「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「三等国」

2014-04-30 06:04:13 | Weblog
珍島沖の旅客船沈没事故の政府の対応の不手際にからんで韓国国内では、自国は「三等国」だとする自虐的な論調が出始めている。遺族の悲しみの表現まで大げさで「三等国」なみだという意見までネット上に現れ、投書者の父親の議員がテレビの画面で謝罪していた。「三等国」であるかどうかは、控えるにしても、事故後2週間経過してもいまだに百人近くの人が沈船に閉じ込められている事態は「一等国」ではありえない。

「三等国」とは久しぶりに聞く言葉だ。戦前、子供だった頃、道端で立小便をしたり、路上にツバを吐いたりすると大人から”そんなことは三等国民のすることだ”と叱られたものだ。「坂の上の雲」の時代、日露戦争に勝利するまでは、日本は三等国扱いされていたようだ。当時の日本人は、これから脱けだそうと懸命に努力した。アジアの国の中には、日本人を現地人扱いにし、鉄道は三等車にしか乗せなかった。手元に戦前、蘭印(インドネシア)にいた日本人の写真集があるが、ボルネオ(カリマンタン)の町の日本人会の集合写真を見ると、皆白い麻服を着てネクタイを着ている。日本人としての誇りを持ち服装から気を付けていたことが解る。

”人のふり見てわが身をただせ”という諺がある。珍島沖の旅客船事故の船長の短パン姿で船から脱出姿を見てはたして日本人は大丈夫だろうかと思った。書きたくないのだが、杖をついた老人が目の前に来ても、優先席でお化粧直しをして、知らん顔をしている女性がいたり,平気で車内でものを食い、飲んだ空き缶を置いたままにして下車する若者もいる。

行方不明の認知症老人が1万人近くいて、あまり問題にならない国は果たして一等国であろうかー。

"今日の佳き日”は天長節なのだが

2014-04-29 05:09:20 | Weblog
今日は4月29日「昭和の日」。国民の祝日である。と、いっても今一つピーンと来ない。平成になって一度「みどりの日」と改名されたこともあってか大型連休の中の休日の一つに埋没してしまった。が、75歳以上の後期高齢者にとっては”今日の佳き日は大君の生まれ給いし”誕生日、天長節であり懐かしいのだが。

先日NHKラジオの深夜便で”昭和の懐かしの歌謡スター”で、戦中、戦後活躍した伊藤久男、霧島昇編を聞いた。まさに昭和を代表する二人である。番組のアンカー氏は、二人と福島県の出身で、亡くなったのも年は違うが一日違いだと紹介していた。そして、二人の代表作「高原の旅愁」「イヨマンテの夜」(伊藤久男)「愛染夜曲」「三百六十五夜」(霧島昇)は歌われたが、二人が戦中歌い、競作した「露営の歌」(昭和12年)「暁に祈る」(昭和14年)などはスキップされた。多分、軍歌とみなされ敬遠されたのだろう。

昭和の時代にはNHKは国民歌謡として、その時代を反映する名曲を世に出している。島崎藤村作詞の「朝」「椰子の実」などもその一つで今も愛唱されているが、戦争がはげしくなり、国民唱歌と改名された時代の歌は、戦時色が強いという理由から「愛国行進曲」「海ゆかば」など全く歌われなくなった。この時代の歌の中にも「めんこい仔馬」「歩け歩け」「隣組」など、あまり戦争に関係がないものがあるが、敬遠されている。

”歌は世につれ、世は歌につれ”というが、軍歌はその時代の歌である。国民唱歌の中には「千人針の歌」というのもある。あまりヒットしなかったが、今の若い世代で「千人針」を理解できる人は、どの程度いるだろうか。たかが歌であるが「天長節」と同様、次世代が理解できなくなるのは、その時代を生きてきた者にとっては寂しいものである。

