「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

    40年前、日中正常化で釈放された日本人と中国人のメンツ

2012-09-30 06:19:20 | Weblog
中国との国交正常化40周年の昨日、ある会合で誰よりもこの日が忘れられない鈴木正信さん(83)とお会いした。鈴木さんは国交がなかった1967年、北京で中国公安当局にスパイ容疑で逮捕され、5年2か月も刑務所の独房に幽閉されていたが、国交正常化によって73年釈放された。鈴木さんが逮捕された時代は文化革命の真っただ中であった。鈴木さんは商社の駐在員として滞在していたが、スパイ容疑は全く身の覚えのないことだった。

原因は鈴木さんの波乱万丈の半生にあったようだ。鈴木さんは満鉄に勤務していた父親の関係でハルピンで生まれ現地の日本人中学(旧制)4年の時敗戦を迎えた。混乱の中で家族とともに中国政府に留用され、中国人民軍(共産党軍)の衛生兵の助手として国共内戦にも巻き込まれた。鈴木さんが日本に帰国したのは昭和28年、鈴木さんが24歳になってからであった。

その鈴木さんから今回の日中対立について興味ある話を聞いた。それは中日友好協会の唐家せん(王偏に旋)会長が訪中した日本人関係者に漏らしていたが、野田総理がウラジオストクのAPEC会議で胡錦濤国家主席と立ち話だが15分も会っておきながら、その2日後に尖閣の国有化を発表した、そのタイミングが関係をこじらしてしまった、というものたが、鈴木さんもこれに同意見であった。鈴木さんによれば、これではメンツを何よりも大切にする中国人のメンツをまるつぶししてしまったというのだ。

もう一つは反日デモが大荒れした9月18日が、中国人にとって盧溝橋事件の「7.7」記念日とともに柳条湖事件「9.18」として反日気運が高まるのに、なぜその直前に国有化を発表したか、これもそのタイミングの悪さだ。外交には素人の大使だが、周辺には中国事情に詳しい外交官もいるはずだ。それとも政治主導による野田総理の独断だったのだろうか。

             渋谷から消える「子どもの城」

2012-09-29 05:15:52 | Weblog
東京渋谷にある「子どもの城」が老朽化のため2014年末でなくなるという。このニュースを聞いて一瞬、僕はわが家の子たちが、まだ幼かった頃よく連れて行った同じ渋谷にある東京都児童館と勘違いした。ところが、調べると「子どもの城」は1985年に旧青山の都電車庫跡に建てられたもので別物である。1985年には、すでにわが家の子どもたちは成人していて行ったことはない。自分が歳をとったのも無理がない。

「子どもの城」は僅か30年で”老朽化”である。では僕がわが家の子どもたちを連れていった東京都児童館はどうなったのだろうか、急に懐かしくなって調べてみたら、案の定これも”老朽化”が原因で今年の3月末で廃館になっていた。東京都児童館は1964年、天皇陛下の御結婚と皇太子殿下のご誕生を記念して建てられたもので、数えると半世紀近く経っていた。

「子どもの城」の廃園で渋谷から二つの児童施設がなくなることになる。建物の”老朽化”が原因だが、やはり最近の少子化と、それに伴う育児の変化も原因しているのかもしれない。僕らの世代の頃は、まだ子どもの数も多く、これに反して児童施設も少なかった。ところが、今は共稼ぎ夫婦が多く、子どもと一緒に遊んでやる時間も少なく、一方地元の児童館なども充実してきた。

”子どもは国の宝”というけれど、果たして今の日本の子どもたちは恵まれているだろうか。子どもたちが外で遊ばなくなってから久しい。福島原発の被災地ではとくにそうである。僕らが子どもだった時には”鬼ごっこ”あり”かくれんぼ”あり、外で遊ぶことには事かかなかった。今の子どもたちは、家の中に閉じこもり塾通いに忙しい。これが成人してからの社会生活に影響しているように思えてならない。新しい”子どもの城”つくりを考えてもいいのではないか。

