「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

インドネシアには従軍慰安婦問題はない おかしな女性基金アーカイブ

2014-01-31 06:44:02 | Weblog
先日小ブログで「籾井NHK会長の(慰安婦)発言は公平さに欠けていない」と書いたところ、一読者の方から”最低の記事だ”と酷評を頂いた。普通こういったコメントは削除するのだが、あまりにも無知なので、そのまま残しておいた。朝日新聞がネタ元らしいが、日本とインドネシアとの長い間の友好関係に何かプラスになることがあるのだろうか。

この方のコメントには「慰安婦問題は日韓だけではない。南スラウェシでも強制連行」といった朝日の記事を引用、1990年代にインドネシアの作家、プラムデイ.アナン.ト-ルが戦争中、日本軍が南スラウェシで慰安婦募集のため現地の女性を強制連行したと書いた小説について、当時のジャカルタ日本大使館の大使と公使が「従軍慰安婦」問題が東南アジアに拡散するのを避けるため、この本を発禁するよう、インドネシア政府に圧力をかけたという外交文書が最近見つかったというのである。
朝日新聞は、この小説の信憑性を確かめるため、現地に取材班まで送り込んだらしいが証拠はなかった。当たり前の話だ。小説なのだから。

インドネシアの慰安婦問題はすでに解決済みである。1996年11月、インドネシアの社会大臣は当時の「アジア女性基金」村山富市理事長に覚書書簡を送り”インドネシアでは過去に慰安婦が存在したかどうか明確にできない。従って申し出のあった基金については、戦時中苦労した女性の福祉介護施設の建設にに充てたい”(要旨 原文あり)と述べている。この覚書で重要なのは、インドネシア側は1958年の日イ平和条約、賠償協定に触れ、女性基金受け入れは、賠償協定違反でない旨外交的配慮をしていることだ。

にも関わらず、朝日の記事に触発されたのか、解決済みの慰安婦問題がまたぞろ頭を持ち上げてきている。朝日系のブログsynodosに「慰安婦問題基礎知識Q&A」が載っているのを見たら、解決済みのインドネシア慰安婦について触れ、ジャワの町や村で半ば強制的な慰安婦募集があったという「アジア女性基金」の倉沢愛子元慶応教授の”調査結果”をそのまま引用している。倉沢元教授は「アジア女性基金」のインドネシアの歴史考証委員だから、信用するのも無理はない。しかし、彼女は戦争中スマトラの第25軍司令部の防空壕で日本軍が労務者を虐殺したという虚報を自分の本に書き、依然謝罪していない人物である。

ネット上に「女性基金アーカイブ」というのがある。女性基金は2007年解散しているが、このアーカイブは女性基金の公式なものだろうか。依然として倉沢元教授の不確かな研究調査が載っている。インドネシアの慰安婦問題については、インドネシア社会大臣の覚書文書に従ってその経過を書くにとどめるべきである。アーカイブに「女性基金」の名で、不確かな個人的な調査を載せるべきではない。誤解を呼ぶだけである。

冷凍食品農薬混入犯の「四十九歳の抵抗」

2014-01-30 07:21:33 | Weblog
群馬県大泉町の冷凍食品工場で食品に農薬をいれた男の人間像が段々と判ってきた。工場で働く49歳の契約社員で、犯行の動機は”こんな安給料ではやってられない”という会社への不満のようだ。でも、一方では妻と20代の息子と3人で、一家家暮らしで、百万円もかけてオートバイを改造し、漫画の主人公のコスプレを着て街の人気者の一面もあったという。

明治の頃の日本は人生五十歳であった。明治の文豪夏目漱石は49歳で亡くなっており、正岡子規に至っては35歳である。つい半世紀前まででも、日本の企業の定年は55歳であった。昭和30年代の初め「四十八歳の抵抗」(石川達三)という小説がベストセラーとなり、映画にもなって話題をよんだ。55歳定年前のサラリーマンが、ヌード写真の撮影会に参加したり、19歳の少女と”火遊び”するなどして定年前の憂さを晴らしているその心情を描いたものだった。

