毎月第3土曜日の午後、僕はスペイン協会の文化の集い「ドンキホーテ.クラブ」に参加している。80歳を過ぎると社会との接点がすくなくなるが、学生時代からの友人のお蔭で、外の空気に触れるこ事が出来るだけでなく、頭のブラッシュ.アップになっている。僕はまったくスペインやラテン文化には門外漢だが、講師の話はいつも楽しく勉強になる。
先週(19日)の会では、講師の田中努先生(元経済企画庁次官)が「ポトシ銀山発見の世界史的意義」について話をされた。ポトシとはボリビア高地にある銀山跡で16世紀に開発された。今は閉山されておりユネスコの文化遺産に登録されている。もちろん、僕は初めて聞く名前だったが、意外にも日本の石見銀山も同じ時代に発見されて一時は世界の銀の三分の一を産出していた。石見銀山も同じように世界遺産である。
田中先生の話は16世紀から17世紀にかけて銀が世界の主要通貨として流通していた、その世界的な流れが主題だったが、僕はこの「ドンキクラブ」で先々月話をした伊達藩、支倉常長の慶長使節との関連で面白かった。慶長使節は、その20年ほど前、欧州に派遣された天正使節が宗教的な目的だったのに対しヌエバイスパニア(メキシコ)との通商が目的だったといわれている。伊達正宗は石巻でアカプルコ行きの船を建造し、百人を超す人間を派遣している。この中には徳川幕府の船関係者にまじって京都の商人もいる。もしかすると、正宗はポトシ銀山についても知識があり、関心があったのかもしれない。
鎖国によって、わが国の外国との交流は明治維新から始まっているように感じるが、500年近く前から銀をめぐってこのような交流があったのだ。江戸幕府の財政がしっかりしていたのは、銀だとも言われている。
先週(19日)の会では、講師の田中努先生(元経済企画庁次官)が「ポトシ銀山発見の世界史的意義」について話をされた。ポトシとはボリビア高地にある銀山跡で16世紀に開発された。今は閉山されておりユネスコの文化遺産に登録されている。もちろん、僕は初めて聞く名前だったが、意外にも日本の石見銀山も同じ時代に発見されて一時は世界の銀の三分の一を産出していた。石見銀山も同じように世界遺産である。
田中先生の話は16世紀から17世紀にかけて銀が世界の主要通貨として流通していた、その世界的な流れが主題だったが、僕はこの「ドンキクラブ」で先々月話をした伊達藩、支倉常長の慶長使節との関連で面白かった。慶長使節は、その20年ほど前、欧州に派遣された天正使節が宗教的な目的だったのに対しヌエバイスパニア(メキシコ)との通商が目的だったといわれている。伊達正宗は石巻でアカプルコ行きの船を建造し、百人を超す人間を派遣している。この中には徳川幕府の船関係者にまじって京都の商人もいる。もしかすると、正宗はポトシ銀山についても知識があり、関心があったのかもしれない。
鎖国によって、わが国の外国との交流は明治維新から始まっているように感じるが、500年近く前から銀をめぐってこのような交流があったのだ。江戸幕府の財政がしっかりしていたのは、銀だとも言われている。
当時は明の隆盛時で、東西貿易で儲けたおカネはまわりまわって結局明に還元されていたとのことです。石見銀山の銀も長崎に運ばれ、南蛮貿易に使用され、これが江戸幕府の経営基盤になっていたようです。我々が歴史で習わないところに面白い話がありますね。