           インドネシア家庭料理店のジュークボックス

2012-09-28 07:48:36 | Weblog
昨日46年前、インドネシアの政治混乱期に現地で苦労を一緒にした仲間と目黒のインドネシア料理店「せでるはな」で久しぶりに会食した。「せでるはな」はインドネシア語sederhanaからきていて”ほどほどに”とか”質素な”という意味である。この店はインドネシア家庭料理を売り物にしているが、文字どり”せでるはな”である。

「せでるはな」は東京で一番古いインドネシア料理店だ。昭和30年代の初めに六本木でオープン、今は白金の自然教育園近くの高速道路交差点の角にある。戦争中バリの海軍民政部の軍属だった田中さんが、現地で結ばれた奥さんを連れて復員、苦労して開店した。ご夫妻ともすでに亡くなられており、現在は次女の方が、メナド人だった”おふくろの味”を引き継いでいる。

半世紀ほど前、僕らがジャカルタに駐在していた時代は、毎日のようにデモがあり、日本人はほとんど単身赴任だった。市内には日本料理店は一軒もなく”日本の味”恋しく外港のタンジュンプリオクまで遠征、華僑の店でイカの刺身を造って貰ったりした。時々、招待を受けた大使館員の家での日本料理の味は今でも忘れられない。

「せでるはな」はその当時から東京にあったが、今のようにエスニック料理は普及しておらず、お客は戦時中南方にいた元日本軍関係者が中心だった。現在はバリ島に観光に行った若い人たち多いが、今一つ「せでるはな」の店の雰囲気や味が解らないらしい。グルメ系の書き込みの中には酷評がある。が、雑然とした店内の雰囲気はインドネシア的であり味も”おふくろの味”だ。店の片隅には今も「ジューク.ボックス」が置いてある。昭和30年代、まだCDやカラオケがなかった頃、若者が愛用した音楽の”自動販売機”である。「せでるはな」のジューク.ボックスには珍しくインドネシアのクロンチョンが内臓してある。頼めば昔の音色を聞くことができる。先代がキリスト教徒だったから、インドネシ料理には珍しく豚肉料理もある。通だけが知っている店だ。

              「直葬」より「家族葬」を!

2012-09-27 05:44:33 | Weblog
義理の弟がなくなった。82歳。僕と同学年である。高校を出て中央官庁に入り夜間の大学を卒業した苦労人である。10数年前事故で連れ合いに先立たれ、晩年も苦労された。が、昨夕お通夜に列席して、子供や孫に囲まれながら、静かに眠る死に顔をみて人生は終わりよければ、全てよしではないかと思った。

お通夜は東京都内の民間の式場で行われた。列席者は30人程度の「家族葬」だったが、生まれ故郷の寺から僧侶も出てきてくれて、ふるさとの暖かいぬくもりのあるお通夜だった。お通夜の精進落ちの席で、僕は僧侶に一献ささげて話をしたら、共通の知人の話も出て、60年も前の昔のことを思いおこさせてくれた。
                                                              ” ”そろそろ”お呼び”の年齢である。僕は帰宅してから式場のHPを開き葬儀の値段を調べてみた。「家族葬」でも葬儀一切と飲食接待費を含めて2百万近くか必要だ。HPによると、これでも東京23区内の平均よりは60万円ほど安いとある。話には聞いていたが、あの世へ無事到着するには大変である。このため最近は「直葬」(ちょくそう)が都会では流行しているようだ。宗教儀式一切なしで、遺体安置所から火葬場へ直接遺体を運び火葬炉の前で家族が手を合わせる”葬儀”のことだという。これだとHPによると「家族葬」よりも一桁安くできるみたいだ。

