「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

痛ましい沖縄第24師団鉄兜地下足袋姿のご遺骨

2013-07-31 05:24:40 | Weblog
沖縄県浦添市の前田小学校付近の道路拡張工事現場から旧日本軍兵士のご遺骨が鉄兜、地下足袋姿で発見された。ご遺骨のそばには、銃剣、水稲、時計などと一緒に「田端」という印鑑もあった。沖縄戦史によると、このあたりは、昭和20年4月から6月にかけて日本軍第24師団歩兵32連隊と米軍との間で激戦があった場所だ。僕は戦後1990年代、JICA(国際協力事業団)の仕事で、前田高地にある沖縄国際センターに数回宿泊しているが、恥ずかしいことに、この辺りが激戦地で沢山の方がお亡くなりになっていたのを知らなかった。

今回発見されたご遺骨は、前田高地をめぐる激戦で亡くなられた第24師団の兵士であることは間違いない。僕は改めて第24師団の師団史を調べてみて、その悲運に同情した。第24師団は昭和14年、満州(中国東北部)ハルピンで編成された部隊だが、16年12月大東亜戦争勃発とともに南方作戦に転戦した。師団の一部は太平洋上の孤島、メレヨン島に派遣され基地造りに従事したが、戦争の激化とともに島への補給線が絶たれ四分の三の方が餓死している。師団の別の部隊はサイパン島に向かったが、途中で輸送船が沈没、やっとサイパン島に上陸した部隊も最終的には玉砕してる。

師団の主力は19年7月、米軍上陸前のひっ迫した情勢の中で沖縄の守備についたが、翌20年3月には慶良間諸島に米軍が上陸、4月には本島にも上陸してきた。師団は首都首里をめぐる攻防戦の一翼をになったが、物量を誇る米軍の前には、ひとたまりもなかった。ご遺体には申し訳ないが、軍靴ではなく地下足袋姿であり、おそらく持っていた銃も三八銃(明治38年製)に違いない。それにしても戦後67年も経っているのに、こうしたご遺骨が発見されるというのは痛ましいかぎりだ。

旭日旗を何故FIFAは許さないのか

2013-07-30 11:42:00 | Weblog
韓国のメディアが先日の日韓サッカー試合で、日本のサポーターが旭日旗を持ち込んんだのはFIFA規約違反だと騒いでいる。旭日旗は”日本帝国主義による侵略の象徴である”という理由からだそうだ。旭日旗は旧日本陸軍の軍旗であり、同じく旧海軍の軍艦旗であった。古くローマ時代から、国には国旗とは別に軍旗はあり、今でも自衛隊は軍旗として旭日旗を使っている。これが何故植民地主義の象徴なのか。そして初めて知ったことだが、何故FIFAは、応援に旭日旗の持ち込みを許可しないのだろうか。

僕ら昭和1ケタ世代は、あまり旭日旗という言葉を使った記憶はない。旭日というと愛国行進曲の一節”見よ東海の空明けて旭日高く”を思い出すぐらいだ。国旗は”日の丸”であり”日章旗”であったが、軍旗である旭日旗は一般社会ではそれほど、なじみがなかった。旭日旗は海軍の軍艦旗だと思っていたほどだ。しかし、陸軍内部においては天皇陛下から奉戴されたものとして尊ばれ、軍旗記念日があり、玉砕の際には、奉焼したものだ。た。旭日旗を先頭にして戦ったが、戦闘は植民地主義のためではなかった。

たまたま僕の幼稚園時代(昭和11年)の自由画帖があったが、これをみると、旭日旗が描かれている。大洋を行く軍艦が、勇ましく軍艦旗を掲げている。そして空には大きな太陽がある。当時の子供はどんな絵にも”お日さま”を描いたものだ。今の子供はどうなのだろうか。旭日旗を植民地主義の象徴と見る韓国のメディアは、よほどひねくれた根性の持ち主だが、日本のサポーターも他人に誤解を呼ぶような行為は敢えてしないほうがよい。旧軍服を着て靖国神社参拝のたぐいである。

