「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

”アプリでおまかせ”と言われても老人には!

2014-05-31 05:38:20 | Weblog
新聞のJR東日本の全面広告に”東京に行くなら切符の次にアプリです”とあった。スマートフォンでアプリ(application software)を使って駅の構内図をダウンロードすれば、複雑な乗換の多い駅でも迷わずに済み”列車まわりはぜーんぶおまかせ”という趣旨の広告だ。しかし。アプリの意味さえよく解らない老人には、なんのことだか、さっぱり理解できない。

ネットのGFシニア.マーケティングCOMによると、80歳以上のケータイ所有者は56.2%で、半分近くが持っていない。さらに、持っていてもインターネット機能を利用できるのは、そのうち20%にすぎない。8割が通話用に利用しているだけだ。これでは”切符の次にアプリ”と言われても何のことだか解からない。

足腰の弱くなった高齢者には、都内の公共交通機関の利用は難行である。駅構内にエレベーターやエスカレーターが完備しているかどうか。乗換通路が長いかどうか、僕は出かける前にネットでチェックする。それでも図面と実際とは違い、当惑することがある。先日も東京駅の南口から八重洲口のJRバス乗り場で歩いたが、構内図に従って歩くより地上の道路を行くほうが老人には楽だった。

6人に1人が65歳以上という高齢者時代の到来である。年寄りも身障者用の車椅子を使えばというが、心理的に抵抗があり、駅員がそれに対応できるだろうか。アプリでダウンロードしても構内図はデフォルメされていて実際とは違う場合もある。日本の代表駅である東京駅でさえ、丸の内口と八重洲口とを結ぶ自由通路が一つというのは問題である。入場券を払っても年寄りでも歩ける”歩く道路”があってもよいのではなかろうか。

「原発災害その時テレビ局は...」 終りの見えない取材の中で

2014-05-30 05:14:17 | Weblog
45年前開局時に2年ほどお世話になった福島中央テレビ(FCT)のOB会から「原発災害その時テレビ局は...終りの見えない取材の中で」(非売品)が贈られてきた。FCTは原発事故現場から直線にして58キロの郡山市に本社がある、社員100人前後の県域商業テレビ局である。頂戴した冊子は3年前の東日本大震災に遭遇した際、社員一人一人がどのように対応、報道機関としての責任を果たしたかその記録である。

大震災発生当時のFCTの報道スタッフは、デスク3人、記者12人、カメラマン、アナウンーサー全員入れても40人であった。この陣容で大地震、巨大津波、原発事故を一度に取材、全国にオンエアーした。もちろんFCTが加盟しているNNN(日本テレビ系)の応援があったが、岩手県に次ぐ面積を持つ福島県である。大津波が襲った浜通りから会津の山奥までは、ゆうに100キロはある。

FCTは、この一連の取材の中で福島第一原発1号機と3号機の爆発の瞬間を無人カメラに収めている。この映像を撮ったのはFCTだけで日本記者クラブ大賞が贈られている。この映像の放映については、一部に”なぜ音声で住民に避難を呼びかけなかったのか”との批判もあるそうだが、当時の菅直人首相が国民に爆発を公表したのは爆発3時間後であった。

未曾有の混乱の中で社員は、取材のバックアップ体制を維持し、無事に放映するための努力は大変だった。局舎は地震により15日まで断水、仮設トイレの手配から、一方では取材車のガソリンの確保、社員の弁当が入手できず炊き出しまでした。”仕事を選ぶのか、家族を選ぶのか”(冊子の見出し)家族をもつ若い社員の中には、放射能漏れの流言の中で、本当にそう考えた者もあったそうだ。

原発事故後危険区域に指定され全町避難していた楢葉町が、やっと2015年春をめどに帰還できるようになった。朗報であるが、一方ではまだ14万人の県民が避難生活を続けており、汚染廃棄物の最終処分はメドがついていない。FCTの”終りの見えない取材は続くが、45年前、UHFを視聴者に視てもらうために、浜通りの海岸をポンコツの中継車を宣伝車に使って走ったことが想い出され、万感の思いである。