葬儀にカネをかけても葬儀屋や坊主を儲けさせるだけだ、という人もいる。だけど一度限りの人生の最後である。できれば暖かくお送りしたいものだ。

           広島被爆のインドネシア人学者の自伝

2012-09-26 06:06:19 | Weblog
インドネシアの女性ジャナリスと、トゥティ.カキアイラゥトゥ(Toetei.Kakiailatu)さん(75)からメールが届き、10月福岡市で開かれる国際泌尿器科学会に出席する夫君に同伴して来日することになった。トゥティさんとは46年来の知り合いである。1966年、僕が新聞社の特派員としてジャカルタに滞在していたとき、取材を手伝ってくれた。昨年11月、僕は38年ぶりにジャカルタで彼女と再会したが、長年勤務していたインドネシアでは著名な雑誌「TEMPO」の記者をやめ、今はフリーの”Senior Jounarist"をしているとのことであった。

トゥティさんは今、一昨年ジャカルやで死亡したアリフィン.ベイ(Arifin Bey)博士の自伝を書くための材料集めをしている。アリフィン.ベイさんは生前トータルで35年も日本に滞在、筑波大学や神田外語大学で教えていた国際学者で、日イの友好親善に努めた功により、日本政府から勲三等瑞宝章を授与されている。日本では普通,ベイさんと親しまれているが、戦争中の昭和19年、南方特別留学生として来日、広島文理大学(広島大学)で勉学中に、爆心地から1.5㌔の地点で被爆している。

僕が初めてベイさんとお会いしたのは特派員時代、ジャカルタでトゥティさんを通じてであった。当時ベイさんは「インドネシアン.ヘラルド」という英字紙の編集長をしていた。その後二人とも会う機会がなく、再会できたのは1987年、ベイさんが東京のインドネシア大使館の文化アタッシェをされていた時代だ。以来20年間、親しくご交誼を頂戴し、ジャカルタ郊外のお宅までお伺いした。

福島原発の事故で改めて放射能の恐ろしさが再確認されたが、広島でもマレーシアから来ていた二人の留学生が亡くなっている。ベイさんは友人たちの消息を求めて1週間ほど広島に滞在したが幸い元気だった。しかし、晩年ベイさんは喘息に似た症状で苦しまれていた。関係者は原爆の後遺症ではないかと心配していたが、そのままになってしまっていた。こういった波乱万丈のベイさんの自伝がインドネシアで発行されるのは日イの友好親善にも良いことだ。できるだけの協力はしたいと思っている。

   野田総理「従軍慰安婦」徹底反論のYOU TUBEを利用せよ

2012-09-25 06:40:43 | Weblog
野田佳彦総理が米紙「ウォールストリート.ジャーナル」とのインタービュで、いわゆる従軍慰安婦問題について韓国との間で”どう知恵を出すか”非公式で打診中だといったそうだ。記事を全文読んだわけではないが、随分姑息なバカな打診をするものだ、と思っていたら、案の定、韓国政府当局者から否定的な反応が返ってきた。こちらから”知恵を出し合って"といっても相手には、その知恵がないのでは意味がない。

知人から定期的に「SDHF newsletter」(検索可能)を頂戴しているが、最近のNO.46JC号に「性奴隷従軍慰安婦」問題について英文で徹底反論した、ジャーナリスト谷川雄二朗氏のYOU TUBEが紹介されていた。堂々とした意見である。知人は、ぜひこのYOU TUBEを大勢の人、とくに外国人に見いて貰いたいと推薦しているが、全く僕も同意見だ。野田総理は韓国への打診の中で、過去のアジアのための女性基金の例を持ち出したようだが、聞く耳をもたない韓国には全く意味がなく逆効果だ。

僕は谷川雄二朗氏を存じ上げていないが、wikepediaによると、1973年生まれで39歳。経歴をみると、両親の仕事の関係でオーストラリアの小学校、タイの中学校で勉強され慶応大学を出ている帰国子女である。だから谷川氏の英語は、日本人ばなれしていて流暢なわけだが、僕がそれより驚いたのは、戦争を知らない世代なのに、きちんと「従軍慰安婦」問題の本質をつかみ、徹底的に反論していることだ。