韓国人のヘイト.スピーチは民主党のおもねり外交のつけ

2013-07-30 05:48:21 | Weblog
韓国人の対日ヘイト.スピーチがネット上でとびかっているそうだ。YOUTUBEには”日本人は皆地震で死ね”といった類のものまであるという。ヘイト.スピーチとは、ウイキぺディアによると「憎悪表現」の一つだそうだが見苦しいし聞き苦しい。そんな中28日ソウルで行われた日韓サッカー戦の会場に”歴史を忘れた民族に未来はない”という横断幕が張り巡りされていた。国民あげてのヘイト.スピーチの観さえ感じる。27日の女子サッカー戦の会場にも、東京の国立博物館所蔵の韓国王朝時代のよろいと兜の写真が印刷された懸垂幕が持ち込まれたが、試合直前に禁止されたという報道もある。

昨年来の日韓関係悪化の発端は、昨年8月、李明博前大統領が竹島に強行上陸したのが始まりであるが、その背景には3年3か月の民主党政権のおもねり外交がある。2010年、当時の菅直人首相は、日韓合邦百年の記念として、宮内庁の所蔵であった「韓国王室儀」を返還した。「韓国王室儀」は李王朝時代の儀式一般を記した本だが、1965年の日韓基本条約の付属文書によって法的には一切返還する必要はない。どうも、これが”呼び水”になってしまった。今や韓国は日本国内にある4425の文化財全部の返還を求めている。

”歴史を忘れた民族には未来がない”とは、自分の事を言っているように思える。1910年(明治44年)、わが国が諸外国承認の下に大韓民国を併合したのは歴史的事実である。それから1945年8月15日まで、朝鮮半島の人が日本人であったことも歴史的事実である。この間朝鮮民族にとっては屈辱であったかもしれない。しかし、一方では亡国寸前だった国土のインフラが整備され、教育制度が整備されたことも事実である。その歴史を忘れた民族には、それこそ未来がない。



通州事件から76年、中国軍による残虐

2013-07-29 05:45:39 | Weblog
通州事件が起きてから76年、この中国軍による残虐事件は今や日本人の記憶から忘れかけようとしている。小ブログは過去二回、この通州事件を取り上げているが、あえて角度を変えて事件を振り返ってみることにした。事件は昭和12年(1937年)7月29日未明、北京郊外12キロの冀東防共自治政府内で発生した。日中議定書に基づき、同地区内には居留民保護のため百数十名の日本軍も駐屯していたが、千人を超す中国軍が一斉に蜂起し、395人の日本人居留民のうち242人が虐殺された。

事件は7月7日の盧溝橋事件か3週間後に起きている。盧溝橋事件は日中間の休戦協定で戦火は収まったかにみたが、その後も北京では大紅門、廊場、広安門と散発的な衝突があり不安な状態が続いていた。僕の先輩記者であった当時同盟通信(今の共同通信)の安藤利男氏(故人)は、この情勢を見て、北京から比較的安全とされていた通州に避難し、事件に遭遇したが九死に一生を得て助かった。被害にあった日本人の中には安藤氏と同じように難を避けて、それが裏目に出たひとが多かった。

通州事件が日本に伝えられたのは2日後で東京日日新聞(毎日新聞)は、31日号外で”惨憺たる通州の真相”を伝えた。国民は初めて通州事件の悲惨さを知ったが、なぜか当時新聞社勤務だった亡父の日記は、盧溝橋事件から一連の日支間の衝突事件は記載しているが、通州事件については記載がない。余りの悲惨さに書く気持ちにならなかったのかもしれない。

中国での残虐事件というと、日本軍による南京虐殺が日本の教科書に紹介されているが、通州事件については記述がない。戦後の市ヶ谷連合軍裁判で”南京虐殺”は世界に紹介されたが”通州虐殺”は裁判長によって弁護人の証拠提出願いさえ却下されている。”勝てば官軍、負ければ賊軍”である。