「アジア歴史資料センター」史料の検証から始めては! 維新山田宏議員に提案

2014-05-29 05:16:12 | Weblog
昨日の衆院予算委員会で維新の会の山田宏議員が「河野談話」問題に関連して史実をきちんと検証するために国立公文館にある「アジア歴史資料センター―」をもっと充実し、活用すべきだと提案した。「アジア歴史資料センター」1995年(平成7年)戦後50年を記念して村山内閣時代に創設された。近現代史の日本とアジア近隣諸国との関係資料をインターネット上で無料公開している。山田議員は折角の組織だから、これをもっと拡充し若手研究者を採用すべきだという提案だ。

恥ずかしながら、最近まで僕もこのセンターの存在を知らなかったが、知人の女性学者が、このセンターの不確かなインドネシアでの”従軍慰安婦”情報を自分の論文に引用しているのを知った。この資料はアジア女性基金の歴史検証委員で、このセンターの創立委員のIK教授の調査によるものである。女性学者とすれば、政府の公文館の資料だから信頼すのは当然だ。

IK教授はインドネシア現代史の権威とされているが、戦時中スマトラ駐屯第25軍が、防空壕で現地の労務者を虐殺した虚報を本にしたり、ジャワに2万人もの”従軍慰安婦”がいたとの噂を名古屋の民放テレビに売り込み、ドキュメンタリー番組作成の手伝いなどしている。「アジア歴史資料センタ―」の資料を検索すと、”IK教授の研究によると、ジャワでは部隊が独自に女性を強制的に連行した”という記述が出てくる。こういった資料は、あたかもセンターの直接の資料のようにカモフラージュされている。さらに英語にも翻訳されている。

「アジア歴史資料センター」の創立有識者メンバーの中には国際女性戦犯裁判で昭和天皇有罪に加担した別の女性大学教授も入っている。山田議員の提案は好いアイディアとは思うが、まず、やることは今あるネット情報を検証すべきである。政府の公文館に属する「アジア歴史資料センター―」の資料の中に日本軍による慰安婦の強制連行を匂わせるものがあるのでは、もって何をかいわんやである。

「キッズ.ベルト」(子供紐)と”おんぶにだっこ”

2014-05-28 04:56:23 | Weblog
今は死語に近くになったが、他人にすべて頼ることを”おんぶにだっこ”という。おんぶは母親も背中におぶさること、だっこは胸にだかれるという、いずれも幼児語だが、最近、この風景自体日本ではあまり見られなくなってきた。昭和30年頃までは、胸に赤ん坊を抱いたり、ネンネコにくるめて背負った母親の姿は日常的だったのだがー。

先日民放テレビの情報番組を見ていたら、最近幼児をを紐で結び一緒に歩行する姿が日本でも見られるようになってきた。僕はまだ見たことはないが、老妻は見たそうだ。画面でそれを紹介していたが、「キッズ.ベルト」(子供ひも)というそうだが、古い頭の僕には、なにか”猿まわし”か、飼い犬を鎖で引っ張っているようでイヤだ。外国では流行しているそうで、日本でもネットで千円少しだせば、入手できるそうだ。

物持ちの良かった亡父の文庫の中に、僕の80年前の迷子札がまだある。小判形をした薄い木札で、表面には僕の名前と当年5歳、裏面には亡父の名前と住所が書かれてある。48歳の時に初めて生まれた男の子だったので、父親の僕に対する溺愛がよく判り嬉しかった。

今流行の「キッド.ベルト」なら迷子札は必要ない。おそらく、これは迷子予防ではなく、幼児が人込みの中で道路に飛び出し交通事故にあわぬためのものだろうか。もう半世紀も前だが、僕も長女がバス.ターミナルの列から道路に出て、危うく轢かれそうになった。2,3歳の幼児期には、こういう時期がある。