ベトナム戦争終わって半世紀近く、戦場だったダナンへ直行便

2014-04-28 06:30:43 | Weblog
大手旅行社から毎月、国外の旅行案内の立派な冊子が送られてくる。10年有効のパスポートの期限は2年残っているが、体調が果たしてどうかだ。しかし、まだ訪れたことがない地の写真を見るだけでも楽しいものだ。大型連休も始まったが、どこへ行く当てもない老妻と二人で、冊子をながめていたら、老妻が”ダナンってどこでしたか”と聞いてきた。今年からダナンと成田を結ぶ直行便が就航するというニュースが載っている。

ベトナム戦争(1960年―73年)当時新聞社の外信部記者だった僕にとってダナンの地名は忘れられない。トンキン湾事件に端を発した米国は1965年ダナンの地へ朝鮮戦争以来という海兵隊を上陸させ、本格的な介入を開始した。以来、海陸空からの激しい戦闘がベトコン(南ベトナム解放戦線]との間で展開された。ダナンは激しい攻防の地として毎日のように外電で流れてきた。

ベトナム戦争当時、同僚がサイゴン(ホーチミン)に特派員として派遣されたが、戦場の中での取材のストレスで1年の滞在なのに帰国すると髪が真っ白になっていた。あれから半世紀近くの歳月が流れているが、そのほとんどの「サイゴン特派員」が今はこの世にいない。

海外の渡航が自由になったのは1964年からだが、当時は”トリスを飲んでハワイへ行乞う”の時代で、日本人の海外観光は限られた地へ、限られた人しか行けなかった。いまはそうではない。とくに若い人には手軽に行けるアジアに人気があるらしい。ベトナムもその人気国の一つになっている。ダナンは、旅行案内をみると、すばらしいリゾート地に変容している。あの時代、日本でもベトナム戦争に反対し「ベ平連」平和運動が盛んであった。当時の若者も今や定年を終え、ダナンへ観光旅行にに出かけるかもしれない。

オバマの”従軍慰安婦”に対する誤解と偏見を糾せ

2014-04-27 06:47:36 | Weblog
オバマ米大統領が韓国の朴菫恵大統領との会談後の記者会見で慰安婦問題について”甚だしい人権問題だ。戦争中のこととはいえ絶望した”と発言した。この記事を読んで、僕は改めてオバマ大統領は、まったく”従軍慰安婦”問題について解かっていない、事を知り”絶望”した。

NHKの籾井会長が就任の記者会見で、オランダの”飾り窓”を例にあげたところ、一部のマスコミからそう叩きにあったが、売春行為は古今東西を問わずあるものだ。イタリアの紀元79の火山大爆発で地中に埋まったポンペイ遺跡からも娼婦を描いた壁画が発見されている。悲しく恥ずかしいことだが、明治時代には大勢の”唐行きさん”(娘子軍)が、海を渡って売られていった。明治40年の統計だが、スマトラのメダンには500人もの”唐行きさん”がいた(蘭領東印度叢書下巻]。遠くアフリカのザンジバル(タンザニア)にも日本人娼婦の足跡が残っている。

”従軍慰安婦”問題は戦争中、日本の軍政下でこのような売春所があったのを否定するものではない。いわゆる「河野談話」が認めた形になっている日本軍による強制的な売春行為、性奴隷制度はなかった、という点である。朴菫恵大統領は、すでに1960年の日韓基本条約で解決済みのこの問題を就任以来意識的に対日外交のテコに使い、国際的に嫌日感情を煽っている。オバマ大統領は、これを信じ込み”女性(売春婦)の発言は聞くに値する”とバカな発言をしている。

安倍総理はオバマ大統領との会談で”従軍慰安婦”問題を持ち出したという報道はない。難問山積の首脳会談である。多分話し合いの中で”従軍慰安婦”問題は出なかったと思うが、朴大統領が意固地のようにこだわっている問題であり”性奴隷”が、あたかも真実のように世界で独り歩きしている。誤解を解くためにも安倍総理は、一言”従軍慰安婦”の真実について説明があってもよかったと思うのだがー。