「大東亜戦略指導大綱」に巻き込まれて70年、99歳日本女性の半生

2013-07-28 07:28:14 | Weblog
2年ぶりにジャカルタから帰国した長田周子さん(99)と東京でお会いした。長田さんの半生は日本.インドネシア裏面史そのままだ。僕は2011年6月、小ブログに「混乱の日イの歴史70年を生きて」と題して3回続きで彼女の半生を紹介したが、今年は彼女の混乱の裏面史のモメントとなった「大東亜政略指導大綱」策定から70年である。改めて、この大綱とは何だったか考えてみた。

長田周子さんは大正3年、山梨県の富豪の家に生まれ、当時の女性としては珍しく東京の女子大学に進学、在学中にセッツルメントを通じて日本に留学中のスマトラのダトゥ(地方の有力者)の息、マジッド.ウスマンさんと知り合い結婚した。昭和13年の事である。国際結婚はまだ珍しく、当時の婦人雑誌は”スマトラの青年と国を越えての愛”と大きく報道され話題となった。

長田さんは結婚して名前をシティ.アミナ.ウスマンと名前を変え、西スマトラのウスマンさんの郷里で幸せな結婚生活を送っていたが、昭和16年、大東亜戦争が勃発、ウスマンさん一家は夫人が日本人だという理由で蘭印当局に逮捕されてジャワに送られ抑留された。しかし、日本軍のジャワ上陸で救出されて故郷に帰った。ウスマンさんは独立運動の闘士として知られ、スマトラ駐留日本軍はスマトラに幽閉されていたスカルノ(初代大統領)と交換するような形でウスマンさんを迎えた。

西スマトラのウスマンさんの故郷に近い、ブキティンギに司令部を置く第25軍司令部の軍政はインドネシアの将来の独立に向かって、指導者ウスマンとの間で蜜月時代が続いたが、昭和18年5月「大東亜政略指導大綱」が発表されて一変した。その中で”マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定し、重要資源として極力これが開発、並びに民心の把握に努める”ことが明らかにされて、住民の日本軍に対する態度に変化が出てきた。この大綱に基づき11月、東京で大東亜共栄圏会議が開かれたが、インドネシアは招かれなかった。

ウスマンさん一家は大東亜共栄圏会議を前にして矢野兼三西スマトラ州知事から「内閣情報員」の資格で日本行きを言われた。スマトラの軍政当局はウスマンさんの現地での影響力を危惧しての日本への”追放”だったわけだ。大綱が策定した時期は、日本は緒戦の勝ち戦さに酔っていた時期であった。。今思うと大綱は、もっと慎重な言葉使いをすべきであった。ウスマンさん一家は、大綱に翻弄されて、日本で空襲を体験、日本の敗戦でウスマンさんが故郷に帰ったのは昭和26年。その心労で翌年ウスマンさんは翌年早逝している。

男の平均寿命、80歳に近づいたが!

2013-07-27 06:31:37 | Weblog
日本人の平均寿命(2012年度)が発表になった。男性は79.94歳で過去最高、もう少しで80歳代に突入する。一方、女性は86.41歳で3年ぶりに世界一に返り咲いた。すでに数年前に男の平均寿命をクリアーしている僕だが、ご同慶の至りだ。と、いっても諸手をあげて長寿社会の到来を喜んでばかりはいられない。

老人を取り巻く環境はきびしい。昨日も知り合いから電話が入り、共通の知人がマンションで孤独死していたという。つい最近ある会合で会ったばかりだ。僕より若く70歳代の後半である。家族はなく、これまた独身だった弟さんと同居してたが、数年前に弟さんが死亡した。死因はわらないが、熱中症の疑いもあるようだ。熱中症といえば、先日も70年来の旧友も夜中に熱中症から38度の高熱になった、とメールで知らせてきた。エアコンを消して寝たのが原因らしい。

首都圏は7月來、猛暑が続いている。今年5月、白寿(99歳)のお祝いをした大先輩もダウンしてしまった。インドネシアから同じく白寿の女性が来日、再会を楽しみにしていたのだが。でも先輩の場合はお孫さんが同居していて入院手続きすべてをやって貰えた。同じく93歳独身の旧友も入院したと、地元の福祉関係者から連絡があった。また僕と同年配の元気だった旧友も結核が再発、再入院した。70歳代の老夫婦がやっている、かかりつけの理髪店の前を通ったらシャッターが下りたままになっている。夫妻のどちらかが倒れてしまったのであろう。

