「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

47都道府県「住んだ町」「旅した町」 軽井沢 皇太子の恋

2021-01-31 07:36:52 | 2012・1・1

軽井沢は昭和34年(1959年)上皇殿下が皇太子時代、美智子上皇妃とテニスをt通じて結ばれた地として有名だ。明治時代の初期カナダ人の宣教師が布教のためにこの地にきて、標高1000mの高冷の気候が気に入りコッテージを造って住んだのが、この町の別荘地としての始まりだという。

今は東京から新幹線で1時間少しで行けるが、それ以前は碓氷峠をアプト式で登り「釜めし」を食べたりして2時間はかかった。僕が最初に軽井沢を訪れたのは昭和28年、浅間山麓で在日米軍演習地計画に対して県の労働団体が中心となって反対大会が開かれその取材であった。以来、親類の結婚式や知り合いの別荘に何回か宿泊してるが訪れるったびに町は変容している。町の人口は2万人少しだが、夏の最盛期は人で一杯だそうだ。

軽井沢町ではないが、隣接する群馬県嬬恋村には天明の浅間山の大噴火(1720)で流れでた溶岩で形成された奇岩による「鬼押し出し」公園がある。古い町並み保存とは違った観光資源だ。


緊急事態宣言延長 仕方がないかもしれないが

2021-01-30 07:20:40 | 2012・1・1

緊急事態宣言から3週間目の昨日29日のコロナウイルスの感染状況がどうなのか気にいていたが、一応その指針ともいえる東京の新規感染者数は818人、宣言発令時1月8日の2447人に比べて三分の一の激減ぶりだ。ひとまず心配された爆発的感染にはならずよかった。

これを受けて政府がどう対応するのか。西村康稔経済再生相によると、週明けにも諮問会議を開き専門家の意見を聞いた後、7日の宣言を期限を解除するか延長するか決めるそうだが、マスコミ報道では1か月のさらなる延長になるらしい。介護老人、個人的には困るのだが仕方がない。

昨年4月ー5月の宣言時も途中ゴールデン.ウィークを前に期限が延長されているが、当時の小ブログ(4月29日)を調べてみると、東京の新規感染者は47人、全国でも233人にすぎない。新規感染者ゼロ県が23もある。すべてが今とはけた違いだ。それからみれば延長は当然なのかも。

要介護3の老人、緊急事態宣言下、自発的に足腰のリハビリ通院サービスを辞退しているが、宣言延期となると考えてしまう。リハビリを休むと確実にフレイルの度が進んでくる。医療介護施設でのクラスター感染が多いと聞く。宣言延期と同時に対策も考えてもらいたい。


47都道府県「住んだ町」「旅した町」 長野((3)  松代大本営跡

2021-01-29 08:37:00 | 2012・1・1

昭和30年代の町村大合併で長野市に編入されるまで埴科郡松代町で真田藩の城下町であった。長野市から松代へ行くには信越線(しなの鉄道)の屋代駅から長野電鉄河東線に乗り換えて不便だったが、今は直線バスで30分で行ける。

松代には戦争末期の昭和20年、大本営や天皇の御座所が町の三山の一つ象山に掘られた。今、その地下坑道、総延長10キロの跡の一部は戦争遺跡として公開され、一部は気象庁の地震観測所、保育園に仕様されている。僕は昭和28年、保育園ができたとき取材していえいがくしゃる。

このほか松代は観光資源に富んでいる。真田藩の城跡や同藩の幕末の兵学者、佐久間象山を祭った神社、大正から昭和にかけて松代で生まれた童謡の作曲家、「里の秋」の海沼実,「汽車ポッポ」の草川信の記念碑もある。町内には温泉もあり、善光寺の長野とは別な趣がる。


47都道府県「住んだ町」「旅した町」長野市(2)権堂 憩いの町

2021-01-28 08:20:43 | 2012・1・1

信濃善光寺さんのお膝元長野市最大の繁華街は権堂である。僕は在勤中、日曜を除いて毎日、県庁近くの南県町の新聞社の支局を自転車で出て権堂通りを抜けて東鶴賀の市の警察署へ行くのが日課であった。つい最近まで毎年、老妻の帰郷に合わせて長野市を訪れ、権堂へも出かけているが往時は今よりはるかに賑やかであった。

