「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

          「慰安婦」問題がお好きな朝日新聞

2012-06-30 05:37:06 | Weblog
98歳の大先輩から新しい”情報宅急便”が届いた。大きな封筒の中には先輩の近況と朝日新聞の切り抜きが入っていた。僕が朝日の読者でないのを先輩はご存じなので、僕の関心のありそうな記事をこうして送ってくれる。今回の”宅急便”の中には朝日新聞の元慰安婦写真展を巡る一連の記事が同封されていた。朝日の読者には旧聞だが、簡単に整理してみると、次のようなものだ。在日韓国人の写真家(42)が韓国のいわゆる”従軍慰安婦”の写真40点を撮り、新宿のニコン.サロンで写真展をすることになった。ニコン側も一度はこれに同意したが、諸般の事情からキャンセルになった。これに対し写真家は東京地裁に異議申し立ての仮処分を申請、地裁がこれを受理したというものだ。

僕が購読している新聞にはこの問題は一行も報道されていない。ネットの情報にもない。多分伝えるに値しない記事なのでネグったに違いない。朝日新聞は何故か慰安婦問題になると熱心である。慰安婦問題で韓国側に謝罪した「河野談話」も元はと言えば、朝日新聞が伝えた慰安婦強制連行の誤報から出ている。いわゆる”従軍慰安婦”問題は、今さら言うまでもない。日本軍による強制連行はなかったし、軍が売春を強要したこともない。売春は民間人の女衒が行ったものだが、ただ募集の段階で広告の行き過ぎから犠牲になった女性がいたのも事実のようだ。

残念なことにわが国でも戦後の昭和33年まで売春は政府公認であった。全国各地に”赤線”という売春地帯があった。現在でもオランダのアムステルダムには”飾り窓”という公認の売春地帯がある。数年前、僕は友人夫妻と旧和蘭東インド会社跡を訪ねた際、この地帯に紛れ込んで大恥をかいたことがあった。

大先輩の手紙には”戦後67年もたって、いまだにこんな問題がグジグジしているのには参ります”とあった。先輩は戦争中の大部分をニューギニア海の慰安施設もない小さな孤島で守備に就いていた。トカゲや蛇を食べていた先輩にとっては、いまだに慰安婦問題というと新聞が大きく取り上げ、旧日本軍の兵士全員が悪いことをしていたかのように伝えられるのが耐えられないというのである。

          戦中戦後日本インドネシア歌の親善交流

2012-06-29 05:21:46 | Weblog
在日インドネシア大使館の新しい教育文化部長イクバル氏が着任、その歓迎パーテイに招かれ出席した。30人ほどのパーテイだったが、この10年ほどの間に、この種の日イ関係の会の参加者の顔ぶれが一変した。かっては、先の戦争でインドネシアへ従軍した人たちが主流だったが、先日のパーテイでは僅か二人だけ、あとは全員戦後インドネシアと関係をもった方々だ。

席上、インドネシアの歌の愛好会「ラグラグ」会が中心となってインドネシアの歌を合唱した。歌のほうも参加者同様に変わってきた。45年前ジャカルタに在勤した僕の知っている歌は、戦後のインドネシア独立戦争時の歌「Helo Helo Bandung」だけ。かっては、必ずというほどほど集まりで歌われた「Bungawan Solo」とか「Rasa Sayang 」「Nona Manis」「Bunga Sakura」は歌われなかった。歳月の流れを感じる。

「Rasa Sayang」と「Nona Manis」は戦争中NHKの「少国民の時間」のテーマソングとして流れた歌で、当時インドネシアと関係がなかった僕でもメロデイは知っていた。「Bunnga Sakura」(桜の花)は、戦時中の日本の流行歌「愛国の花」が大好きだったスカルノ(初代大統領)が作詞した歌で、1962年、天皇陛下ご夫妻が皇太子時代、昭和天皇のご名代として訪イしたさい、ボゴール宮殿で1万人の現地の人たちが、この歌を合唱してお二人を歓迎した。