長寿社会の到来は嬉しいが、健康に長生きするということは大変なことである。気象庁の予測によれば8月も例年にくらべて猛暑だという。後期高齢者のご同輩お互いに健康に注意しましょう。

残留日本兵三世からの手紙

2013-07-26 06:17:43 | Weblog
昨日、長野県小海町へ働きに来ている日系日本人三世女性、スサンティさんから久しぶりに暑中見舞いを兼ねて手紙が届いた。スサンティさんの祖父、田上憲喜さん(故人)は、元近衛師団の兵士で戦後、インドネシアに残留、スマトラに再上陸してきた連合軍との間のメダン攻防戦で何回もゲリラ戦に出撃している。僕は1992年、スサンティさんの父親、アミールさんが一家をあげて上田に働きに来ていた時知り合った。まだスサンティさんは中学校を出たばかりの少女だった。

その当時上田市周辺にはインドネシアの北スマトラやアチェ州から来たインドネシア人労働者が百数十人もいた。1990年の入管法改正で日系人なら親族訪問を理由に日本に長期滞在できるようになっため来日した日系二世、三世たちで、戦後現地に残った元日本軍関係者の家族であった。日系といっても、ほとんどが日本語ができず、生活文化の違いからトラブルが続出、地元の日イ友好団体の依頼で、僕らは時々、支援活動にでかけた。アミ-ルさん一家ともこの時知り合った。

あれから時は流れて21年、アミールさんは夫婦で、同じ長野県の小海町の食品会社で引続き働いているが、スサンティさんは郷里に帰って結婚、子育てを終えた後、再び夫のインドネシア人と来日、愛知県で働いていたが、馴れぬ生活のためか離婚、帰国してしまった。届いた手紙によると、今回、成長した子供(四世)を連れて両親と一緒に働きたいとビザを申し込んだが、子供は却下されてしまったという。

彼女の祖父、田上憲喜さんが生前書いた一文が、ジャカルタの残留者組織「福祉友の会」が発行した「帰らなかった日本兵」の中に載っている。それによると、田上氏は戦後故郷熊本の母親と連絡が着き、早く帰国するよう懇請されたが、その時すでに現地の女性と結婚、長男(アミールさん)が誕生していた。帰国か残留かの狭間の中で苦悩した田上さんの心境が、この一文によく語られている。戦争とは一人の人生を変えてしまう。田上一家四代の生き様をみて、つくづくそう思った。

介護離職 限界部落 周南市の連続殺人事件は現代の縮図

2013-07-25 06:12:28 | Weblog
山口県周南市の山間の集落でおきた連続放火札事件はなんとも痛ましい。犯人と目される男はいまだに不明だが、メディアの報道によると、事件の背後には、”介護離職””限界集落”といった今の日本が抱えるアキレス.ケンが見え隠れして現代の縮図でもある。

”限界部落”とは人口の50%以上が65歳以上の高齢者で、冠婚葬祭などの共同生活の維持が困難な集落のことを言う(ウイキぺディア]。事件のあった周南市金峰の集落は、人口14人(うち5人が殺害被害者)で、8世帯のうち10人が65歳という、まさに”限界部落”であった。かっては集落の中に商店も小学校もあったという。

犯人と目される男(63)は、数年前に親の看護のため、職があった神奈川県川崎からから、この集落に引っ越してきた。しかし、何故か近所つきあいはなく、集落の人から孤立し飼い犬をめぐって争いまであったという。本人もそれに悩み”集落から悪口を言われている”と、警察に相談に出かけている。本人の気持ちの中には”村八分”にされている、という意識があったのかもしれない。

横溝正史の長編推理小説「八つ墓村」のモデルとされる岡山県津山市30人殺人事件がある。戦争中の昭和13年、肺結結核のため徴兵検査で丙種にされた男が、恋人にもふられ、その自暴自棄から、猟銃と日本刀で自分の住んでいた集落で祖母を含む30人を殺害、自殺してる。当時、徴兵検査で丙種とされるのは、国民として恥であり、いわんや”肺病”は、集落内でのつまはじき者であった。周南市の事件も、その背景に”介護離職””限界集落”といった現代の縮図が感じられる。