どうも日本人は外国語が下手で”内弁慶である。だから「従軍慰安婦」問題についてもこれまで、米国議会や国連などの論議をきいていると、一方的に日本はやられっぱなしである。それに日本的な論理が他国でも通用すると誤解しているきらいがある。「ウォールストリート.ジャーナル」の報道が正しいとすれば野田総理の、”知恵を出し合って”発言はあまりにも日本的だ。それより、谷川氏のYOU TUBEを国際戦略の一つとして積極的に利用したほうがよい。

           南寧の「中国.ASEAN博覧会」

2012-09-24 06:20:01 | Weblog
中国の広西チワン族自治区の南寧で開催中の「中国.ASEAN博覧会」で習近兵国家副主席が”友好的交渉を通じて隣国との領土、領海、海洋開発の絆を平和的に解決したい”と挨拶したという。ASEAN加盟国のうちベトナム、フィリッピン2か国が南シナ海の南沙群島の領有をめぐって中国と紛争が続いている。口は重宝なものだ。習近兵は先日、わが国の「尖閣国有化」に対しては反日デモを駆使して暴力行動にでたばかりではないか。

中国は2003年から毎年、南寧で「中国.ASEAN博覧会」を開催、ASEAN諸国との間の経済と貿易促進の場にしている。今年は累計で525米ドルの取引が期待されているとのこと。わが国でも熊本県がこの博覧会に熱心で、球磨焼酎など県産品の輸出してきたが、今年は尖閣問題で出品を取りやめた。

南寧の名前を聞いて、僕らの世代は戦争中の「南寧作戦」を思い出す。昭和14年(1934年)11月から12月にかけて欧米諸国から当時の蒋介石政府への物資の運搬路であった「援蒋ルート」を遮断する作戦である。子供心に大変な激戦であった記憶がある。改めて南寧の名前を耳にして何所か地図で調べてみたら、まさにASEAN諸国との接点に位置している。

今回の反日デモを機会にまた対中国貿易の見直しが言われている。こういった問題には素人の僕がみても今のような対中依存はリスクが多すぎる。戦争中の大東亜共栄圏ではないが、ASEAN諸国との経済結びつきをもっと強化すべきではないだろうか。例えば、歴史的に関係の深い沖縄で「日本.ASEAN博覧会」を開催してはどうだろうか。

              NODAは汚点、不名誉

2012-09-23 06:40:29 | Weblog
NODAはインドネシア語で汚点とか不名誉という意味がある(「現代インドネシア語辞典」大学書林)。前から僕はこれを知っていて、野田佳彦総理の名前はインドネシアでは、よい印象ではないなあ、と苦笑していた。その野田氏が民主党代表戦で勝利した。次期総選挙で民主党が勝つことになれてば、さらに3年間、野田政権が続くことになる。困ったことだ。かりに、そんなことになれば、文字通りNODAはわが国にとって汚点であり、不名誉なことになってしまう。

野田総理について顔をみたくない、という女性が増えてきている、とネットにあった。僕はそこまではゆかないが、彼の巧言令色の演説は聞きたくなくなった。”黙々と働くドジョウ内閣””大震災の復興と原発事故と日本の経済の復興を三本柱にして誠心誠意、全知全能を傾ける”といった政策はどこへ行ったのか、大震災から1年半すぎたのに、まだ34万人の被災者が避難生活を送っている。

野田総理は言葉遊びが好きなようである。小沢一郎氏の説得には「乾坤一擲」「一期一会」で当たったが、結果は80人近い離党者をだした。次期幹事長には輿石東氏が内定したらしいが、これは野田氏の言う”隗より始めよ”の故事にならったのかどうか知らない。一方で、野田氏は”汗をかいて”とよくいうが、本当に汗をかいているのだろうか、ネットには、野田は狼少年だと、よく書いてある。その最たるものは、自公指導者と約束した”近いうちに”という国会解散だ。

「尖閣」は国家盛衰にかかわる問題である。すでに野田内閣は統治能力に欠けている。一刻も早く国会を解散して信を国民に問うべきである。これ以上、汚点を残すべきではない。


          漢字世代が正しく漢字が書けなくなった!