インドネシアの人たちは日本の歌が好きだ。ユドヨノ大統領と同じぐらいの年齢の’66年世代は五輪まゆみの「心の友」を大部分の人が知っている。今の若い世代も驚くほどJポップスに精通している、AKB48のインドネシア版ともいえるJKT48が昨年結成され、人気なのも長年にわたる日イ両国の音楽を通じた友好親善の素地がこの国にあったからであろう。

         後期高齢者は必要ないのか「特定保健指導」

2012-06-28 05:34:41 | Weblog
「特定保健指導」というのをご存知ですか。僕の住む東京の区役所から毎年の健康無料診断の書類が届いたが、その中に「特定保健指導のご案内」が入っていた。あまり聞きなれない名前なので、読んでみると40歳から74歳までを対象にした”メタポ検診”である。80歳を越えた僕は対象外だが、厚労省という役所はよほど年齢区分がお好きな役所である。後期高齢者医療制度が発足した時、この制度が国民に嫌われたのも、75歳以上で年齢を区分し、”後期”呼ばわりしたからであった。

「特定保健指導」が何故年齢を40歳から74歳で区別するのか最初はよく判らなかったが、書類をよく読んでみると、制度の狙いは75歳以上の後期高齢者の生活習慣病を少なくするための予防にあった。制度の意とすることは理解できたが、年寄りになると考え方がひねくれるのかもしれない。それでは75歳以上の後期高齢者は、もう保健指導しても仕方がないのかともとれる。

それにしても厚労省の文書は判りにくい。「特定保健指導」の対象年齢40歳から64歳までは”積極的支援”65歳から74歳までが”動機づけ支援”だという。若い年齢層には”積極的”に支援して高年齢層には”動機づけ”だけ支援しようというのであろうか。これも年齢による”差別”とも受け取れる。

この「特定保健指導」は2008年から導入され、これによって後期高齢者医療の負担が最大10%減少できるそうだが、僕の周囲の対象年齢の若い人たちが、積極的にこの指導を受けたという話をあまり聞いたことがない。PR不足もあるが、文書があまりにも判りにくすぎる。

              民主党のペテンに騙されるな

2012-06-27 05:47:57 | Weblog
民主党は政権与党の公党ではない。昨日の消費増税法案の採決で、なんと57人が反対し15人が棄権した。総理が政治生命をかけて”心から"と3回も繰り返してお願いした”法案に対し四分の一の議員が造反したのだ。自民党の石原幹事長も言っていたが、野党に政策協力を依頼しながら、このざまだ。党のガバナンスは一体どうなっているのだろうか。

国民の当面の関心は、この造反者の処分であるが野田総理の記者会見での発言を聞いていると、処分は自分と輿石幹事長に一任してくれ、というだけである。総理は再三にわたって造反者には党議拘束にかけ厳重に処分すると言っているが、党が分裂状態にある今、果たして全員を除籍処分できるのであろうか。昨年6月の菅総理(当時)不信任案提出時前後のことが想起される。自民公明野党提出の不信任案が、小沢グループなどの反対表明で可決寸前だったのが、結果的には鳩山”おばかさん”が騙されて否決された。小沢一郎は棄権にとどまった。

今回も鳩山は自分が作った党だと、いわんばかりにを党を出ないと明言している。小沢も自分の口からは新党を作るとは言っていない。なんだか二人とも野田の優柔不断を見越しているみたいである。衆院は通過したが、参院での審議は残っている。自民公明の野党は、民主党の造反者に対する処分を見て今後の協力態度を決定すようだが、政権公約を簡単に破りながら反省もない政党であり、代表が政治生命をかけてお願いしながら平気で造反する議員が四分の一もいる政党である。

