「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

                 新島八重と寒梅

2013-01-31 05:51:38 | Weblog
わが家の猫の額のように狭いベランダの鉢植えの寒梅がやっと咲いた(写真)。数年前老妻が近所の寒梅の枝が道路に落ちていたのを拾い挿し木したものだが、今年は開花が平年より半月ほど遅れている。小ブログは5年前の2008年1月16日「庭上の寒梅、春の足音」という題で同志社大学の創始者、新島襄の辞世の漢詩「庭上一寒」を紹介している。
            庭上一寒梅 笑侵風雪 不争又不力 自占百花魁
       (庭先の寒梅が咲いた 風雪に耐え笑うように 争わず無理もせず  
        どの花よりも先に花を咲かす)

新島襄は明治24年元旦、病気療養先の神奈川県大磯で上記の漢詩を詠んだ後の1月23日、夫人や弟子に見守れながら48歳の若さで天国に召された。この五言絶句が辞世の詩となった。新島襄の夫人、八重は今NHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公として名前が知られているが、恥ずかしながら5年前、僕がブログを書いた時には八重のことを知らなかった。しかし、その後調べてみると、新島襄には八重を寒梅にたとえて歌ったこんな和歌もあった。「 めずらしと誰がみざらん世の中の春に先立つ梅の初花」  

「庭上一寒梅」は「同志社のうた」(作曲大中寅二)の一つとして歌われており、同志社のキャンバスには「真理似寒梅 敢侵風雪開」と書かれた石碑もある。八重も襄の死後も庭先に寒梅を植え愛でていたそうだ。「八重の桜」も似合うが「八重の梅」も似合う女性であった。

    四人の百歳の誕生日会を祝った福島の介護老人保健施設

2013-01-30 07:49:55 | Weblog
福島原発事故現場から市の一部が30㌔圏内に入る田村市滝根の介護老人保健施設で施設長をされている女医の田中リナさん(インドネシア国籍)から施設の「聖オリオンの郷」の名前をとった機関誌「オリオンだより」最新号と共に先生が「福島県医師会報」に寄稿された老人医療についての冊子を頂戴した。

田中先生はこの老人介護施設に施設長として赴任されてから8年目に入るが、先生の原稿によると、この間施設で百歳の誕生日会を祝ったお年寄りは4人もおり、逆に死亡診断書を書いたのは105歳の方一人だけだという。このことを東京の施設でケア.マネージャーをしている僕の知人に話をしたところ、とても信じられないと驚いていた。もちろん、これは先生も原稿で書いておられるように地域の関係医療機関、救急隊員、住民の支援それに施設の全職員の誠意ある仕事の賜物である。

老妻と二人で先生の原稿を読んで”お医者さん嫌い”の老妻が我が意を得たと僕に言った。それは先生が必要以上にお年寄りに薬を投与していないことだ。お年寄りの中には、薬をたくさんくれる医者が名医だと誤解し、風呂敷包みを持って病院に出かけていたとのこと。先生はもともと産婦人科が専門なこともあって出来るだけ薬に頼らない治療をされている。

田中先生は昭和21年、9歳だった時、日本海軍の軍属だったお父さん夫妻と共にインドネシアの小さな島から日本に引揚げてきた。当時の東京は一面焼け野原だった。戦後の苦しい生活の中で、先生は私立の小中一貫校から都立の高校を出て難関の医大を卒業、日本での医師免許と博士号を得ている。南の国生れだが、先生は今はこの雪深い阿武隈の山あいの生活がすっかり気にいっておられ、手紙には施設のきれいな雪景色の写真が添えられてあった。

             女子挺身隊と一人の姉の死

2013-01-29 07:11:55 | Weblog
一人だけの姉弟だった姉が生きておれば今日1月29日は満90歳の誕生日である。その姉が21歳の若さで他界したのは昭和19年5月2日であった。正月に風邪をこじらせたと思われたのが、実は肺結核だった。あっという間にこの世を去ってしまった。昭和19年といえば戦争が激化し若い男性は皆、徴兵されて戦地に送られ、銃後の職場は極端な人で不足になっていた。

