今日5月1日は”労働者の祭典”メーデーだ。と、いっても最近は連合主催のメーデーは”May"(5月)ではなく”April"(4月)に行われている。連合のHPを見ると、昔のような”聞け万国の労働者”を歌って示威行進したようなイメージではないようだ。縫いぐるみの人形と一緒に家族ぐるみで楽しむお祭りに変わってきている。新聞もテレビもあまりメーデーには関心がなく扱わなくなった。
60年前の昭和27年5月1日、東京の中央メーデーは正午すぎ平穏に示威行進が終わったと思えたのだが、日比谷公園を終了場所にしていた過激派の一団が、突然、北朝鮮の国旗などを翻して人民広場(皇居前広場)へ行進を開始した。その数は次第に膨れ上がり、これを阻止しようとした警官隊との間に大乱闘となった。二人の死者を含め双方に数百名の負傷者がでた。いわゆる”血の皇居前メーデー”事件である。
当時僕は大学4年であった。比較的学校が皇居に近いこともあって、級友たちの中にはデモに参加、乱闘に巻き込まれたものが多く、学校では数日後警察に逮捕された者の名前を校内の掲示板に発表、一方的に退学処分にした。随分、厳しい処分だったが、校内での反対運動は起きなかった。
この年の第23回メーデーは、3日前に日米講和条約が発効し、GHQ(占領軍総司令部)が廃止になった直後の開催であった。しかし時代情勢としては警察予備隊(自衛隊)が発足し、再軍備の道を歩むのではないかという危機感が若者中心にあった。全学連の過激派の中には革命の幻想もあって、新宿や渋谷の駅前の盛り場では、週末になると火炎瓶騒ぎが頻発していた。
60年の歳月が流れ、労働者の祭典メーデーもすっかり様変わりしてしまった。”聞け万国の労働者”と言っても、肝心の職がなく労組にも入りたくと入れない生活保護者が全国に200万人もいる。それでも60年前のメーデーのような事件は起こらない。幸せな時代である。
60年前の昭和27年5月1日、東京の中央メーデーは正午すぎ平穏に示威行進が終わったと思えたのだが、日比谷公園を終了場所にしていた過激派の一団が、突然、北朝鮮の国旗などを翻して人民広場(皇居前広場)へ行進を開始した。その数は次第に膨れ上がり、これを阻止しようとした警官隊との間に大乱闘となった。二人の死者を含め双方に数百名の負傷者がでた。いわゆる”血の皇居前メーデー”事件である。
当時僕は大学4年であった。比較的学校が皇居に近いこともあって、級友たちの中にはデモに参加、乱闘に巻き込まれたものが多く、学校では数日後警察に逮捕された者の名前を校内の掲示板に発表、一方的に退学処分にした。随分、厳しい処分だったが、校内での反対運動は起きなかった。
この年の第23回メーデーは、3日前に日米講和条約が発効し、GHQ(占領軍総司令部)が廃止になった直後の開催であった。しかし時代情勢としては警察予備隊(自衛隊)が発足し、再軍備の道を歩むのではないかという危機感が若者中心にあった。全学連の過激派の中には革命の幻想もあって、新宿や渋谷の駅前の盛り場では、週末になると火炎瓶騒ぎが頻発していた。
60年の歳月が流れ、労働者の祭典メーデーもすっかり様変わりしてしまった。”聞け万国の労働者”と言っても、肝心の職がなく労組にも入りたくと入れない生活保護者が全国に200万人もいる。それでも60年前のメーデーのような事件は起こらない。幸せな時代である。