”おんぶにだっこ”もそうだが、風俗は時代とともに変わってくる。戦前昭和の時代には東京でもネンネコ姿の母親の”江戸の子守り歌”の歌声が聞かたが、今はそんな、のどかな風景はない。

忘れられた「海軍記念日」と意味のない祝日「山の日」

2014-05-27 06:36:41 | Weblog
5月27日は戦前まで「海軍記念日」であった。明治38年5月27日、東郷平八郎提督率いる日本艦隊が日本海でロシアのバルチック艦隊を破り勝利した日を記念した日である。戦前教育を受けた僕らは”天気晴朗なれども波高かった”日本海で”国の興廃をかけて”戦い勝利した「海軍記念日「のことを今なお記憶にある。

日本艦隊の旗艦「三笠」は横須賀に保存され記念館もあるが、残念ながら一般日本人から「海軍記念日は忘れ去られ「東郷」の名前は原宿の神社名や児童公園に残っているだけだ。しかし、北欧のフィンランドでは、大国ロシアを負かした英雄として、ビール名に使用され、東郷元帥の顔がラベル張られている、と聞いた。トルコでも東郷元帥は学校教育で教えられている。

ロンドンの観光スポットの一つ、トラファルガー広場には、1805年トラファルガー海戦で仏スペイン軍艦隊に勝利したネルソン提督の5メートルもの大理石像が高くそびえている。これに対してフランスやスペインから来た観光客が文句を言ったという話は聞いたことがない。英国民が、軍国主義を煽るものだと反対している話も聞いたことがない。

先日の国会で”山に親しむ機会を持ち、山の恩恵に感謝しようと8月11日が「山の記念日」が国民の祝日となり2016年から休みになる、8月11日は特に「山」には関係がなく、「海の日」があるから「山の日」を、休日の少ない旧盆に近い日に設定したに過ぎないらしい。戦前僕らは、わが国日本は資源が乏しい国、勤勉努力が国の宝だと教えられてきた。時代が変わってきており、休日が増えるのには敢えて文句はいわないが、先人たちが”国の興廃をかけて勝利した日ぐらいは記憶に残したい。

「健康」基準の改正と医療費の抑制

2014-05-26 05:48:11 | Weblog
75歳以上の後期高齢者になると、薬の種類や量は増えることはあっても減ることは少ないが、先日かかりつけの医師から、糖尿病予防薬「アルセノール2.5」の服用ストップと降圧剤「テノーシン2,5」の服用を毎日ではなく、隔日1錠でよいといわれた。後期高齢者医療保険でも、窓口負担3割の僕にとっては、経済的にも朗報である。

人間ドック学会が、従来の「健康」基準を改め来年4月から、この基準で運用することになった。同学会の専門委員会が2011年、150万人を対象に調査したところ、、これまでの「健康」基準が厳しすぎると判断、改めることになった。新基準によると、血圧は従来、男女とも130-85とされていたが、大幅にゆるめられ147-94とする。糖尿病の判定基準となるHbA1c(ヘモグロミン.エー.ワンシー)も4.97-6.03が5.5以下に改められる。さらに生活習慣病の肥りすぎの目安BMI=(体重÷(身長)×(身長)=も25から27.7に改定される。

最近の僕の採血検査をチェックしてみたら、HbA1cは、この1年間5.5-6.0%である。血圧も毎日平均120-70台を維持、時々110-60台になる。また、BMIも昨年暮、人工関節手術で入院、10㌔体重が落ちて25.9と健康体である。つまり、人間ドック学会の新基準数値をクリア―している。

NHKテレビの「抑えろ医療費」という番組見たら、日本人の6人に一人が糖尿病か、その予備軍で,その治療にかかる費用が年間一人20万円から60万円かかる。さらに病状が悪化して人工透析を受けると500万円の医療費がかかるそうだ。専門家は医療費抑制には「先制医療」つまり予防医学の必要性を説いていた。僕の場合、膝の手術で血糖値を下げる必要から、予備入院して食事療法で血糖値を下げた。これが万事によかったようだ。老人の医療費抑制にも役立った。