警察に連行される容疑者の後頭部は大きく禿げあがっており、年相応を感じさせる。しかし改造バイクにまたがりVサインで写真に納まったり「正義」のワンピースのコスプレを着た姿は、とても49歳とは思えない。平均寿命が延びるにつれて日本人が幼稚化してきた証拠だ。55歳定年時代は、49歳の年齢になると、一応定年後の生活を考えたものだ。

契約社員は「契約」によって就労しているので、定年もないし退職金もないのが普通である。言ってみれば、絶えず身分不安定の生活である。なんとはなく、49歳のこの男の”抵抗”の心情が解からないではない。契約制度の改正が今、政府部内で検討されているが、こういった契約による心理面も配慮してもらいたい。

安倍総理の大人の答弁 海江田代表の子供の質問

2014-01-29 06:45:17 | Weblog
衆院本会議の模様を昨日テレビ中継で見た。野党第一党の海江田万里代表が顔に汗かきかき質問してたが、原稿の棒読み、内容もどこの国の政治家の質問だか解からない。あまりのバカらしさに、聞いているうちにウトウト眠ってしまった。申し訳ないが、気がついたら安倍総理の答弁は終わってしまっていた。ネットの”リアルタイム”をみると、海江田代表の質問は64問あったそうだが”下手な鉄砲数撃てば”のつもりなのだろうか。絞りきれず、逆に”ブーメラン”になって帰ってきた。民主党のイメージ.ダウンだけだ。

案の定、籾井NHK会長の「慰安婦」発言を持ち出した。総理がどう答弁するか興味があったが”政府としてはコメントできない”と軽く応じ”(NHK会長)はいかなる政治的圧力にも屈することなく中立公正な報道を続けてほしい”と答えられた。さすが大人の答弁だ。籾井会長どうぞ”ゆるんだボルトとナット”を締めなおして頂きたい。

海江田代表についで日本維新の会の松野頼久氏が代表質問したが、何故かNHKのカメラが本会議場をなめて映した。何か意味があるのかと思ったら、会場の目立つ空席の様子のようである。松野氏といえば、かって細川護日本新党代表の秘書から始まって民主党に移り、鳩山内閣の官房副長官をやり、今は日本維新の会の国会議員団団長である。そして、また野党の再結合のキーマンだという説もある。心ある議員なら、まじめに”代表質問”など聞きたくないだろう。民主党議員席の空席がめだっているようにみえた。

”脱原発”より”終いの家”

2014-01-28 05:44:46 | Weblog
”脱原発”を旗印にしている東京都知事選に立候補している細川護煕氏が”おばあさんの原宿”の巣鴨で街頭演説していた。76歳の候補だから同年齢の年寄りの票集めに巣鴨を選んだのかもしれないが、すこしご見当違いではかったのか。僕を含めてお年寄りには、正直いって先の話の”脱原発”よりも、今現実の”老いの家”をどうするかのほうが関心事だ。

都知事選の優先課題は何かーという世論調査(産経新聞)によると、第一位は高齢者福祉医療対策の22.4%であるのに対し、脱原発は8.4%にすぎない。都知事選の争点としては、なにか違和感がる。とくに東京生まれ、東京育ちの者にとってはそうである。

細川氏は自分の足で東京都内の公共交通機関を利用したことがあるのだろうかー。都営地下鉄のバリアー.フリ化率をご存知なのだろうかー。杖をついた老人には下りのエスカレーターがなければ、どうなのか多分お解かりないと思う。年寄りには無用の長物の歩道橋が、いまもって放置されたままになっている。

