「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

ゴールデン.ウィークがなかった時代の70年前の日本

2017-04-30 05:48:32 | 2012・1・1
大型連休が始まった。最近はあまり、ゴールデン.ウィーク(黄金週間)とは呼ばないそうだが、現役世代にとって、10日間も続く連休が黄金であることには違いない。アベノミクスによる景気がどうのこうの言われているが、テレビの画面で海外観光へ出かける家族連れの姿を見る限り、不景気とは思えない。

年金生活に入って、すでに四分の一世紀の年寄りにとって、黄金週間は、いかに無為な時間を過ごすかー苦痛でもあるが、黄金週間のなかった時代の日本人の生活はどうだったのか―区切りの70年前の亡父の日記帳を調べてみた。昭和22年(1947年)の日記だが、戦後2年目のこの年は、まだ黄金週間はなく、休日は4月29日の「天長節」(昭和天皇誕生日)一日だけであった。5月3日の「憲法記念日」4日の「みどりの日」5日の「こどもの日」もまだなかった。

物のない戦後の時代の粗末な日記帳は、1ページ僅か13行しかなく、1日の記載はその半分しかないが、「天長節」の欄には、僕にとって従兄に当たる、当時21歳の大学生が死亡とあり、翌30日には隣家に住んでいた、やはり別の従姉の連れ合いが27歳で逝去している。二人とも復員してきたばかりで食糧難による栄養不足が原因の結核が死因であった。厚労省の記録によると、昭和22年の日本人の死亡率は1000人当たり15,6人と史上最高である。

ネット情報によると、今国会で与野党全会一致で先の戦争で亡くなった民間人への補償として戦災(空襲、艦砲射撃)で被災した身障者へ一時金50万円が支給されるそうだ。今次戦争による軍人の犠牲者は310万人とされているが、国民病といわれていた結核による死者まで入れれば、戦争による犠牲者は相当な数だ。改めて、黄金週間が楽しめる今は幸せである。


老人には冷たい都立砧(きぬた)公園

2017-04-29 05:44:48 | 2012・1・1
大型連休を先取りして昨日、72年来の竹馬の友3人と弁当持参でバスに乗り近くの都立砧公園へ出かけた。四季折々の自然を求めて遊びに来るが、後楽園ドームの40倍という広い敷地は、木々の緑と芝生で目映ゆい。そんな緑の中で、遠足の小学生たちが三々ごご、芝生の上に座り弁当を食べていた。

杖突き老人の僕は友人の手を借りて、芝生の切り株を避けながら歩いたが、日頃の不摂生がたたって、100mも歩くと腰かけたくなる。しかし、”ファミリ―.パーク”を謳いながら、公園にはベンチが少ない。仕方がない、散在するトイレ伝いに歩いたが、トイレもまだ、すべて洋式ではなく座る場所がない。

半世紀以上も前、昭和37年、初めて英国を訪れた時を想い出す。宿舎近くののケンジントン公園には、いついってもお年寄りたちが座って懇談していた。当時、日本は今のように高齢化が進んでいなかったから、僕の目には異様に映った。多分、今の日本の高齢化は当時の英国以上であろう。

元気な友人二人にはついて行けず、僕は園内の売店のイスに腰掛け、一杯250円のコーヒを飲んでいたら、同年配と思しき老人が話かけてきた。やはり、歩き疲れたのであろう。ベンチがないので仕方がなく売店に立ち寄ったのだが、聞いてみたらなんと僕より6歳も上の92歳、海軍士官学校出身の方だ。

2020年の東京五輪を前に、いろいろ”おもてなし”の話が出ているが、都心の公共交通機関の駅でさえ、老人のバリアーが多すぎる。せめて上下のエスカレーターを完備し、トイレの洋式化を進めたらどうだろうか。都心に近く、これだけ緑に恵まれた砧公園は立派な観光資源である。老人にも配慮してもらいたいものだ。

写真左から3番目は、ベンチがわりなのか大きな切り株。4番目はまだ和式便器が残るトイレ。座る場所がない。

童謡がなくなった平成の時代

2017-04-28 05:26:34 | 2012・1・1
”カラスなぜ鳴くのカラスは山に”で始まる童謡「七つの子」の次の歌詞を当てるクイズをテレビで見てたら、若い人のほとんどが正式に答えられないのに驚いた。中には1980年、ザ.ドリフターズがお笑い番組で歌った替え歌”カラスの勝手でしょう”と答えていたのには失笑した。

僕ら昭和1ケタ世代は大正から昭和初期にかけての童謡全盛時代に育っている。この「七つの子」(野口雨情作詞 本居長世作曲)も大正12年(1921年)児童雑誌「金の星」に掲載され世に出た。僕が今でも口ずさめる童謡の多くはこの時代のものだ。岡野貞一(「春の小川」「春が来た」)河村光陽(「七つの子」 「十五夜お月」)中山晋平(「あの町この町」「テルテル坊主」)山田耕作(「赤トンボ」「待ちぼうけ」)などなど。