渋谷原宿新宿が壊滅した5月の東京大空襲

2014-05-25 05:21:49 | Weblog
戦争末期の昭和19年11月から敗戦までの8か月間に東京は108回の空襲を受けた、そのうち最後の大空襲は20年5月24日(未明)と25日(夜間)の連続2日間に渡ったもので、この空襲で、渋谷、原宿、新宿などの山の手の市街地は壊滅的な被害が出て、4千人もの方がなくなっている。3月10日の下町大空襲にに比べ、飛来したB-29の数も投下焼夷弾の量も被災地面積も広いのだが、10万人もの死者が出た下町空襲があまりにも悲劇的だったため、70年経った今、次第に忘れられ風化し始めてきている

当時、僕は中学3年生で両親と目黒区に住んでいたが、24日未明の空襲では家の裏の道路に焼夷弾の破片が落ち火叩きで消した事を覚えている。近所にも全焼した家があったが、幸いこの程度の被害ですんだ。が、同じ区内でも中目黒の商店街は全焼、死者も出ている。品川区の学校もコンクリートの校舎を残し木造の校舎は全部焼け落ちた。級友たちのほとんどが、この日の空襲で家を失った。

これに先立ち4月15日の京浜大空襲で僕らの勤労動員先の工場が全焼している。僕はつい最近まで東京の大空襲は3月10日の下町空襲と、この京浜空襲、それに自分が体験した5月24日の3回だけだと思い、25日の空襲については知識がなかった。何故だか調べてみると、23日の空襲で停電になり、わが家は26日までラジオが聞けなかった。新聞も発行できず、在京の新聞社が合同で新聞を出したのも26日であった。そのため都民の多くが空襲の被害については、自分の周囲のみしか知らなかったのだ。米国はこの2回の空襲を最後に東京への大規模な空襲はしていない。そして、とどめをさすように29日、白昼横浜を空襲している。

5月24,25日の東京最後の大空襲は、米国はきちんとした戦術戦略の下で実施し、24日の空襲の後偵察機を飛ばし、被災地域を調べたあと25日の空襲をしている。被災者側は、70年経った今でも、きちんとした公式記録はない。

占領下に出版された「きけわだつみのこえ」 

2014-05-24 06:17:32 | Weblog
調べ事があって若い時読んだ「きけわだつみのこえ」(岩波文庫)を再読した。この本は、さきの戦争で亡くなった学徒の手記で戦後すぐの昭和24年に出版された。手記の募集から編纂にあたってフランス文学者の渡辺一夫氏が顧問格で参画しているが、渡辺氏は序文の感想の中で”戦争の事を忘れてケロりとしている人々”や”のんきに政争ばかりしている政治家”そして”戦争中、兵隊さん万歳、と読んでいた今の若い学生”にも読んで貰いたい、と書いている。当時僕は”その今の学生”の世代だったが、無念にも学業半ばで戦没した人々に想いを馳せ、戦争の無情さについて考えたものだ。

しかし、一方では子供ながらに体験した戦争について、僕よりすこし先輩世代である学徒の戦争観が、僕とあまりにかけ離れているのに正直いって驚いた記憶もある。ところが、今回再読してみて、そのわけが解かった。渡辺氏の感想序文にこんな記述があった。”(応募の手記の中には)かなり過激な日本精神主義的、時には戦争を謳歌するのもあった。私これを全部採録するのが「公正」と主張したが、出版部の方々が,現下の社会情勢その他に少しでも悪い影響を与えることがあってはならぬと反対した”。出版時の昭和24年は、連合軍の占領下にあり、検閲制度もあった。

