「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

        TPP参加、マスコミの誘導はないか?

2011-10-31 06:52:02 | Weblog
野田総理は11月7日にTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)への交渉参加を記者会見で表明するそうである。12日からハワイで開かれるAPEC(アジア太平洋経済会議)首脳会議の日程からみれば、野田総理が、この問題について決断しなければならないタイムリミットなのだそうだ。しかし、どうなのだろうか?僕みたいな素人からみても参加への議論はまだ煮詰まっていないようにみえるのだがー。

マスコミの報道をみていると、もうTPPへの参加は”至上命令”みたいで極端にいうと、参加賛成者は”善人”で、反対者は”悪人”みたいにとらえている。しかし、与党民主党内でさえ意見集約はできていないし、JA(農協)の発表によれば、TPP参加反対請願書に与野党356人の国会議員が署名している。この中には与党、国民新党の亀井総裁や野党自民党の大島副総裁も名前を連ね、共産党も社民党も反対している。

こんな情勢の中、先日JA主催のTPP参加反対集会が東京の日比谷公園で開かれ全国から3千人が参加したが、ほとんどのマスコミはこのニュースを無視するか扱いが小さかった。銀座通りでも”自然発生的”に集まった反対派の人たちが、プラカードを掲げデモ行進したのをネットの動画でみたが、マスコミは完全に無視した。同じような米国との自由貿易(FTA)反対のデモ集会が先日、お隣の韓国でもあり拘束者まで出しているが、日本のマスコミはほとんどこれを無視している。

素人ながら僕はTPPみたいな自由貿易は、世界の趨勢であり参加には賛成である。が、恐いのは、その旗振りの一人が、かってメール問題で民主党の総裁の座を降りたり、谷ツ場ダム廃止をめぐる問題でヒステリックに自説を固執した人物であることだ。それに東日本大震災後の原発事故で、結果的には声を大きくして国民を騙した人物がTPP参加の直接の担当者であることだ。まさかマスコミは、こんな政治家の声にだまされているとは思わないが、おかしな世論誘導だけは困る。

      「ドクトル・マンボ」が見つからなかった古本市

2011-10-30 06:32:52 | Weblog
海外に長期滞在している知人からメールが入り、先日物故された北杜夫の著「ドクトル・マンボ航海記」を再読したいので、送ってくれないかと依頼があった。文庫本なら簡単に入手できると考え、たまたま昨日、神田で会合があったあと、いま開催中の「古本市」を見て回ったが、見つからない。新刊本の店にも「ドクトル」物は売り切れてなかった。

神田の「古本市」も半世紀の開催を数え、すっかり定着した形だ。昨日は土曜日ということもあって、すずらん通りを中心とした会場は人人人で一杯。書店ごとに小さなブースで古書を売っているが、人気書店の前には人だかりがして、ゆっくりと目当ての本など探せない。僕のように特定の文庫本を探しに来た者にとっては、どこへ行って探すのか判らない。

戦後まもなく、僕は空襲に会わなかった神保町の古本街へよく出かけた。学校で先生が黒板に板書して教えていた「徒然草」の本が入手したくて、一軒一軒店を覗いて歩き、ついに一冊ボロボロの古本を見つけた時の喜びは、今でも忘れられない。当時は食糧難の時代で人々は空腹を抱えていたが、活字にも飢えていて古本街の店はどこも賑わっていた。

古本探しの楽しみの一つは、自分の探している本が、思わぬ専門外の古書店で格安の値段で入手できた時だ。僕の記憶が正しければ、神田の古本市も昔は、今のように各書店ごとのブース販売ではなく、青空市のような形で各店が出品した本がごっちゃに売られていた記憶がある。お客にとっては、この方式の方が、思わぬ探し物を発見したときの、あの喜びを味わえるのだが。客寄せで仕方がないとは思うのだが、「古本市」と食物屋台の同居はどんなものなのであろうか。


           自転車にも”シルバー・マーク”を!

