿が目に浮かぶ。その旧友逝きて、もう15年である。



和式トイレを洋式に 老人受難の日

2016-05-26 07:01:43 | 2012・1・1
昨日、老妻に”連れられ”て3年ぶりに浅草にある浄土宗の菩提寺の「御忌会(ぎょきえ)施餓鬼」法要に参列した。江戸時代から続く古刹だけに広い本堂は200人近い善男善女で一杯である。最近、葬儀を簡素化する傾向があり、親しかった友人、知人の葬儀にも参列する機会が減ってきた。それだけに僧侶の唱えるお経を拝聴するのは久しぶりである。

昔と違って本堂は椅子席になっている。老妻は信仰心の薄い僕が法話の途中で居眠りをしないかと心配し後部の末席に座った。しかし、自分たちが歳を取り、難聴になっているのを忘れていた。有り難い法話が聞こえないのである。さらに悪いことには、僕が便意を催してしまった。法要の合間を見て、トイレへ出かけたが、男性トイレには昔ながらの和式トイレしかなく、人工膝の僕には使用できない。お断りして女性トイレを使用させて貰った。

発起して法要に参加したが、昨日は僕にとって「仏難」の日であった。長い歩行が膝に負担になるので、お寺から一番近い「上野広小路」駅まで、タクシーで行き日比谷線に乗ろうとしたら、「中御徒町」と連絡はしているが、上りの階段を450メートルも歩かされた。ここで再び便意があり、身障者用のトイレを探したがない。

舛添都知事の”公私混同”が問題になっている。都知事は都内の美術館の視察には足しげく、いっているようだが、都内の地下鉄駅の現状を視察したことがあるのだろうか。調べたわけではないが、ひょっとすると、駅構内のトイレでにも依然として和式便器が使われているのではないだろうか。あるとすれば五輪までには洋式に変えたほうがよい。

東京で食べる北海道の朝もぎアスパラカスの味

2016-05-25 05:01:39 | 2012・1・1

40余年前、札幌で勤務していた時代、仲人をした当時新入社員であった夫妻から”朝もぎ”のグリーン.アスパラカスがクール宅急便で贈られてきた。東京のスーパーでは見たこともない大きなものだ。早速、娘夫婦にもおすそ分けして食べたが、朝露が滴る新鮮さで美味しい。地元ではなくしての味である。

東京生まれ、東京育ちの僕には、アスパラというと、子供時代に食べた缶詰のホワイト.アスパラである。最初に口にしたのは、食料難時代、米国から贈られてきたLARA(救援物資)ではなかっただろうか。当時のとろけるような味は今でも覚えている。しかし、今のようなグリーン.アスパラを初めて目にしたのは、昭和46年、札幌に転勤してからだ。アスパラは白いとばかり思っていただけに驚いた。しかし、10年間の札幌在勤中、僕はあまりアスパラについての食の想い出はない。

北海道は食の宝庫である。仕事上(とかこつけて)、まだ若かった僕は毎晩のようにススキノを飲み歩いていた。ススキノの飲み屋さんには、ツブやほっき、ホッケ、浜ボウフウのおしたしはあったが、当時アスパラはおいてなかった気がする。その頃北海道産のお米は不味くて食べられなかった。新入社員だった夫妻もすでにリタイヤー,お孫さんまでいる。歳月の流れを感じながら、頂いた朝もぎのアスパラを有り難く頂戴した。


台湾「高砂義勇軍」慰霊碑の今

2016-05-24 05:45:06 | 2012・1・1
小ブログを通じて知り合った関西在住のIさんから最近、台湾を訪れ、烏来(うーらい)の「高砂義勇軍」慰霊碑に詣でてきたと、お手製のカラー写真入の訪問記を頂戴した。「高砂義勇軍」とは台湾の原住民「高砂族」が、大東亜戦争中、「陸軍特別志願兵」制度に応募した若者たちで、戦争末期、約20万人が主に南方の激戦地のニューギニアやモロタイ島などに出征、うち3万人が戦死したといわれている。

烏来は台北から日帰りできる観光地で、ここに住む「高砂族」の人たちが戦後、慰霊碑を建てたが、10年ほど前、碑を管理する観光会社が倒産して慰霊碑が撤去されることになった。これを知った「産経新聞」の呼びかけで、別の場所に移転されたと聞いていた。Iさんは一人旅で、バスに乗って烏来を訪れ、現地の観光案内所に尋ねると、慰霊碑は昨年の台風で全滅しという話。ここまで来て引き返すのは残念だと思ったが、街の中の喫茶店で聞くと、「高砂族」の主人が慰霊碑の近くまで車で案内してくれるという。Iさんはそこから、人気のない山道を一人で1キロほど歩いて碑の前で合掌されてきた。