小沢一郎が記者会見で民主党結党の原点に戻ってと「造反有理」をいっていたが、自民党を振り出しに新生党、新進党、自由党、民主党といくつもの政党を作っては壊してきた、政治屋である。再三”国民のための政治”という言葉を使っていたが、空々しい。ペテン師、詐欺師の顔である。自民党のお坊ちゃん総裁騙されてはいけない。

          エジプト革命60周年と「ムスリム同胞団」

2012-06-26 05:45:44 | Weblog
”アラブの春”の結論としてエジプトでは決選投票の結果、イスラム主義組織「ムスリム同胞団」が推すムハンマド.モルシ氏が大統領に選ばれた。1950年代から60年代にかけて新聞社で中東問題を担当していた僕にとっては懐かしい名前だ。ナセル、サダト、ムバラク三代の軍人出身の大統領時代の政治の中ですっかり忘れられかけていた。

60年前の1952年7月23日、エジプトではファルーク王朝打倒のクーデターが起こり、ナセル(初代大統領)らの若手自由将校団が権限を握った。この革命を支持し共闘したのが「ムスリム同胞団」であった。しかし、革命成功後自由将校団のソ連(当時)寄りの社会主義政策に反対してナセル暗殺計画(未遂)を起こし、以来エジプトの政治の表舞台からは消えていた。

当時を想い起こすと、アラブ世界は1956年の「スエズ戦争」の勝利もあってナセルの名前はアラブ統一の盟主として崇められた。ナセリズムが澎湃としてアラブ世界を動かし、58年にはイラクでもハシミテ王国が倒れ、同じ年、エジプトとシリアが合邦して「アラブ連合共和国」(UAR)が出来、さらには62年にはイエメン王国も倒れ、UARと同盟を結んだ(その後シリアは61年離脱)

この時代もイスラム内のスンニ派とシーア派との対立もあったのであろうが、あまり武力衝突はなかった気がする。いわんやアルカイーダのようなイスラム原理主義はなかった。人々のエネルギーは宗主国からの独立、そしてその傀儡の王政打倒にあったのだろう。「ムスリム同胞団」の政治は、それほどイスラム色の強いものようにみえないが、多宗教国家である。今後の舵取りが注目される。

       介護手続きの判らない超高齢者と社会からの孤立

2012-06-25 05:44:44 | Weblog
昨日新宿副都心の超高層ビルの中にあるフランス料理店で友人の92歳の誕生日パーティを祝った。大学時代から60年もおつきあいを願っている旧友だが、歳は僕より一回りも上にもかかわらず元気だ。彼は戦地からの復員が遅れ、さらに戦後の学制改革の影響もあって卒業した時は32歳であった。就職難の時代で、彼は進駐軍のクラブでシェーカーを振りながら観光ガイドの資格をとって生活した。一定した収入のある会社に就職できたのは30代半ばを過ぎてからだ。そんなことも影響してか彼は生涯独身である。

数か月前、その彼から電話があった。雑談の中で最近足腰が弱り外出が面倒になってきたと珍しく弱音をはいていた。彼は都心のマンションに一人住まいで首都圏には親戚は一人もいない。もしものことがあっては大変である。この話を聞いた僕の娘がお節介にも彼の住む町の介護関係の役所に連絡をとった。正直言って、僕ら老夫婦も多額な介護保険料を支払いながら、いざ介護が必要になった時、具体的にどのような手続を取るのか知らない。案の定、超高齢者の友人は全く介護については知らなかった。

誕生パーティで聞いたところによると、友人は週に二回、無事確認をかねて介護士の訪問を受け、簡単な体操のディサービスを受けているが、口の端々には、面倒で厄介な話だということを匂わせていた。年寄りになると頑固でわがままである。その上”御上の世話になるのは恥だ”という気持ちがあるのかもしれない。杖を勧めても頑強に抵抗している彼だが、パーティ参加者の説得で、これまで通りディサビスを受ける事は承諾した。医療とは違って介護の場合は、本人の同意と手続きが必要なようだが、これを理解していない高齢者もいて、社会から孤立しているケースがあるかもしれない。