2011-10-29 06:39:04 | Weblog
自転車に関係する事故が多発しているため警察庁では原則的に自転車は車道を通行すべきだという通達を全国の警察本部に出した。これを受けて警視庁では都内の3m未満の歩道では、車道の左側に幅0・5mの自転車専用のブルー・レーンを設けることになった。警察庁の通達では、70歳以上の老人と13歳未満の子供は従来通り、歩道を自転車で通行できるそうだが、ブルーレーンが設定された場合はどうなのだろうかー。

僕は昨日、家の近くの環七道路を自転車で走ったが、制服を着たお巡りさんも歩道を自転車で通行していた。車道は交通量が多く、お巡りさんでも危険で走れない。しかし、おかしいのは歩道の幅が一定ではないのである。目測でも3mに足りないところもあるし、場所によってはクロスする道路の所にコンクリートの杭が打たれたりしている。

近所のもう一つの国道、目黒通りには”走行する自転車は車道側を”という掲示がある。しかし、曖昧な表示である。走行する自動車と同じ方向に向かう自転車が車道側なのかどうかはっきりしない。道幅が広く一見、危険はなさそうだが、猛スピードでくる若者と交差するときなど年よりは冷やりとする。

ブルーレーンの幅は0・5mと狭いから、交差することはないし、恐らく追い抜きは禁止であろう。老人になると、運動神経は鈍くなり、咄嗟の判断力もなくなる。ブルーレーンが出来た後、高齢者もここを走れということになると問題だ。自動車同様、年寄の交通事故が増加することは目に見えている。自転車にも”シルバー・マーク”に似た表示を努力義務でも好い。着用させて貰いたい。多少の自衛になるのではという期待を込めて。

       一億人の胸がなり底力を出していた時代

2011-10-28 06:15:06 | Weblog
2010年10月実施あれた国勢調査によると、日本の人口は1億2535万人で、前回05年の調査に比べて37万人減少した。いよいよ人口減少時代に入ってきた。総務省の推定では日本の人口はこのまま行けば、2046年には1億人を割り込むことになる。

昭和1ケタ世代にとっては"人口1億人”時代が懐かしい。子供であった昭和15年の「紀元二千六百年」の奉祝歌には"今こそ祝え、この朝(あした)。紀元は二千六百年、ああ一億の胸はなる”とあった。また翌16年、NHKが公募した「出せ一億の底力」という歌にも"歩調をあわせ一億いざともに御稜威(みいつ)の下まっしぐら”とある。戦争を勝ち抜く国威発揚のため政府は意識的に人口1億を強調していた。

日本の人口の推移をみると、人口が1億人を突破したのは、実は戦後の1960年代後半である。戦争中は”産めよ増やせよ”が国のスローガンであり美徳でもあった。どこの家庭でも5人以上子供がいたのが普通であった。人口は確かにこの時代に急激に増えた。

しかし、その反動であろうか、戦後は減ってきている。避妊薬のCMで代表される”一姫二太郎三Cゼリー”の時代にはいる、団塊世代の出産が一段落した昭和20年代後半から出産率は減少、ついに”一姫二太郎”はおろか、1・31人になってしまった。

人口の減少は国威に比例するといわれるが、なんとはなく、ここ数年日本の元気がなくなっている。政府は「少子化」対策に取り組んではいるが、毎年のように大臣が交代していては長期的なビジョンもたてられない。今こそ、人口が1億を割り込まないよう、底力を出す時ではないだろうか。

        バンコク大洪水、東京は大丈夫なのか

2011-10-27 06:11:56 | Weblog
タイの首都バンコク全域が冠水の恐れが出てきた。政府は最悪の事態を想定して27日から5連休を実施しているが、市内のドンムアン空港の滑走路まで水浸しになり、国内線は運航を停止している。さらに王宮の前まで水が来ている。大変な災害だが、こんな事態が東京でもまったく起こらないとは限らない。

101年前の明治43年7月、東京は台風の影響などで2週間に渡って大雨が降り続き死者324人、家屋の流失1,679戸という大被害が出ている。当時の写真を見ると、下町では二階から舟で出入りし、歓楽街の浅草の六区まで水浸しになっている。この大水害のあと政府は大掛かりな水利事業に乗り出し、15年がかりで全長22キロにわたる現在の荒川放水路を完成した。

昨年だったか政府の行政刷新会議の事業仕分けで、完成にまで400年かかるという東京の"スーパー堤防”がムダの代表としてヤリ玉に上り廃止がきまった。当時ぼくも200年に一度起きるかどうかの大雨を想定して、こんな堤防をつくるのは、どうかなと正直思った。しかし、今回の東日本大震災である。廃止と決まった”スーパー堤防"事業も予算を縮小して継続することになったようである。