認知症は”恍惚の人” 名古屋高裁の無情な判決

2014-04-26 06:11:12 | Weblog
認知症による徘徊が原因で電車事故を起こし鉄道会社に損害を与えたとし、91歳の夫を見守る責任があったと85歳の妻が監督不十分で359万円の賠償を、JR東海へ支払えと名古屋高裁が下級審の判決を支持した判決を言い渡した。超高齢者社会であり、僕自身も伴侶の老妻も80歳を越える高齢、いつ認知症になるかもしれない。これに対して、日本の社会の認知症対策はどうなのか。警察庁の調査では全国で9607人の認知症老人の行方が判らないという(平成24年度)恐るべき数字だ。

厚労省の統計によると、日本人の65歳以上の年寄りの認知症有病率は推定で15%とみられ平成24年度の患者数は287万人である。この数字は20年前に比べて約6倍だとのこと。また別の厚労省の推計では、2025年には患者数は400万人を越え、高齢者の4人に1人は認知症だという。考えるだけでもぞーつとする。

認知症が日本の社会で表面化してきたのは、1972年(昭和42年)有吉佐和子の小説「恍惚の人」がベストセラーになり、映画化された時代である。以前からお年寄りのボケはあったが、数は少なく、また周囲の暖かく見守る目もあった。戦前子供であった頃、元治元年生まれの母方の祖母がボケが始まり徘徊を始めたが、戦前は東京でも本家を中心に周囲に親戚の家が多くあり、行き届いた介護が出来ていた。

「恍惚の人」の主人公はほぼ僕と同じ年齢の84歳だが、妻に先立たれ、それが引き金になってボケが始まり徘徊しだした。小説はこの老人を勤めももちながら介護する息子嫁の話を中心とした家族の人間像だが、今の認知症に相通ずるものがある。標題の「恍惚の人」は日本外史に出てくる戦国大名、三好長慶の”老いて病み恍惚として人を知らず”からとったものだという。

認知症患者本人が”恍惚の人”と感じているかどうかは知らない。しかし、長い人生を歩んできた人生の先輩である。”恍惚として人を知らない”状態での事故である。また、その”恍惚の人”を見守れといっても、社会全体のバックアップ体制が出来ていないのが現実である。無情な判決と言われても仕方がない。

オバマ大統領のお辞儀の角度

2014-04-25 05:48:40 | Weblog
バラク.オバマ大統領が安倍晋三首相との日米首脳会談を終え、次の訪問国韓国へ向かった。発表後の両首脳の共同記者会見によると、会談は「バラク」「シンゾー」の親密な仲で行われたようだが、テレビに画面でみる限り、それほどの親しさは感じられなかった。しかし、とにもかくにも、オバマ大統領から尖閣諸島が日米安保条約の対象地域である旨の発言を得たことは成果であり、日米同盟の絆が健在であることを内外に印象づけた。

しかし、国際政治には素人の僕であり、多少”熊さん”的になるが、僕はオバマ大統領の一連の歓迎式でのお辞儀の仕方に注目した。前回訪日の際、皇居で天皇.皇后両陛下に初めてお会いし時、大統領が頭を90度近く折り曲げ挨拶したと話題になった。あのぎこちない挨拶は、僕ら日本人にとっては、むしろ微笑ましかったが、一部の外国からは厳しい批判があったようだ。今回は、注意してみていると、大統領は頭は深々とさげなかったが、親しげに両陛下と握手されていた。

Protocol(外交儀礼)は難しいようだ。歓迎式典をみて自衛隊儀礼兵の一糸乱れぬ式の運行に改めて感心した。新聞に天皇主催の晩餐会の席次まで書いてあったが、式典をつかさどる関係者はその準備が大変だ。式典では当然両国国旗が掲揚され、両国国歌が演奏された。先日、新聞に安倍総理の靖国参拝に批判的な新聞社説を試験に出題した、高校教師が”君が代が歌える社会科教師なんかほとんどいない”と書いてあったが、事実なら恥ずかしいことだ。東京都は、高校の社会科教師をあつめてprotocolについて研修会を開催したらどうか。晩餐会に当然公務として参加されなければならない皇族の欠席と同じく気になった点だ。