「女子挺身勤労令」が国家総動員体制下で実施されたのは19年6月であった。姉は旧制女学校を卒業後すぐ生命保険会社に勤務していたので、挺身隊ではなかったが、会社は次々と男性が戦地に赴き、人出不足から連日過勤が続いていたようだ。その無理がたたって姉はダウンしてしまった。僕は今でも姉は”銃後の戦死”だと思っている。

         「輝く黒髪女子挺身隊の歌」(西条八十作詞 古関祐而作曲)
           輝く黒髪きりりと結び 今朝も朗らかに朝霧踏んで
           行けば迎える友の歌 ああ愛国の陽は燃える
           我等乙女の挺身隊
この歌は19年8月発表だが、翌20年1月、僕も中学校から挺身隊員として工場へ勤労動員され、駅から工場まで”花も蕾の若桜、五尺の命引っさげて、国の大事に殉ずるは”という勇ましい学徒挺身隊の歌を歌いながら行進した。

挺身隊とは当時僕らは”国の大事に殉ずる”学校あるいは職場ごとに結成された勤労隊という認識だった。事実女子挺身隊の第一号は女子学習院のOG組織「常磐会」であった。それだから、ソウルの大使館前で今毎週水曜日に行われている「半島女子勤労挺身隊協議会」という団体が、戦時中挺身隊に応募した韓国の女性が”従軍慰安婦”に強制的にさせらという抗議には、全く違和感を感じる。歴史に対する冒涜である。
(女子挺身隊については「半島女子勤労挺身隊」(高崎宗司)に詳述されているので参照ください)

            アラブ人の性格と砂漠の残忍さ

2013-01-28 07:14:05 | Weblog
アルジェリア人質事件に関連して先日小ブログのコメンテ―ター、chobimameさんから、こんなにテロを繰り返すイスラム教徒はオカルト集団ではないか、彼らの経典「コーラン」には殺戮のノウハウでも書いてあるのではかと冗談交じりの批判を頂いた。chobimameさんだけでなく、多くの日本人は同じような思いをしているのに違いない。そこで、僕は世界一イスラム教徒の多い、インドネシアと半世紀近いお付き合いがあり、アラブ連盟加盟21か国のうち10か国を訪れた体験から、イスラム教徒の名誉のために一文してみた。

イスラム教徒は全世界に11億人以上おりキリスト教につぐ第二の宗教である。一神教であり、もともとは平和を愛する宗教である。僕が知っている友人、知人はみな熱心なイスラム教徒で、厳しい戒律を守り、お酒は飲まないし僕より強い道徳心の持ち主である。わが国は歴史的にほとんど無関係なこともあってイスラム教徒はほとんどいない。最近イスラム国から外国人労働者が増えてきて、多少イスラムについての理解は増えてきたが、欧米に比べれば低い。

僕は米国の9.11同時多発テロの後、繰り返されるイスラム過激派のテロについて多少研究している一人だが、最近読んだ「アラブ人の気質と性格」(サニア.ハマデイ著 笠原佳雄訳 1974年サイマル出版)というアラブ人の書いた本にこんな記述があった。

「アラブ世界は砂漠が多いが、砂漠は無慈悲で残酷でよそよそしく、厳しくかつ反抗的だ、そこには残忍と荒廃の土地がある」
「アラブ人にはもう一つ強烈な特徴がみられる。失敗、汚名などに対するアラブ人の反応が防衛的ではなく攻撃的な点である。この性向はアラブの伝統的な”聖戦”(ジハード)の呼びかけに影響される」
「アラブ人の攻撃性は主として言葉の上での口論批判という形になって現れ、、とくに外国勢力を生け贄として探し求める。彼らの攻撃的な性格と嫉妬はねたみを通じて表面に出る」

               早春の伊豆 冬来たりなば春遠からじ

2013-01-27 07:58:51 | Weblog

早春の伊豆である。冬来たりなば春遠からじだ。車窓から見え隠れする冨士はまだ全山雪化粧だが、里では紅梅が咲き始めてきていた。いちご園のいちごはこのように完熟。菜の花畑は黄色一色だった。