昨年暮病床で読んだ大佛次郎の「帰郷」(昭和23年)の後文だったと思うが、やはり著者は「占領下」を意識し、小説の中では「米国人」の登場を意識的に避け、夜間照明の下でアメリカ人がテニスをやっていたシーンだけだと書いていた。占領下はそういう時代であったのだ。この時代に出版された書籍は、それを考えて読む必要がある気がする。さもないと、戦没学徒兵がみな「わだつみのこえ」になってしまう。

夜間外出禁止令 楽観は禁物

2014-05-23 05:39:27 | Weblog
戒厳令下のタイで、軍当局は治安維持のため「国家平和維持評議会」を組織し全権を掌握した。軍によるクーデターである。これにより夜間外出令も出され市民生活に大きな影響が出ることになる。5万人もの在留邦人の生活は大丈夫なのか。現地からの報道によれば、平穏で空港への夜間離着陸も平常通りのようだ。クーデター慣れしている、この国の事だから、安全とは思うが油断は禁物である。

夜間外出禁止令といえば、1966年3月、インドネシアでも9.30クーデタ未遂事件後の混乱で夜10時から翌朝5時まで、市民は外出を禁止されていた。当時、日本からジャカルタ行の飛行機はシンガポール経由で運航されていたが、赴任のため僕の乗っていたJALは、夜間ジャカルタ空港へ着陸できず、一夜シンガポールで足止めされ、翌朝インドネシア入りした。

夜間外出禁止令下の生活は不便であった。僕はホテルに宿泊していたが、夜間は取材もできず、じっと部屋に閉じこもっていた。当時、日本人の間では麻雀が流行していたが、知人の家で遊んでいても9時頃になると、いそいそとホテルへ帰った。夜間外出禁止令は英語で「curfew」という。もともとの意は教会の修道院の消灯の鐘の音だそうだが、インドネシア語では、たんに「Jam malam」(夜間時間)といった。「Jam malam」は僕が初めて覚えたインドネシア語の一つだ。

日本の現地からの旅行会社は観光には影響ないと楽観しているようだが、夜間外出禁止令下では、銃殺されることもある。”平和ボケ”している日本人が多い。注意にこしたほうが好い。楽観は禁物である。

何故ベトナム.フィリッピンと対中共闘しないのか

2014-05-22 05:54:33 | Weblog
昨日床屋へ行ったら”政治談議”好きの主人から”ベトナムとフィリッピンが南シナ海の中国の領海侵犯に対して共闘しているのに、日本はなぜ黙っているのか”と叱られた。ベトナムのグエン.タン.ズン首相がマニラを訪れ,アキノ大統領と会談した後、中国の南シナ海での行動は地域の安定と平和へ挑戦だと非難した。日本も東シナ海の尖閣諸島で、中国から同じ脅威を受けているのに、何故ニ国と共同歩調をとらないのか、というわけだ。

安倍総理は30日からシンガポールで開かれるアジア安全保障会議に出席し、アセアン諸国に対して「安倍ドクトリン」を発表し、日本の立場を明らかにするようだ。新聞報道によれば、安倍総理はこのドクトリンの中で「法の支配と自由の重要性」を各国に訴え、名前は出さないが、中国の力による現状変更を求める試みには断固反対の立場を表明するとのことだ。しかし、床屋談義的にいえば、こんななまぬるい表現では中国は何とも思わない。現実に今、上海で開催中のアジア信頼醸成会議で、習近平中国主席は”アジアの安全はアジア人民が守らなければならない”と、自分の侵略行為を棚にあげて米国を非難している。

習近平主席は先頃のロシア.プーチン首相との会談でも、来年の戦勝70周年にはロシアと共同で記念行事を行い、対日歴史観で共闘しようといった意味の声明を発表している。北方領土を占領したまま返還しないロシアの態度を容認し、自国の尖閣への要望を実現しようとでも思っているのかもしれない。俗っぽい言葉でいえば、”盗人猛々しい”のである。床屋の主人ではないが、日本はもっと強硬に判りやすい外交戦を展開してもよいのではないだろうか。ベトナム。フィリッピンと共同歩調をとっても中国との戦争にはならない。