家の近くの道端に面した庭にチューリップの花が咲いていた。(写真)”咲いた咲いたチュリップの花が、並んだ並んだ赤白黄色”―この童謡も、調べてみたら1932年(昭和7年)出版された「絵本の唱歌夏の巻」(日本教育音楽協会)に掲載されていたものだ。この雑誌には「鯉のぼり」も載っている。

平成の御世も30年近く経ったが、僕が歳を重ねたためなのだろうか「平成の童謡」を知らない。僕が歌える昭和の最後の童謡は昭和51年にヒットした「泳げタイ焼き君」である。以来40年、子供たちは新しい童謡に接していない。何か理由があるのだろうか。

今村前復興相と比例代表ブロック選出議員

2017-04-27 05:57:00 | 2012・1・1
今村雅弘氏が”(東日本大震災)は東北でよかった”と発言、復興大臣を辞任させられた。今村氏は先日も、大震災で自主避難されている人たちに対して”避難行動は自己責任だ”と失言、被災地の怒りを買っていた。こうなると、失言というよりは、今村氏が復興大臣としての資質そのものである。安倍総理が、任命責任は自分にあるとして大臣を辞めさせたのは当然だ。

大臣の経歴など、あまり関心がないのだが、あまりのお粗末な発言なので、ウィキペディアで調べてみたら、衆院九州比例区選出の当選7回の議員、東大卒、旧国鉄(JR)出身で、いってみればエリート官僚である。

今村氏だけでなく、安倍内閣閣僚の失言がこのところ目立つ。先日は山本幸三地域担当大臣が、博物館などの学芸員が観光振興のガンになっている。辞任させるべきだ”意味の失言をしている。ウィキペディアの知識によると、山本氏もかって九州比例区から選出された当選7回のベテラン議員。東大卒、財務省出身の超エリート官僚である。偶然だが、今村氏も山本氏も昭和22,23年生まれの団塊世代である。

二階俊博自民党幹事長が大型連休を前に、党内の比例代表区選出の1,2回当選議員に対して、連休中は海外旅行を慎み、選挙区にとどまるよう”おふれ”を出した。数重なる所属議員の不祥事に対しての緊縮令なのだろう。が、それにしても、比例区選出議員だけにこんな”おふれ”を出すのであろうか。与野党を問わず、比例区制度自体に問題があるように思われるが、どうだろうか。

老人歯科専門医と訪問治療

2017-04-26 05:50:32 | 2012・1・1
加齢と共に身体のいろんなところにガタが出てくる。二つのガン(膀胱、大腸)を抱えて、その事後検診の通院に追われているが、毎日食事でお世話になっている歯にもガタがきた。歯といっても、自分の歯ではなく、十数年前にした上の総入歯と、下の部分入歯とのかみ合わせである。直接、生命には関係ないので、通院を先送り送りしていたが、内科医から高血糖値と口腔ケアの関連性を指摘され思い切って歯医者に相談に出かけてみた。

最近、新聞の死亡欄を見ていると、肺炎によって亡くなる高齢者が多い。日本人の死亡の原因はガン、心疾患、脳疾患に次いで肺炎が第四位だそうだが、その肺炎の中でも老人には誤嚥により、食物が気管に詰まり肺炎を起こすケースが多いという。そういえば、僕も入歯がガタがきて、咀嚼力が弱くなったせいか、のどに物が詰まることがある。

看板は掲げていないが、僕が通院している歯科医は老人専門医である。患者は、ほとんど高齢者ばかりである。正直言って、どうにもならない僕の歯にも親切に対応してくれ歯石,歯垢をとり、破損しかけた入歯にも応急手当をしてくれた。来週、もう一度通院するが、僕の足を気遣って、予約の時間があっても、雨の日は事前に連絡があれば、延期しましょうと言ってくれた。ネット情報によると、通院できない老人に対しての専門の訪問医制度もあるという。それだけ、歯の治療に困っている老人が多いのだろう。

ついつい歯ぐらいだとおろそかにしがちだが、口腔ケアは諸病の原因である。僕の高血糖値も内科医の診断では、歯に原因しているようである。

あおいバナナと黄色いバナナ

2017-04-25 06:12:18 | 2012・1・1
東南アジア系の外国人が多く出入りする、近くの安売りスーパーに調理用のあおいバナナを売っているのを見つけた。早速、珍しいので、エクアドル産4房100円也と同じく4房160円のフィリピン産の黄色い食用のを求めてきた。(写真)南方の国々では道端の露店で、よく熟れた黄色いバナナに混じってあおい調理用のバナナも売っているが買ったことはなかった。