善光寺へむかう大通りを右に曲がり、長野電鉄権堂駅までの通りをを権堂と呼んでるが、昔は2階建てながら丸光デパートもあり、休みの日には人込みでぶつかりあうほどのにぎあいであった。

その権堂から善光寺方向に坂道をあがると、売春禁止法施工前まだあった赤線街、岩石があり、その近くに「憩いの町」があった。戦後中国大陸から引き揚げ駅前で露店商売していた人のために市が建設したものた。土曜の週末になると、僕は支局長のおともして「憩いの町」の2階の店へ水餃子を食べにでかけた。先年物故した戯曲家の別役実さんの母上の店だった。僕が生まれて初めて餃子を食べたのはこの店だ。

”有難う”という尻上がりの長野なまりが最近聞けなくなくなった。 {丸光}も「岩石」も「憩いの町」も今はない。60年の時の流れを感じる。

 


47都道府県「住んだ町」「旅した町」 長野(1)善光寺

2021-01-27 07:05:08 | 2012・1・1

昭和28年(1953年)早春3月、僕は生まれ育った東京を後にして異郷へ旅立った。学校を出て初めての赴任地が東京に本社がある新聞社の長野支局だったため、大勢の友人に送られて上野駅発の夜行列車で”鹿島立ち”した。長野駅に着いたのは早朝5時頃、まだ薄す暗く寒かった。

支局は県庁近くの南県(あがた)町の古い二階建てのアパートの十畳一間だった。昭和28年3月といえば、吉田茂首相の”バカ野郎”解散があった時で東京では戦後の復興が進み新しいビルが建ち始めてきていた。しかし、支局のアパートは鉄道の寮を改造した建物で僕をがっかりさせた。それから約1年間、僕は支局に寝どまりして駆け出し記者の一歩をふみだした。朝夕食事つきで3000円であった。

担当はいわゆる”サツまわり”で警察と検察庁裁判所だった。支局長の厳命で僕は朝9時半すぎ支局を自転車で出ると夕方まで市内を走りまわった。長野市は坂の町で当時善光寺より、さらに裏山にあった検察庁裁判所へ往復するのは一苦労であった 。善光寺も担当で週に何回か大本願(浄土宗)や大勧進(天台宗)に顔を出した。境内にはインドから贈られてた白牛が話題になっていた。

当時市内の中心部にあった刑務所で服役者がメチールアルコールを飲んで中毒死した事件を特ダネにした。支局長と祝杯を挙げていたら、市内にサイレンが鳴り渡った。服役者が脱走したというのだ。せっかくの特ダネ祝いもそれどころではなくなった。58年も前の話だ。


菅義偉内閣支持率不支持を上回る産経FNN世論調査

2021-01-26 07:00:15 | 2012・1・1

委託先の不正入力問題で休止していた産経新聞とFNN(フジニュースネットワーク)との合同世論調が査活し、その結果が産経新聞のが一面(26日付け首都圏版)に3段見出しで大きく載っていた。これを見て僕が首をかしげたくなったのは菅儀偉内閣の支持率が52.3%tと不支持の40%を大きく上回ってだ。理由は同じ調査で、これまでの政府のとってきたコロナ対策について「評価しない」が65.7%もあるのに対して「評価する」は33.6%しかない。なにか矛盾を感じるからだ。

マスコミの世路調査について詳しくは知らないが、多少の差はあるが、いつも大体同じ傾向だ。だが、直近の菅儀偉内閣の支持率につぃて調べてみると,,産経FNN以外の朝日新聞、NHK,,,時事通信三社の菅内閣の支持率はそれぞれ、33%、40%,,,,34...2%でお不支持率の45%、41%、39%を下まわっている。産経FNNの調査方法えいは寡聞にして知らないが、産経読者、フジテレビファンを対象にした調査ではあるまい。

産経FNN調査によれば2月下旬までにワクチン接種を開始すという菅総理の方針に賛成なのが77.2%もいるのに実際国民全体が接種が終わるは6月だという。後手後手である。それでも523%もの人が菅内閣を支持している。26日も東京で1026人もの新たな感染者あでている。

 

 