オバマ大統領にとっての高級寿司の味 屋台のサテの味

2014-04-24 06:56:03 | Weblog
国賓として来日したオバマ大統領が昨夜、安倍総理の”おもてなし”で銀座の高級寿司店でご馳走になった。ギネスにも載っている店だそうで”おまかせ.コース”でも3万円もするとのこと。僕ら庶民にはとうてい”高嶺の花”だが、難問山積する日米関係が、少しでも前進すれば安いものではない。大統領は食後の感想として”人生の中で一番おいしい寿司だ”と述べていたそうだ。

オバマ大統領は食通であるかどうかは知らないが、彼のことを記述した本の中には飲食の話が多い。大統領は1967年、8歳の時、米国人の実母アンさんの再婚にともない、義父のインドネシア人の地理学者、ストロ氏の故国ジャカルタに移住、5年間住んでいる。僕も同じころ新聞社の特派員として、インドネシアに在勤していたことがあり、懐かしさから当時のオバマ少年の事を書いた本を読んだ。一家がハワイから移住してすぐ住んだメンテン.ダラムというジャカルタ西部の新興住宅街であった。

オバマ少年はカトリックの修道会の経営する幼稚園に通園しインドネシア語を学んだが、すぐに新しい地の空気に馴染み1年間で現地の言葉には不自由がなくなった。オバマ少年は、近所の少年とたちまち仲良くなり、屋台で平気でシンコン.ゴレン(キャッサバを炒めたもの)や現地の激辛のケチャップにもなじんだ。(後年オバマ少年は大統領に就任した際、インドネシアを再訪する機会があれば、屋台で焼きそばやサテ(焼き鳥)が食べたいといっている)

オバマ一家がインドネシア在住時は、1965年9月30日の政変の影響で、ものすごいインフレでインドネシア経済は破綻状況にあった。庶民の生活は苦しく僕らがレストランで食事をすると、残飯をねらっている子供が店の外に待っていた。多分、オバマ少年も記憶の中に当時のインドネシアの貧困さが印象として残っていると思う。ジャカルタ市内に始めて日本料理店が出来たのは1968年で、寿司店など一軒もなかった。それにしても世界の食文化も僅か半世紀たらずで変化したものだ。日本の首相が米国の大統領を寿司で接待するとは、50年前には考えも及ばなかった。

61年前、駆け出し記者だった頃の旧友の訃報

2014-04-23 06:20:06 | Weblog
もうそういう年頃になったのであろう。また旧友の訃報である。今年になって三人目の寂しい知らせだ。旧友は61年前僕が学校を出てすぐ赴任した新聞社の長野支局で僕に記者のABCを手ほどいてくれた先輩である。先輩は地元の新聞社から移ってきたが、身分が嘱託のため正規採用の僕より給与が低く、独身といえ生活は大変だった。

支局は県庁近くの下宿屋の二階の八畳間で、僕はここに寝泊まりしながら、朝夕下宿屋の食事の世話になった。当時月給は諸手当込みで1万円近く、下宿の食事代が3千円だった。独身者としては、まあまあの生活だったが、先輩は5千円だったから大変だったようだ。昼食は近所のパン屋からマーガリンを塗っただけのコッペパンを一個10円で買っていた。会社の規定で、自分で撮った写真が掲載されると一枚2百円の報酬がでた。先輩はもっぱら、これを狙って季節感を伝える写真を撮っていた。

FAXもメールも写真電送もない時代であった。僕らは自転車に乗って取材をした。長野は善光寺があって坂の多い町だ。地方検察庁や裁判所は善光寺よりさらに坂の上にあった。支局長は厳しい人で、朝取材にでたら夕方まで支局に戻ってはいけないと厳命した。夕刻、僕らが取材した原稿は、急ぎのニュースは電話で東京本社へ送り、さもない記事や写真は駅から列車に載せて送った。

戦後8年経って世の中はだいぶ落ち着いてきたが、まだ貧しい何もない時代であった。夜仕事が終わると、若い僕らは近所の酒屋から一一升ビンの安酒とクジラの大和煮の缶詰を取り寄せ酒盛りをした。給料日には、まだ市内にあった岩石の特飲街を冷やかし、当時あった「憩いの街」という飲食街で餃子をたべながら痛飲した。劇作家、別役実さんのお母さんの店も僕らのたまり場であった。善光寺の境内にはインドから贈られた白牛がいた時代である。つい、この間の事と思われるのだが。