           ご存知ですか68年前の銀座空襲

2013-01-27 06:42:57 | Weblog
68年前の昭和20年(1945年)1月27日白昼、東京の銀座がB-29の空襲を受け死傷者多数を受けている。亡父の残した日記には”帝都の中枢爆撃”と赤字で大書され銀座、数寄屋橋、京橋、鍛冶橋、丸の内山水楼付近爆撃を受け死傷者多数とある。この日は土曜日であったが、今のように仕事は休みではなかった。当時、僕は五反田に住んでいたが最近までこの銀座空襲を知らなかった。

東京の空襲は昭和19年11月4日から始まり敗戦までの10か月間に106回もあった。そのうち1回の空襲で10万人もの生命を奪った3月10日の下町大空襲、4月15日の大森、蒲田地区への京浜大空襲それに5月24日、25日の渋谷、新宿方面への山の手大空襲は一般にも知られているが、他の空襲については実際に体験した関係者以外は知られていない。

僕が覚えているのは19年11月24日昼過ぎB-29一機が飛来し、通っていた中学校(旧制)の近くに爆弾を落としていった。この爆撃で下校中の級友の一人は、退避した防空壕で生き埋めになったが幸い無事であった。B-29の空襲は最初は少数機で白昼それも爆弾であったが、大晦日の夜、当時下谷の黒門町に住んでいた叔母一家が焼夷弾によって焼け出された。わが家にも5月24日夜の空襲で焼夷弾の破片が落ちててきたが、火叩きで消し無事だった。

東京空種の全容については70年近く経った今でも不明の点が多い。当時軍や警察が防諜上の理由からか被災の詳細について明らかにしなかったし、ラジオや新聞も報道の機能を失っていた。個々の空襲については実際に被災した関係者の記憶に頼るしかない。その関係者も高齢化してきた。106回の東京空襲の一つ一つを検証した記録があるのであろうかー。

               初詣 温泉 いちご狩り

2013-01-26 18:22:20 | Weblog

町内会の旅行で”伊豆一の宮”の三島大社へ初詣に出かけてきた。早朝7時30分に家の近くの集合所から観光バスに乗り高速同道路で一路目的地へ。一行30人は同じ町内会の顔見知りの面々。三島大社は、昔から由緒ある神社で、樹齢1300年という金木犀が有名である。参拝の後、中伊豆の畑毛温泉へ行き、昼食をとりながら休憩、温泉に入った。さらにその後、岩間農協の経営するいちご園で食べ放題のいちご狩りを楽しみ、菜の花畑で積み草をした。これで参加費用は〆て5千円。町内会から補助もあるが、僕ら高齢者にとっては家の近くからバスに乗り、ほとんど歩かずに済むので好評だ。

     イスラム過激派の礼拝強要と旧日本軍の宮城遥拝

2013-01-25 06:29:06 | Weblog
アルジェリア人質事件は邦人10人が殺害されるという最悪の事態になった。無事だった7人と23日までに死亡が確認された9人の遺体を乗せた政府専用機は25日帰国した。菅義偉官房長官は帰国後、これまで公表しなかった犠牲者の氏名を明らかにするが、事件後9日たって次第に今まで判らなかった事件の全容が明らかになりつつある。

産経新聞のカイロ電は現地紙や政府関係者の発言などから今回の人質事件の計画準備から襲撃の模様緊迫した現地の様子を伝えているが、その中で犯人のイスラム過激派が人質に対して礼拝を強要したとあった。強要がアルジェリア人だけなのか日本人を含む全員なのか明らかではない。が、過激派のファナティックな一面が覗えて事件の解明にも役立つかもしれない。

この礼拝の強要から、僕は先の戦争中の日本軍政下で現地人や抑留外国人に不評だった宮城遥拝を想起した。元インドネシア大使で戦争中は旧日本陸軍の軍政官だった斉藤鎮男氏(故人)は著書「私の軍政記」の中で、軍政が悪評だった具体的な例として日本語の強制、宮城遥拝の強要、頭髪の刈込の制度化をあげている。メダンの中心部には紘原神社が建設されて、ここでもイスラム教徒が礼拝するメッカと反対の東方向にむかって礼拝を強制した。