場所ごとに変わる優勝賜杯 役力士の不甲斐なさ

2021-01-25 08:17:24 | 2012・1・1

コロナ禍で16人もの休場者の中開催された大相撲1月場所は西幕内筆頭の大栄翔が13勝2敗で優勝した。連続優勝をかけた貴景勝をはじめ大関3人、関脇2人、小結2人役力士7人を総なめにした堂々たるもの。昨日、老生は一部の期待を込め冗談交じりで正代の大関の名誉をかけての逆転優勝を予想したが見事に外れた。

戦前の双葉山時代からのオールドファンだが、前頭力士の優勝といえば、昭和14年1月場所の前頭17枚目の出羽湊と最が近では平成14年5月場所の前頭7枚目の旭天鵬が記憶に新しいが、そうめったはない。が、最近は目立つので調べていたら令和になってからの直近10場所で朝乃山、徳野龍、照ノ富士、それに大栄翔と4人もいる。昔から幕内優勝は横綱、大関だったのだが異常だ。

この現象をどう見るか。よく言えば”群雄割拠”だが”日がわり”のように毎場所ごとに優勝者が変わり、平幕からも出るようでは横綱、大関、関脇、小結の三役の意味がない。次の3月場所横綱審議会から注意勧告をうけている白鵬、鶴竜両横綱は出場するのだろうか。三大関には全勝優勝しても綱とりの権利はない。話題はここ2場所13勝、11勝と連続好成績の照ノ富士の大関復帰だ。やはり、大相撲は横綱、大関が安定しているほうが面白い。


警官も立ち会った戦前の伝染病患者の入院 特措法の改正に思う

2021-01-23 09:18:22 | 2012・1・1

コロナ.ウィルス感染による飲食店などの時間短縮勧告や感染者の入院拒否に対して罰則令で対処できる特別措置法の一部改正法案が23日閣議決定され、国会で審議されることになった。特措法の改正について小ブロぐは伝染病防止の立場から罰則を伴う厳しい案に改正されるべきだと主張してきた。

昨年3月5日更新の小ブログは戦前我が国の伝染病対策がいかに厳しかったかの実例として、大正14年(1915年)3月亡父がチフスに罹り、白金にあった伝染病に1か月入院した時の一ことを日記から紹介した。父親は”自宅にどやどやりと入ってきたサーベルを下げた警察官や吏史に囲まれ狭い寝台車に乗せられた。病室の壁や天井はすすけて鉄のベッドが二つ置かれえきり

戦前の伝染病の流行につぃては、戦後生まれの世代にはその実態が思いうかばないのでは。伝染病は警察と同じ内務省の管轄下であった。戦前は今と違い、コレラ、チフス、疫痢、赤痢などの伝染病が毎年のように流行、その予防注射が行われたが、その会場には警官が臨席していた。今では考えられない。

特措法の一部改正法案の国会での審議を前に懲役刑まで伴う罰則は行き過ぎだという意見が一部に出ている。僕も同意見だが、新聞の社会面の片隅に格安航空の機内でマスクの着用を拒否した30歳代の男性が威力業務妨害罪で起訴されたという記事があった。こと、人命に関することだ。100年目とは違うが、やはり法国家であり必要だ。

 

 

 


47都道府県「住んだ町」「訪れた町」都立大学(2)海軍の屋敷街

2021-01-22 07:12:46 | 2012・1・1

柿の木坂の町造りは昭和2年(1937年)渋谷(東京)と桜木町(横浜)とを結ぶ東横線が全面開通、荏原郡衾村の地に「柿の木坂」駅ができてからた。だ。駅名は同4年、駅近くに(東京)府立高校(旧制)が設置されたため「府立高校」と改名された。その後、駅名は戦後の学制改革などで学校名が変わるたびになんどか変更されてきた。しかし、現在、都立大学のキャンパスは八王子が中心であり、ここにはない。

柿の木坂は学校誘致後、急速に住宅街に変容した。隣接の東が丘に海軍病院(現在の国立医療センター)ができ、駒沢で五輪開催が決まり道路網が整備された。たまたま10年には海軍軍縮があって、退職した海軍軍高級運人家を造り移住してきた。戦後、代は変わったが、今でも住民には旧海軍関係者が多い。

"旧”都立大学跡地は現在、目黒区民キャンパスと呼ばれ、敷地内には中高一貫の桜修館高校が一部を使い、他の敷地には”パーシモン(柿).ホール”や高層住宅が建っている。冬の晴れた日には遠く富士の霊峰も遠望できる。