大地震、大洪水といった天災は、日本のような国では宿命なのである。先人たちが行ってきた治山、治水事業に感謝しなければならない。と、同時に絶えず、その予防防止対策に心がけていなければならない。東日本大震災は、その意味でよい教訓を与えてくれた。

      "韓国に水をあけられた” 野田総理の実感

2011-10-26 06:37:53 | Weblog
「海外に行くと、韓国に水を開けられたと感じる。政治家のリーダーシップなんだろう」-と野田首相は最近、民主党議員にこうもらした。(読売新聞コラム「開国TPP」)まるで人事のような発言だが、たまに海外旅行に行くと、たしかにそんな実感がする。民主党政権になって2年、鳩山、菅内閣は何をやってきたのかー。そして今もなお、TPP(環太平洋経済連携協定)をめぐってASEAN首脳会議が来月に迫っているのに、交渉に参加するのどうか結論がでない。

韓国は11月のASEAN首脳会議でインドネシアとの間で包括的経済連携協定(CEPA)交渉参加を表明するようだ。韓イ両国間の貿易規模は229億㌦(1兆8千万円)だが、この数年経済関係は深まり、韓国からインドネシアへの直接投資は2009年には3・3億㌦だったのが、2010年には8・7億㌦と急激に伸びている。

インドネシアだけではない。韓国は一昨年UAE(アラブ首長国連邦)の原子力発電所施設工事を総額400億㌦で落札、世界をあっといわせたが、この成功の裏には李明博大統領のトップセールスがあったといわれる。李大統領は、大統領就任前は韓国でも有数な貿易商社「現代」の会長だった。若い時には「現代」商社員としてサウジアラビアのジュバル工業港建設工事を手がけている。

つまり"商売人”なのである。李大統領はインドネシアにも駐在したことがあるそうだ。インドネシアといえば、かっては日本の独占市場であり、ODA(海外援助)の最大供与国であったが、ウカウカとはしていれない。韓国に水を開けられた、とのんびりしたことを言っている場合ではない。

         「東京府」と「東京市」が共存した時代

2011-10-25 06:59:15 | Weblog
大阪市の橋元徹知事が「大阪府」と「大阪市」の二重行政刷新を狙って来月の市長選に自ら立候補、府知事の後釜には、同じ地域政党「維新の会」の松井一郎幹事長を擁立した。東京都と23区をモデルにしたという橋元氏の構想が、果たしてそのシナリオ通りにゆくかどうかだがー。

戦前、僕が子供だった時には、東京も「府」と「市」が共存していた。僕の戸籍謄本の出生地は"東京府荏原郡大崎町”である。東京府は明治政府の誕生とともに出来、1943年(昭和18年)まで存在した。一方、東京市は明治22年に出来、同じく昭和18年「府」と「市」が一緒になるまであった行政機関である。

子供だったこともあるが、僕は「東京市民」の意識はあるが「東京府民」の想い出はない。10月1日は東京市民の記念日であった。確かこの日は学校の授業はなく、お祝いの式だけで「東京市民の歌」を皆で歌った。
                 ♯ 「東京市民の歌」(大正15年制定)
             紫にほひし武蔵野の野辺に 日本の文化の華咲きみだれ
             月影いるべき山の端もなし むかしの広野のおもかげもなし

調べてみると、戦前の東京府知事は官選であったが、市長は昭和4年以降は市議会の互選によって選ばれた。「府知事」と「市長」の権限がどうなのか、今ひとつわからないが、内務省の権限が強かった時代だが、東京府庁は東京市役所の中にあった。中学校(旧制)や高等女学校もは”府立”と"市立”と二つあったが、小学校は区立であった。

橋元氏のめざす「大阪都」構想はわからないではない。でも肝心の大阪府民(市民)の反応はどうなのか。”維新”が、たんなる政治家個人の”我欲”にも映らないでもない。

               IT難民の老人たち

2011-10-24 06:19:00 | Weblog
外国在住の知人から学術本をITで入手できないか問合わせがあった。毎日こんなブログを書いている僕だが、メールの受発信以外の応用技術になると、からっきしダメだ。子供に頼んでセブンイレブン経由で入手できる手続をしてもらった。便利になったものだ。この方法だと、専門のIT書籍会社より宅配料金がかからず安くすむ。

毎年12月8日に昔の仲間のOB会があり、世話役を仰せつかっているが、みなITになじまない80歳すぎの老人ばかりだ。メールやFAXというわけにはいかない。昔どおり書状と葉書による方法で手間がかかり、連絡に一人130円はかかる。