同年齢の昔の友人から転居の通知が届いた。”まだまだ活動できる身ではありますが、介護等の体制が整ったマンションで安心快適の生活を送ることにしました”と書いてあり、ご夫婦別々の部屋番号が書いてあった。昨日わが家でも、生活支援法による住宅改善事業で業者が見え、トイレの便器を高齢者用に取り換えてくれた。友人も僕も”終いの家”について考える年代になったのだ。でも、まだ僕らは恵まれている。都内には”終いの家”の当てのない老人が大勢いる。2020年の東京五輪でさえ見れるか、どうかわからない老人にとっては”脱原発”は、あまりにも”浮世離れ”している。

籾井NHK会長は政治的公平さに欠けていない 和蘭の”飾り窓”

2014-01-27 06:15:34 | Weblog
NHKの籾井勝人新会長の慰安婦問題についての発言が”政治的公平さ”にかけていると民主党の大畠幹事長や一部のマスコミが大騒ぎしている。籾井会長のこの個人的な見解が、国を揺るがすような問題だろうか。籾井会長は”(慰安婦)は当時の戦争地域には、大体つきものだったと思う。(韓国だけではない)この問題はすでに日韓基本条約(1965年)で解決している。それをなぜ蒸し返すのか”と韓国を批判した。まったく、その通りであって正論である。

籾井会長は記者会見の中で、アムステルダム(オランダ)の”飾り窓”にも触れ、国によっては、いまだに売春が堂々と行われているといったようだ。これが、なぜ”政治的公平さ”にかけているのか。2000年、僕はオランダの美術館で開催されていた日蘭戦時資料展示会を見学した。館内では戦時中の日本軍の性暴力を扱ったVTRが流れていたが、一方では白昼から”飾り窓”がお客で混雑していた。誤解のないように一言言わせてもらえば、僕は友人夫婦と旧和蘭東インド会社跡を見学に行く途中”飾り窓”地区に迷いこんだのだが。

籾井会長は”慰安婦は戦争地域にはつきもの”と言ったそうだが、正しく言えば、昭和33年(1958年)売春禁止法が施行されるまでは、残念ながら戦地だけでなく、日本各地に存在していた。戦前の貧困からくる悲しい現象で、犠牲になった女性には同情の限りだが、当時の社会では当たり前のこととして受け取られていた。南方の日本軍の占領地域にも売春施設ができ、朝鮮人だけでなく日本人女性も働いていた。

どうも売春禁止法以前の「売春制度」を知らない若い世代の中には依然として「従軍慰安婦」の問題点をよく理解していないようだ。村山内閣の経済通産政務次官だった大畠氏もその一人だが、わが国は戦時中といえども軍や政府が直接関与して、女性を強奪して性奴隷行為を強要したことはないのである。このことが理解できないから、問題解決には慰安婦の名誉解決のため、日本政府が世界にむかって謝罪すべきだという暴論まで飛び出し、これを”大新聞”が掲載までするのである。

学校給食が始まった頃の食糧難とその時代

2014-01-26 06:30:41 | Weblog
学校給食費を納めていない家庭が今なお全国で0.9%もあり、総額は22億円に上ると新聞に出ていた。文科省によると、未納の理由は”保護者の経済的な問題”(38%)より”保護者の責任度や軌範の欠如”(61%)だという。日本人のモラルの高さは、かっては世界にも冠たるものと思っていたが嘆かわしい。若い人の間に変な甘えがあるようにみえてならない。

僕は学校給食の経験がない世代だが、昭和22年(1947年)1月初めて全国の都市部の学校で給食が始まった時代を覚えている。極度の食糧難でお米の配給は途絶えがちで欠配もあった。学校給食は、これに同情した米国のララ(日本難民救済会)という団体から贈られてきた脱脂粉ミルクから始まった。たまたま当時の亡父の1月19日の日記に”粉(小麦粉)4㌔(3人家族)=4日分=配給、2月21日には”待望の米6㌔、久しぶりにご飯にありつける”とある。