学校も休みだった靖国神社例大祭のあの時代

2014-04-22 05:57:43 | Weblog
昨日NHKの朝のニュース「お早う日本」を見ていたら”阿倍総理 靖国神社へ真榊(まさかき)奉納”が、まるでホットニュースかのように飛び込んできた。僕にはそれほど緊急を要する重大なニュースとは思えないのだがー。春の靖国神社の例大祭が21日から3日間、開催されているが、この初日にあたらり、安倍総理が内閣総理大臣名で儀式に従って真榊を奉納したというのである。総理の真榊奉納だけではない。マスコミはいつも、この時期になると閣僚の誰それが靖国を参拝したと、あたかも”踏み絵”のような扱いの報道をする。

戦前は靖国神社の春季例大祭は4月29日から3日間で、中日の30日は東京の公立学校は休日であった。戦時中小学生であった僕も何回か靖国神社へ出かけた。子供であり、神社に参拝するというより、境内に出ている露店や見世物小屋を見るのが楽しかった。大きな樽状の入れ物の中を猛スピードで回るオートバイの曲芸乗りが今でも忘れられない。戦争が激しくなった昭和18年には、春秋の例大祭のほかに、臨時大祭が2回行われ、天皇陛下が御親拝され、九段坂の沿道には全国からの遺族で埋まった。

      「露営の歌」(藪内喜一郎作詞 古関裕而作曲 昭和12年)4番
       思えば今日の戦いに 朱(あけ)に染まってにっこりと笑って死んだ戦友の
       天皇陛下万歳と残した声が忘らりょよか

靖国神社には先の戦争で亡くなられた213万柱の英霊をはじめ国家のために命を奉げた方々の霊が祀られている。安倍総理が真榊を奉納するのは当然である。しかし、僕の持論である。大祭には勅使ではなく、天皇陛下ご自身がご親拝できるような雰囲気を国の指導者は、一日も早く作るべきである。

老人に”大きなお世話”は禁物

2014-04-21 06:00:02 | Weblog
作家曾野綾子さんの産経新聞連載の随筆「小さな親切、大きなお世話」は、同じ昭和6年生まれのためか共感することが多い。しかし、4月20日付けの”会話のない食卓の害悪”は、曾野さんにしては珍しく、老人施設の実態をよく理解しておらず誤解を呼ぶ。でも、老人心理の機微をついていて、全く、その通りだと僕も体験からそう思った。

曾野さんは、この随筆の中で老人施設の中には、施設内で財布を持たせなかったり、外出を許可制にしているケースを紹介しており、施設の食卓には会話がない、と書いていた。しかし、認知症の老人の世話をしている施設では、財布を預かる場合もあるだろうし、外出を許可制にするのは当然である。僕も旧友が入所している老人施設など何か所か訪れたことがあり、食事時にもぶつかったが、老人たちが黙々と会話もなく食べている姿はなかった。

曾野さんは”(これでは)多少判断の狂いがあっても自分で歩いて何とか生活できたのが、施設の中に閉じ込められ、あっという間に心身の機能が衰えてしまい車イスになる。厚労省はこの無残な現実を認識しているのであろうか”と書いている。これについては、僕も若干ケースが違うが同感である。昨年暮93歳で亡くなった旧友で同じ体験をしている。生涯独身の旧友は都内のマンションで生活していたが、独り暮らしで危険なので、地元の福祉施設に連絡した。これが結果的には彼にとって”大きなお世話”になってしまった。比較的元気で自由に外出していたのが、電車を使っての外出は付き添いが必要になり、あまり気がのらないデーサービスにも参加させられた。恐らく彼にとっては福祉のサービスは心身の負担だったのかもしれない。

先日、百歳の先輩の誕生日祝いに参加したが、家族の人たちが、あまり手を取り、足をとったりの過保護な看護はしていなかった。老人には”大きなお世話”は時により禁物である。