       ”小沢一郎は逃げたのか”-政局便乗の田舎芝居

2012-06-24 05:47:19 | Weblog
”放射能が怖くて秘書と一緒に逃げていた”という小沢一郎氏の離婚した夫人の告発怪文書が週刊誌に掲載されているという。23日付けの読売新聞(首都圏版)が、これを別に入手したとして”後追い”し紙面で紹介しているが、果たして本物なのだろうか。それとも”政局”に便乗した政治家得意の田舎芝居のシナリオなのだろうか。

告発怪文書によると、夫人は3月16日の朝”内々の放射性もれ情報から危険なので先生(小沢氏)は逃げた。奥さんも息子さんと一緒に逃げて欲しい”と秘書から言われたという。しかし、福島原発事故による放射能の危険度については、僕みたいな素人でもある程度理解しており、東京がそんなに危険とは思っていなかった。15日の僕の日記には”現地の放射能汚染400㍉.シーベルト危険”と記しているが16日の小ブログは”流言飛語に踊らぬが、正しい情報を、とスーパーなどからパンやカップヌードルなどが一斉に消えてしまった、政府の無能な震災対応策を批判している。

さらに、この文書によれば3月21日、夫人は書生から”東京の水道は汚染されているので、料理には買った水を使うように”と言われたという。しかし、東京の金町浄水場で採水された水道水が汚染基準値を若干超えたのは22日である。さらに小沢家のある世田谷区は別な浄水所のからの配水である。東京都が採水前から汚染度を探知して小沢一郎氏に情報を流すことなどありうるのだろうか。

この怪文書が本物かどうかはやがて明らかにされようが、僕が小沢氏について前から疑問に思っているのは、岩手県出身の大物代議士なのに大震災後岩手県庁に一度だけ達磨知事を訪ねただけで、沿岸部の被災地への視察は、年があけた今年の1月4日まで10か月も行っていない。何故なのかという点である。もちろん原爆事故被災地の福島県には一度も足を踏みいれていない。 大震災前の1月には国会の菅総理(当時)の施政演説をボイコットして、陸前高田市へ選挙の応援にかつけている。責められるのは小沢氏のこういった自分勝手な自己中心の政治家としての素質である。いずれにしても、僕にはこの怪文書は政局に便乗した田舎芝居に見えてならない。

          ”水に落ちた”小沢一郎氏の「造反有理」

2012-06-23 05:35:56 | Weblog
中国の文化大革命(1966-76年)の時代に「造反有理」という言葉が流行った。元々は1939年延安で毛沢東がスターリン生誕60年記念祝賀会で使った言葉で”造反(謀反)には正しい道理がある”という意味である。当時僕は東京の新聞社で文革ニュースの受け入れデスクをしていたが、紅衛兵の壁新聞を通じて「造反有理」のほか「反面教師」「愛国無罪」といった四字熟語を"学習"したものだ。

民主党の小沢一郎グループが、結党時の理念に戻ることを「造反有理」として党から離れ、新党結成に乗り出すようである。グループの人数は少数与党ラインの54人前後だと言われているが、26日の採択時の反対票によって判明する。想い出されるのは2009年12月、民主党が政権についた直後、小沢氏を団長として派遣された訪中使節団である。衆参議員だけで143人、一般を入れれば483人という大代表団であった。議員たちは小沢氏の演出で胡錦濤主席と一人一人と握手して写真に収まった。

この頃に比べれば小沢氏の勢いは今や落日である。文革当時の言葉を使えば、小沢氏はすでに「打落水狗」のような状態、つまり水に落ちた犬は打ち叩け”という状態にあるようにみえる。「打落水狗」は元来は魯迅の「不打落水狗」と反対の意味だったが、文革時の紅衛兵は”勢力を失った者は徹底的に打ちのめせ”と転用して使っていた。