2012-09-22 06:22:57 | Weblog
文化庁の平成23年度「国語に関する世論調査」によると、日本人の漢字を正確に書く力は、携帯電話や電子メールの普及によって衰えてきたという。40代では79.5%の人が衰えたと回答している。80代の統計はないが、多分加齢も加わって同じ傾向にあるのでは。最近、読む力が衰えたとは感じないが、たまに文書を書く時など辞書のお世話になることが出てきた。

戦前、多少なりとも漢文教育を受けた僕らの世代は、戦後生まれに比べて「漢字力」はあると自負している。今のように教育漢字とか常用漢字とかいった制限があったかどうか寡聞にしてしらない。しかし、小学校では今の教育漢字(1008字)以上は教わった気がする。毎日のように漢字の書き取りの宿題があり試験があった。

敗戦時の中学3年までは「漢文」が必修だった。白文を学ぶため「レ点」や「一」、「二」点など返り点を隠して読む道具があった。昨日、この文を書くに当たって、親友にこの道具の名前を尋ねたが彼も名前を忘れてしまっていた。「大字源」などの漢和辞典も今より日常的に使用した記憶がある。字画によって漢字の意味を調べ、筆順を学んだものだ。

漢字が正しく書けなくなった理由の一つは、手紙やはがきによる知人、友人とのコミュニケーションの機会がめっきり減ってきたことだ。周囲にIT器械に弱い高齢者が多い僕らでも返事を書く時は、パソコンを使いコピーして送ることが多くなった。数年前までは、印刷した手紙では失礼という感じがしたが、印刷した字のほうが鮮明で、年寄りには読みやすい。

日本人全体が正しく漢字が書けなくなってきた、この傾向は社会的にどんな影響が出てきているのだろうか。戦後の国語改革で、字画の多い難解の漢字に代わって略字が多数誕生したが、どうも今回はそういったことで解決できる問題ではないようだ。

             習近平と紅衛兵の時代

2012-09-21 06:43:06 | Weblog
中国の次期国家指導者、ナンバーワンに内定している習近平国家副主席が訪中したパネット米国防長官との会談で”日本の釣魚島(尖閣)国有化は茶番だ”と批判し、さらに”米国はこの問題に介入するな”と言い張ったという。習近平というと、大方の日本人には、2009年12月、民主党政権ができて間もなく訪日したさい、まるでゴリ押しみたいに天皇陛下にお会いした人物として記憶に残っている。

習近平は10月の共産党大会で胡錦濤に代わって中国国家主席に選出されるが、その割に日本のマスメディアには登場してこない。今回の”尖閣国有化”にからむ一連の中国反日運動の演出者は、野田総理が沈静化を訴えて親書を送った胡錦濤ではなくて習近平である。改めてwikipediaで習近平の経歴と人物を調べてみた。

習近平は1953年(昭和28年)6月うまれの59歳、父親の習伸勲が革命幹部だったとの理由で、文化革命の際、批判の対象となり1969年、16歳の時から7年間も反動学生として狭西省の田舎に下放されている。毛沢東の紅衛兵運動の風が強く吹きまくっていた時代だ。習近平は延川県の下放先で生産大隊の指導者に抜擢されている。そして紅衛兵発祥の清華大学の化学科を卒業している。その後共産党に入党、福州市、福建省長。上海市書記などを歴任している。

習近平の履歴を見て、僕はあの文化革命時代を思い出した。新聞社の外信部デスクをしていて同僚の北京特派員が送ってくる「壁新聞」に”苦闘”していた。「造反有理」「革命無罪」などの四字熟語を今でも覚えている。今回の反日運動のスローガンも「愛国無罪」だった。あの中国を荒れまくったた紅衛兵世代が、国家の指導者に登場してきたのだ。福田康夫総理と胡錦濤主席との間に結ばれた戦略的互恵関係も再検討しなければいけない。