Iさんの烏来慰霊の旅の記を読んで考えさせられた。戦後70年、あの戦争も過去のもになりつつあるのだ。当事者の現地の観光関係者ですら、慰霊碑について間違った情報を与える。多分、Iさんのような奇特な日本人は少ないのに違いない。テレビの旅行番組を見ていら、今、日本人の間で、台湾の”昔の日本”がブームだそうである。確かに、今まだ残る台湾総督府や台湾銀行などの建物、旧台湾神宮跡、士林農事試験所跡などはすばらしい観光資源であるが、同時に烏来慰霊碑も当時を知る上での遺産である。僕も機会があれば、是非訪れたい。

二つあった五月の東京山の手大空襲

2016-05-23 05:41:43 | 2012・1・1
毎年五月のこの季節になると東京の山の手大空襲を想い出す。B-29による本格的な東京への空襲は昭和19年(1944年)11月24日から20年8月15日の敗戦までの10か月間に81回を数えるが、このうち大空襲とされているのは3月10日(下町)4月13日(城北)同15日(京浜)5月23日(山の手)同25日(山の手)の5つである。しかし、戦後相当な時期まで、僕は城北空襲の事は知らなかったし、二つの5月の山の手空襲を同じ日だと混同していた。

3月10日の下町空襲時、僕は東京の五反田(品川区)に住んでいて被害に会わなかったが、遠く業火が夜空に上がるのを望見している。4月15日の京浜空襲では、動員先の六郷(大田区)の軍需工場が焼失、焼跡整理に従事している。5月23日未明の空襲時、わが家は強制疎開で引っ越した今の地(目黒区)に住んでいたが、落ちてきた焼夷弾の破片を火叩きで消火した。しかし、4月13日の城北空襲と5月25日の山の手空襲には直接かかわりがない。

亡父の日記によると、5月25日から27日まで、わが家は停電でラジオを聞けず、新聞もなかった。28日になって五社共同のタブロイド版の新聞が届き、各地の空襲の被害を知った。亡父は23日の空襲の後も渋谷駅まで歩き、地下鉄で虎の門まで出勤しているが、初めて渋谷駅から神宮にかけての惨状を目にしている。僕だけではなく、当時の都民の多くは自分の周囲の被害は知っていたが、遠くの地の事については知らなかった。この結果、僕のように二回あった山の手空襲を混同していた者も多い。


頑張れ稀勢の里 7月場所がある

2016-05-22 06:17:14 | 2012・1・1
今場所優勝すれば悲願の横綱昇進が期待されていた大関稀勢の里が昨日14日目の相撲で西の横綱鶴竜に押し切られ昇進の夢はすっとんだ。第65代横綱貴乃花が平成3年1月場所で土俵を去って以来”日本生まれの日本人”の土俵入りは見られない。今場所も連日、札止め大入り満員の盛況のようだが、戦前からのオールドファンにとっては寂しい限りだ。

稀勢の里は平成24年11月場所に大関に昇進以来、大関在位4年3場所、その間の年間成績は24年61勝、25年68勝、27年62勝、今年に入ってからも1月場所こそ9勝6敗だったが、3月場所は13勝2敗、今場所横綱を倒し優勝するか、それに準ずる成績ならば、15年ぶりに日本人横綱が誕生することだっただけに残念だ。

稀勢の里は187センチの身長に175キロの堂々たる体格、取り口も突き押しから左四つという本格派で、自分の得意になったときの相撲は危なげないのだが、時々ポカがあって負ける。昨日も鶴竜に差し勝ちながら、押し切られ土俵に転落、左すねを強打、今日の横綱白馬冨士との相撲にも影響がありそうだ。

でも、今場所かりに12勝で終わっても来場所、優勝あるいは準優勝すれば、協会は稀勢の里を横綱審議会に答申すべきだ。国技である大相撲に15年間も日本人横綱がいないのは異常である。7月3日で稀勢の里は30歳。歴代の横綱の中には30歳を過ぎてから昇進した力士もいる。頑張れ稀勢の里だ。