当時僕は旧制中学4年(高校1年)の食べ盛りであった。亡母がなれぬ手つきで手製のパン焼き器を作り、重曹を入れて蒸しパンを作った。ジャムやバターなどなく、味噌をつけて食べた。しかし三食パンでは空腹で、当時はまだ農家があった日吉(川崎市)まで買い出しに出かけ闇米を入手してきた。配給の米は玄米なので、どこの家庭も一升瓶にこれを入れ、棒で精米して食べた。学校も確か、この年は授業は午前中だけだった。

今は恵まれすぎている。高校まで授業料が無料なので、親の中には給食も当然タダだと思っているのかもしれない。戦前昭和の時代は教科書も有料で、給食などなかった。東京では弁当が持参できない者がクラスに4,5人はいて、昼食時には家へ帰って食べていた。

春の息吹 白梅 蠟梅 沈丁花  山茶花

2014-01-25 13:14:30 | Weblog

hitoride 暦の上では大寒だが、昨日今日の東京の陽気は3月下旬から4月上旬とのこと。左膝の人工関節置換手術後のリハビリを兼ねて初めて近所へ一人で買い物に出かけた。この陽気で家のベランダの白梅はすでに咲き、近所の蠟梅も可憐な黄色の花をほころばさせていた。山茶花はすでに盛りを過ぎ、沈丁花はまだ蕾は固いが芳香が漂い始めていた。”おんもに出たがっているのは、みいちゃんだけではない”

「戦犯だった祖父と私と”永遠の〇”」

2014-01-24 07:17:09 | Weblog
東日本大震災のあった2013年7月、小ブログは戦時中(昭和20年7月、8月)2回にわたる釜石艦砲射撃と、この砲撃で連合軍捕虜を”殺した”との理由から戦後、横浜のBC級裁判で7年の刑を言い渡され、5年も巣鴨プリズンに収容されていた稲木誠氏(故人)の事を書いた。僕は稲木氏と面識ないが、稲木氏は広島文理大(広島大)卒業の学徒兵で、釜石にあった連合軍捕虜収容所の所長(中尉)をしていた。連合軍の砲撃のさい、稲木所長は捕虜たちを誘導してトンネル内に避難させたが、土砂崩れで数名の捕虜が死亡した。連合軍裁判は、これを稲木氏の管理不十分だとして裁判にかけた。

戦後半世紀近く経ってから僕は稲木氏の自伝「茨の冠」(ペンネーム中山喜代平 昭和51年時事通信)を読んだ。戦争中海外各地から2万名を超す連合軍捕虜が日本に連行され、各地の炭鉱などで強制労働させられ、過労と食糧不足から多数が亡くなっている。しかし、釜石収容所所長であった稲木氏は、あの時代に捕虜にクリスマスを祝わせたり、周囲の日本人から批判が出るほど、捕虜たちの栄養に気を配っていた。

昨年の暮だったと思う。このブログに対して稲木氏のお孫さん二人からお礼の「コメント」が届いた。うちお一人は米国在住の女性の方で、ご自分のブログ「祖父と私と”永遠の〇”ニュースウイーク日本版」を紹介して頂いた。お孫さんは、百田尚樹の小説「永遠の零」(講談社文庫)のように祖父の足跡を求めて、米国で、かって釜石の祖父の収容所にいた米国人捕虜(91)を訪ね、捕虜一家から心から思いもよらぬ歓迎を受けている。

「永遠の〇」に触発されたのであろうか。友人の主宰する「セラウェシ情報マガジン」でもtwitterを通じて友人が探していた、インドネシア独立戦争に参加して戦死された方のお孫さんの消息が分かり、お孫さんから当時の貴重な写真と資料がが送られてきた。戦後70年、従軍世代三世の時代になり、改めて戦争について新しい光が当たり始めてきた。