イスラム教徒は1日6回、どこにいてもメッカの方向が判るようにキブラという矢印が書かれているが、僕の知る限り回教徒が同じ回教徒や他宗教の信者に礼拝を強要するのを見たことはない。産経新聞によると、アルジェリア人の人質の一人は”怖いから礼拝に従った”と告白しているが、僕の知っているイスラム教徒とは違った人たちである印象を受けた。

  アルジェリア事件なぜ政府は情報を隠蔽するのか

2013-01-24 07:33:14 | Weblog
アルジェリア人質事件で犠牲になった日本人犠牲者の数は新たに死亡が確認された2人を含め9人となった。9人の中には「日揮」の最高顧問も入っているが、政府は「日揮」側の要請を入れて犠牲者の名前、年齢など一切発表していない。「日揮」側が事件に巻き込まれ犠牲者や遺族を配慮して非公開を政府に申し入れた心情は解るが、政府がこれを受け入れたのは情報隠ぺいに通じるもので理解できない。

過去において、こういった事件が発生した場合、政府は犠牲者の名前を明らかにしてきた。今回のように身元を一切明らかにしないのは異例である。確かに「日揮」側が憂慮するように、事件にあった関係者を公表すると、マスコミの取材合戦にあい犠牲者や遺族が迷惑をこうむることは解る。かってマスコミに籍をおいた者として十分理解でき反省する面もある。

とはいっても、関係者の名前など一切公表しないのは問題である。内閣記者会が菅義偉官房長官に対して名前、年齢などを公表するよう申し入れたのは当然である。政府が犠牲者の中に「日揮」の最高顧問が入っていたのを公表したのかどうか。もし公表していなければ、国民は何故最高顧問が事件にあったかわからず、なぜテロが襲撃したのかも理解できない。もう一つ僕が理解できないのは、犠牲者全員が「日揮」の社員なのかどうかである。「日揮」のプラントで働いていたのであろうが、漏れてくる情報では別会社の派遣社員もいるようだ。

政府が全力を挙げて事件の解明に当たり、政府専用機まで現地に派遣して邦人の救出に当たっている努力は十分理解できるが、一企業に遠慮して情報隠蔽に通じる措置を取ったのは頂けない。

         二所が関部屋の閉鎖と社民党の斜陽

2013-01-23 07:09:27 | Weblog
大相撲では昔からの部屋の結びつきから「一門」という言葉を使うが、出羽海、高砂、伊勢が浜、時津風、二所が関と五つある「一門」頭の二所が関部屋が今場所限りで閉鎖される。親方が長期病気静養で部屋の維持が出来なくなったからだという。二所が関部屋といえば先日物故した昭和の大横綱、大鵬を始め玉錦、玉の海などの横綱を輩出した由緒ある大部屋だけに残念だ。

一つの歴史の流れを感じるが、暮れの総選挙で大敗した社民党の凋落ぶりにも同じ感じを抱く。社民党は1996年1月、日本社会党から名称を変更した戦後の由緒ある政党だ。50年代あら60年代にかけては日本社会党は衆院で140議席を維持していたが、現在は衆参国会議員数は僅か4人しかいない。先の総選挙の比例代表得票数もたった2.3%、総得票数も142万票という凋落ぶりだ。その斜陽を象徴するかのように、長年党本部が入っていた三宅坂の「社会文化会館」も近く取り壊されるという。

社民党本部の引っ越しに伴ってロビーにある浅沼稲次郎(旧日本社会党委員長)の銅像が重すぎて移転が問題になっていると新聞に書いてあった。浅沼委員長が日比谷公会堂で右翼の少年によって刺殺されたのは196010月だった。その直後の九州11月場所で、大鵬が初優勝をしている。大鵬親方の鬼籍入り、二所が関部屋の閉鎖そして社民党の大凋落そして本部の移転など一つの歴史の終わりを感じる。

同じく暮れの選挙で大敗した民主党はどうなのか。なにか僕には社民党と同じ道をたどっているように思えてならない。