インドネシアに住んでいた頃、現地の人から、バナナは木で黄色く熟れたのが美味しいと聞いたことがある。しかし、日本ではそんなバナナは入手できないから、輸入の途中、船上で黄色くなったのを食べる。その関係からか、外国人に言わせると、日本で食べるバナナは美味しくないという。戦前昭和の頃は、台湾からバナナから大量に入ってきて、夜店の屋台で叩き売りされていたが、あおいバナナが売られていた記憶はない。

僕が初めてあおいバナナを見て、その”てんぷら”(Pisang goreng)を食べたのは50年前のことだ。その後、現地では”てんぷら”のほかにも色々な調理の仕方があるのを知った。老妻は定住した事はないが、僕の仕事の関係で数回、旅したことがあり、見よう見まねで、バナナの調理法を知ったのであろう。早速、買ってきたあおいバナナの皮をむいて輪切りにし、鍋に入れて豆もやし(Tauge))や厚揚げ(Tahu Gireng)をぶち込み、にわか野菜チャンプルに調理してくれた。結構な一品である。100円のあおいバナナが何回も使用できる。安いものだ。

保護者会とPTA

2017-04-16 05:46:09 | 2012・1・1
松戸市の小学校の保護者会の会長の男がベトナムの少女の死体を遺棄した事件で逮捕された。男は通学路の見守り活動から非行を防止する少年補導委員を委託されていた、言ってみれば地域の名士である。一体全体、社会のきまりやおきてはどうなっているのだろうか。まるで”泥棒がお巡りさんになった”ような社会現象である。

保護者会と聞いて、僕は戦争中の国民学校時代を想い出した。あの時代も保護者会であった。誰がどのようにして選んだのか知らないが、僕の学校では、昔からの地主の素封家が会長をしていた。学校の四大節(新年、紀元節、天長節、明治節)に式典には軍服を模した国民服で参加、長々と祝辞を述べ、お祝いの饅頭を僕らに配った。

今回の事件で、松戸の小学校に保護者会的な組織があるのを知って驚いた。最近の教育問題にはうといのだが、戦後学校の保護者会は占領下、米国の教育制度をそのまま取り入れたPTAに変ったものと思っていた。しかし、どこの学校にもPTAがあるわけでもないらしい。かっては、PTAがあった学校でも廃止された学校が多いみたいだ。PTAの「T」 (先生)が会合での「P」との話合いの煩わしさが原因しているらしい。

松戸の小学校にPTAがあるのかどうか判らない。しかし、意外にも犯人が保護者会の会長だったこともあって、学校側の事件への対応がどうであったのか不明だ。犯人は、日常的には、教育に熱心な模範的な父親だったらしいが、誰も、この男の仮面は見抜けなかたのであろうか。学校側が、地域の問題について、少し、この男にまかしすぎていたのではないだろうか。占領下の教育政策だが、見習うものは見習ってよい。PTAはあったほうがよい。

帝都初空襲と防空演習

2017-04-15 05:37:01 | 2012・1・1
桜の散った、この季節になると、75年前の帝都初空襲を想い出す。昭和17年(1942年)4月17日の白昼、帝都、東京の上空に太平洋上の空母から発進した米機動部隊のB25爆撃機25機のうちの数機が現れ、爆弾を投下した。亡父は日比谷の大審院前で市電に乗ろうとして空襲警報にあっている。日記には”折から散歩中のサラリーマン動揺めく。各所の高射砲が花火が打ち上げれ、逃げ去る敵機の爆音を遠くに聞く。爽快な光景だ”と記してある。僕は国民学校(小学校)6年生だったが、その日は土曜日で半日で帰宅しており、ほとんど空襲の記憶はない。しかし、この空襲の後、教室に椅子、机を高く積み上げ、毎日、とってつけたように、防空演習をしたことを憶えている。亡父は”帝都初空襲”としているが、実際には横須賀工廠や横浜、名古屋などにも飛来し被害を受けている。

この本土初空襲を機に、国防意識が高まり、銃後では隣組を中心に定期的な防空演習が行われるようになった。女性はモンペ姿に目だけ出した防空頭巾をかぶり、国防団長の命令で、消火のバケツ.リレーに励んだ。各家ごとには、コンクリート製の防火用水を置くことが義務づけさせられた。中学生だった僕は、学校で教師の指導で防空壕づくりをした。

この本土初空襲から僅か3年後の昭和20年4月16日の亡父の日記には”昨深夜、200機のB29、京浜西南地区を襲い、各所火の海と化し始めて戦火の脅威を感じる”と書いている。3年前には”爽快な光景”などと、ノホホンなことを言っていた父だが、実際に空襲にあって、戦火の怖さを知った。教室に机や椅子を積み上げて防空演習したり、防火リレーなどまったく意味がなかった。