靖国神社は”War Shrine"(戦争神社)だろうか

2014-01-23 07:15:00 | Weblog
日本の神社について英語では普通”Shrine”と訳す。多分欧米的宗教観から来ているのだろうが、神道を知らない外国人には、その神髄は理解できない。まして靖国神社を”Yasukuni Shrine"といったって解からない。そこで英字紙の中には、読者に解からせようとするためか”War Shrine"戦争神社”と訳している。これでは読者の中には、なにか戦争に関係した施設と誤解する。

インドネシア現代史を研究している若い友人から”一般のインドネシア人は「靖国問題」について、どう思っているだろうか”質問を受けた。ジャカルタで発行している英字紙も靖国神社を”War Shrine"と訳しているそうだ。インドネシア語では普通神社のことを”tempat Suci"とか"Tempat Keramat"(いずれも聖地)あるいはバリ.ヒンズーのお寺を意味する"Kuil"(これは日本語の庫裡と語源が同じという説もある)を使っている。しかし、大部分が一神教のイスラム教徒のインドネシア人にはよく理解できていない。

敗戦から70年近く、日本の軍政を知る世代は年々減少してきている。その数少ない世代の僕の友人、元義勇軍のバンバン.プルノモさん(89)は今のインドネシアがあるのは日本の軍政があったからだと言い切り、もちろん靖国神社についても日本人以上に理解している。しかし、残念ながら、一般の若い人は無関心で、一部の欧米の教育を受けた者の中には、靖国神社にはナチスと同じ戦争犯罪人を祀っていると思っている。一般のインドネシア人はアセアン諸国の中でも最大の親日国なのに残念である。

大阪大学の坂元一哉教授が産経新聞のコラム「世界のかたち、日本のかたち」のなかで”(政府は)靖国参拝の真意の説明が必用”と書かれていたが「戦争神社」では、なんのことだか解からない。英語だけでなく、現地語で現地の人が良く理解できるよう時間をかけてでも外交努力する必要がある。

百歳の先輩の「歴史認識の原点」

2014-01-22 06:22:43 | Weblog
今年3月で百歳を迎える今沢栄三郎さんから二宮(尊徳)報徳会の機関誌「ほうとく」初春号(平成26年1月号)の寄贈を受けた。今沢さんは、この雑誌に「歴史認識の原点」という原稿を寄せられている。今沢さんについては平成25年4月、小ブログ”わが大君に召されなば”で経歴を紹介させて頂いているが、再度簡単に触れさせてもらう。大正3年東京生まれ。旧制中学卒業後書店に勤務しながら橋本欣五郎に師事。昭和15年教育召集、第5師団給水部隊一兵卒として中国大陸を転戦、シンガポール作戦の後、豪北地区で終戦を迎え21年復員した。戦後は東南アジア文化友好協会協会の事務局長として東南アジアからの留学生の面倒を見てこられた。

今沢さんは「歴史認識の原点」の中で、極東国際裁判(東京裁判)のインド人判事パール博士の次のような言葉を紹介している。「時が熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、また、理性が虚偽からその仮面を剝ぎとったあかつきには、その時こそ正義の女神は、その秤の平衡を保ちながら過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろう」「要するに彼ら(欧米)は、日本が侵略戦争を行ったという歴史にとどめることによって、みずからのアジア侵略の正当化を誇示し、日本の過去18年間のすべてを罪悪であると烙印し、罪の意識を日本人の心に植え付けることが目的である」今沢さんは、結論として日本人は連合国から与えられた(戦犯)の観念から脱却すべきだとしている。

しかし、一方で今沢さんは6年間の戦地での体験を踏まえて「”戦争のつぐない”という言葉にささやかな可能を求めるならば、戦場となった中国大陸、西欧の植民地(南方諸国)の人々への精神的な心からなる謝罪と無償の行為によるほかは不可能である」と書かれている。戦後今沢さんは、東南アジア文化友好協会を主宰した加藤亮一牧師の運動に共鳴し、東南アジア諸国からの留学生の面倒をみてきた。留学生の中にはシンガポール虐殺事件の被害者の遺児もおり、今でも今沢さんとの交流は続いている。