米国の郵便事業会社「USPS」が電子メールの普及による郵便量の減少から経営危機に陥っているという。日本の場合はどうなのかー。僕の個人的な感じでは、やはり郵便量は減っているのではないか。わが家では、日によっては一通も手紙が届かない日もある。老人以外にはもう、手紙を出さなくなっているのでは。

これに引き換え、ITがわからない老人たちは、ますます社会から疎外され難民化している。行政の広報誌には"詳細はHPを見てくれ”と書いてあっても、PCが無ければみれない。年寄りに人気のあるNHKラジオの「深夜便」は"この番組は○○○のサービスでパソコンでも見られます”といっているが、どれだけの老人がこの恩恵を受けられるだろうか。

介護授業もIT化が進み、独り暮らしの老人もITで見守る時代になってきたそうだ。しかし、IT難民の老人たちにとって必要なのは、ケータイを含めて最低限度のIT知識ではないだろうか。

         超高齢化時代と人生のしきたりの変化

2011-10-23 06:27:42 | Weblog
天皇陛下の叔父で昭和天皇の末弟にあたる三笠宮さま(95)と妃殿下百合子さま(88)が22日、ご結婚70年をお祝いになった。おめでたい限りである。人生のお祝いごととして、結婚50年は金婚式、60年はダイヤモンド婚だが、さて70年はなんと言うのだろうかー調べてみたがない。

英国のエリザベス女王(85)とフィリップ殿下(90)も2007年、結婚60年のダイヤモンド婚をバッキンガム宮殿でお祝いされた。洋の東西を問わず、超高齢化時代に入り、これまで、ダイヤモンド婚が最後のお祝いとされてきたが、新たに次の名称を考えなくてはならなくなった。しかし、レアメタル(希少金属)婚では、明るさも輝きもない。

たしかに超高齢化時代である。僕の周囲にも80代、90代の友人、知人が沢山いる。自分のことで恐縮だが、週に4回、スポーツクラブで最低一日200mは泳いでいる。昔では考えられないことだった。この超高齢化時代に対応できず、困っているのは”厄”(やく)払いの神社仏閣だと聞いたことがある。

わが国では昔から男の厄年は25,42,61歳、女性は19,33,61歳である。陰陽道から割り出したものらしいが、人生50歳といわれた戦前から戦後すぐの時代までは、これが日本人の身体の変化の時で、健康に気をつけろ、という警告の意味もあったのかもしれない。しかし、今は男の平均寿命は80歳にちかく、女性に至っては80歳半ばである。

年金支払い年齢が68歳から、と若い世代が騒いでいるが、超高齢化時代でこれまでの慣習や常識が通らなくなってきているのかもしれない。

          ジャワにもあった元寇に想う

2011-10-22 06:33:38 | Weblog
長崎県松浦市の伊万里湾沖で元寇・弘安の役(1281年)のさい"神風”で沈没したと見られる元軍の軍艦の竜骨(キール)がほぼ完全な形で発見されたという。元寇というと、僕ら昭和1けた世代は、子供だった戦争中歌った「元寇の歌」を想い出す。
             ♯ 「元寇の歌」(永井建子 作詞作曲 明治25年)
     四百余州に挙(こぞ)る 十万余騎の敵  国難ここにある 弘安四年夏の頃
     なんぞ怖れん われに鎌倉男児あり 正義武断の名 一喝して世に示す

今の人たちには信じられないだろうが、僕ら銃後の小国民は、空襲で東京が焼野原になりながらも、心のどこかで戦争はいずれ元寇のように"神風”が吹き、勝利するものと固く信じていた。

戦後もかなり経ってからだが、僕はインドネシアの歴史書を読んで驚いた。ジャワのマジャパイト王朝、初代のクルタラジャサ国王(1293-1309年)の時代にも、元軍が来襲したが、やはり"神風”みたいな季節風にあい、逃亡している史実があった。JICA(国際協力事業団)の技術研修員にこのことを話ししたら、スラウェシ出身のその研修員は"ブギス人には、元軍兵士で故国に帰れなかった血が流れている”と言っていた。真偽は判らないが面白い話だ。

それにしても当時の元軍の力はなんだったのだろうか。東日本大震災後"想定外"という言葉をよく耳にするが、元寇が起きたのは700年前のことだが、外国からの元寇に似た侵略がわが国にまったくないとは言い切れない。想定外ではないような気がする。