ジョクジャ旅愁 Wedang Uwuh(ゴミのお茶)

2017-04-14 05:48:04 | 2012・1・1
知り合いからインドネシア.ジャワ島の古都、ジョクジャカルタのお土産にWedang Uwuhを頂いた。ジョクジャには1966年以来、8回出かけているが、恥ずかしながらwedang Uwuhについて知らなかった。「Kamus Besar Bahasa Indonesia」(インドネシア大辞典)を持ち出して調べたが、Wedangは”飲み物”の一種としてあったが、Uwuhはない。Uwuhはインドネシア語ではなく、ジャワ語で”ゴミ”という意味。結局何の飲み物なのかわからず仕舞だったが、さすが、ネット情報時代である。wesang Uwuhで、検索しただけで,正体が解った。

”"ゴミのお茶"と訳してみたが、いかにもジャワ的な飲み物だ。これなら僕も現地で飲んだことがある。ジャワの漢方薬、ジャム―(jamu)を思わせる味だが、あまり薬っぽくはない。中味は生姜(しょうが)、クローブ、シナモンの葉、カルタモン、スゥオ、黄色に変色した角砂糖などが一袋に入っている(写真)。早速頂いてみたが、美味しい。しかし、日本人には甘すぎる。氷砂糖は半分でよい。

過去半世紀の間にインドネシア各地を32回、旅行しているが、一番旅愁を感じるのは、ジョクジャがある中部ジャワだ。インドネシアに昔からある旅館(ロスメン)に泊り、夜明けの祈りを告げるモスクからのアザーンの声を夢うつつで聞き、ジョンゴス(使用人)が部屋まで運んでくれた熱いコーヒを飲む。部屋の前の小道には、鍬を担いだ農夫が通り、素っ頓狂な声をあげたもの売りが通り、伝統的な衣装のジャム―売りの女性が籠を肩にして通る。

ジョクジャに近いテマングー(temanggu)に住む、古き友人の元義勇軍のバンバン.プルノモさん(89)が病床にあり、甥の方からメールで近況のお知らせを受けた。僕が最後にジャワを旅行したのは2012年11月だが、その時、バンバンさんの紹介で泊ったロスメンはボロブドールのパオン遺跡に近いところにあった。ロスメンのベッドは昔ながらの”抱き枕”であった。もう一度バンバンさんのお見舞いを兼ねてジャワへ行きたいのだが、期限がきれたパスポートの更新する気力もなくなってしまった。

朝鮮戦争が始った頃のトルーマンと今のトランプ

2017-04-13 05:27:09 | 2012・1・1
67年前、朝鮮戦争が勃発した昭和25年(1950年)6月25日のことを何故か今でも覚えている。大学2年の英語の授業の後の休み時間だった。同じクラスの朝鮮国籍のH君が悲痛の顔で”戦争が始まった”と大声を上げた。しかし、H君の声を聞いても僕はあまり、驚きもせず対岸の火事で、緊迫感はなかった。おそらく、敗戦から5年、戦争を放棄した新憲法が国民の間に徹底していたからであろう。

金日成(金正恩の祖父)率いる北朝鮮軍が、突如、南北国境の38℃線を越えて韓国内に侵入、あっという間に釜山にまで迫った。慌てた米国は国連安保理の緊急招集を求めたが、ソ連(ロシア)がボイコットした。このため米国のトルーマン大統領は、自国だけで国連軍の名のもとに軍隊を朝鮮半島に派兵した。その主力は在日米軍であった。戦争はその後、中国軍も北朝鮮を支援して3年余りにわたって続き、北側は200万、韓国40万、国連軍(米国)14万人も犠牲者を出したといわれている。

朝鮮半島の情勢がおかしくなっている。北朝鮮がまたまた核実験をしたり、長距離弾道弾を飛ばすのではないかとの情勢を受け、米国の原子力空母などの艦隊が針路を「北」の方向に変え、トランプ大統領は”武力攻撃も辞さず”と物騒な発言をしている。こんな諸情勢を勘案したのか、外務省は韓国在住の日本人、38000人ならびに渡航する人に対して「海外安全情報」をだし非常の場合の注意を呼び掛けている。菅官房長官も日本人の安全には万全を期していると記者会見している。

国交のなかった67年前の朝鮮戦争勃発時とは情勢は違う。しかも「北」は核と近代兵器の所有を豪語している。もしものことがあったら大変なことになる。朝鮮戦争の足跡を改めてチェックしてみて、あの時も、米国の独断と専行が戦争拡大の原因の一つだったことを知り、直情的に僕にはみえるトランプの今後の行動が怖くなってきた。