”尖閣だけではない”中国の南洋戦略

2013-07-24 05:33:53 | Weblog
先日、小ブログを通じて知り合いになった「南太平洋島嶼研究会」(http://blog.livedoor.jp/raspi2012/)の丸谷元人氏から近著「日本の南洋戦略」(ハート出版2013年7月)の寄贈を受けた。副題には”南太平洋で始まった新たなる《戦争》の行方とある。早速、読ませて頂いたが、知らないことばかりで、大変勉強になった。

本の筋は二つからなっている。一つは「太平洋で何がおきているのか」(第一章)「謀略渦まく《豪中戦争》」(第二章)「迫りくる南太平洋での覇権争い」(第六章)で、最近の、南太平洋を取り巻く《豪州と中国との間の謀略戦争》を中心に同地域の情勢を解説している。日本のマスコミでは、ほとんど報道されないことばかりである。とくに僕が衝撃を受けたのは、中国が《尖閣だけじゃない》(本書帯広告)中国本土からはるか離れた南太平洋の派遣争いにまで参加していることだ。

第二の筋は、著者丸谷氏が卒業したオーストラリア国立大学(キャンベラ)の五年間の留学生活と、卒業後、現地支配人として勤務したパプアニューギニアの体験談である。著者は、この体験談にからませて「ニューギニアの日本兵」(第三章)「遠くて近い親日国パプアニューギニア」(第四章)を紹介している。著者は昭和49年生まれで、戦争体験はまったくないが、防衛省の戦跡調査班に同行して、先の戦争で16万人の将兵が戦死した激戦地を訪れ、遺骨収容にも参加したことがる。

著者はこういった長い現地での体験を通じて一つの結論を得た。それはパプアニューギニアは親日国で旧日本兵と現地人との間には依然、強い絆で結ばれていること。自然資源に恵まれた大国であるにもかかわらず、日本の進出は遅れをとっており、中国の後塵をはいしている。わが国はもっと、リスクを恐れず、旧日本軍が残した”率先垂範”の精神でもって、パプアニューギニアを含む南太平洋に目をむけるべきだと提案している。

JR北海道の事故続発と技能力の低下

2013-07-23 05:48:06 | Weblog
昨日またJR北海道の「スーパーとかち3号」の特急車両から煙が上がり、乗客が避難するという事故があった。今年になって同じような事故が7件も発生、そのうち3件は今月になってである。いったい、何が原因しているのであろうか?1970年代、僕は約10年間札幌に勤務、函館、釧路、帯広、北見と何回ともなく、この特急を利用したが一度も事故にあった事はなかった。

事故の原因について、新聞は色々書いているが、その中に車両の老朽化ととともに、JR北海道の技術力の低下を問うものがあった。団塊の世代の退職で、ベテラン社員がいなくなり、その技術力の伝承が上手にいっていない、のではないかというものである。JR北海道だけではなく、最近、日本全体で若者の技術力が低下してきた、という話はよく聞く。果たしてそうなのであろうか。

7月の初めドイツのライプチヒで技能五輪があった。日本チームは得意の「自動車溶接」など5部門で金メダルを獲得、活躍したがマスメデイアはほとんどこれを報道しなかった。わが国は、この五輪に1962年から参加、64年のダブリン大会では、参加した14人で金メダルを10個、銅メダル2個を獲得、メダル数はダントツの1位であった。この快挙は大きく報道されたことを、僕もまだ覚えている。

高度経済成長につれて、技能五輪での日本チームの活躍も何故か低下、金メダル獲得数も韓国、台湾などの後塵をはいするようになり、マスコミも技能五輪に関心をみせなくなってきた。世の中の風潮も、日本伝統の技術力を軽視する向きさえ出てきた。JR北海道の事故の多発が、こんな空気の中で生まれたとすれば、日本全体にとって問題である。