小沢グループは結党時の理念に戻ることを「造反有理」としているが、鳩山、菅二代の政権で、この理念が現実には実現不可能なことはすでに証明されている。造反は無理であり、不利である。

          中国人に対日未来志向はあるのか

2012-06-22 06:13:37 | Weblog
日中戦争時代に小学生だった僕らは中国人は”チャンコロ”であり”マ―ラカピー”(訳するのをはばかる言葉)であった。子供でさえこんな言葉を知っていたのだから当時の日本人の中国に対する敵愾心は大変なものだった。これは日清戦争以来、一般日本人が中国に対して抱いていた「膺懲」の延長線上にある感情であった。しかし、戦争にに負けた後、蒋介石の「以徳報恨」政策もあって、一時は日本人の対中国感情は好転していた。

これが最近変わってきた。新聞に載っていた「日中共同世論調査」(言論NPOと中国日報社)によると、日本人の対中感情は”中国によくない印象を持つ””どちらかといえばよくない”を合わせると84%もある。これはこの調査を始めていらい最高だという。これに対して65%の中国人が日本に対して悪感情を抱いている。

日本人の対中悪感情の理由の第一は”資源やエネルギーの確保が自己中心的だ”というものだ。その象徴的なものが先年の尖閣島沖の漁船衝突事件である。この事件の背後には海底油田などの資源があると伝えられている。レアメタルの独占も日本人の感情を逆なでしている。これに対して、中国人の対日悪感情の第一は”過去に日本が戦争を仕掛けてきたこと”だそうである。

世論調査が載った同じ日の新聞に中国人(46)が靖国神社の境内の桜の木のプレートをはがして、足で踏みつけ警察に逮捕されたという記事が掲載されていた。これに対して在日大使館は日本の警察に対して事件を公表しないよう要請してきたという。46歳と言えば、もちろん戦後うまれだが、靖国神社がどのような場所か知った上での確信犯である。日中両国は未来志向に基づき互恵的戦略の上に立っての友好関係を築こうということになっている。尖閣島沖で海洋調査船をウロウロさせているようでは未来への友好はない。

            お日さま、軍艦、飛行機の時代

2012-06-21 06:36:46 | Weblog
土用の虫干しには季節的には早いのだが、先日屋根裏のわが家の古文書を整理していたら、僕が幼稚園の年長組だった昭和11年6月描いたクレオン画が出てきた。写真のように当時の時代を反映して、戦艦が威風堂々と行進して、その上を日の丸をつけた飛行機が勇ましく飛び、お日さまが赤々と輝いている。昭和11年は、2.26事件のあった年で、翌12年7月7日には日支事変が始まった。

僕は亡父の48歳の時の子供だったためか、人一倍僕が可愛がったのであろう。色々と僕の幼少時の頃の文書や写真を残してくれている。その中の一つ「自動車と船」という一章には”息子は2,3歳の幼い頃から自動車と船が大好きであった。鳥や動物や刀などにはまったく興味を示さず、おもちゃ箱は自動車と船ばかりであった。起きてから寝るまで”ブーブー”と”ギッコ”と言い続けている”

幼稚園時代の「自由画帖」を見ると、確かに自動車と船の絵が多い。それにほとんどの絵に赤い太陽が描かれている。赤い太陽の周りに御光が線で示されているあの太陽だ。今の子供たちも絵を書くと、この絵を画くのだろうか。それともあの時代だけのものだったのであろうか。

僕は80歳を過ぎた今でも、ろくに絵が描けない。だから絵については語る資格はないのだが、75年前の僕の絵はあまり色彩が豊かでない。なぜなのかなあと今考えてみたら、あの時代は貧しかったこともあって、ほとんどの家庭では、幼い子供には何色も入ったクレオンを与えなかった。下手な76年前の絵の下手なことの言訳に一言。