「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

市民権を得たベトナム麺と食の国際化

2014-11-30 06:05:37 | Weblog
すっかり”グルメ”から遠くなった老夫婦だが、先日品川の”荒神さま”のお祭りの後、目黒の大鳥神社のバス停近くのラーメン屋で遅い昼食を食べた。中国の広州出身の主人が息子と二人だけでやっている、10人も入れば一杯のカウンターだけの小さい店だったが、”食は広州にあり”というだけに味は抜群に美味かった。

僕は広州料理店とは知らずに、壁にあったメニューの一つ「フォー」を好奇心から注文した。「フォ―」の名前を聞いたことがなかったし、食べたこともなかった。出てきたものは日本のキシメン風の平たい麺で、材料は米粉だという。その時、主人は「フォ―」について詳しく説明しなかったが、名前から中国料理ではないみたいなので、帰宅してネットで調べてみたら、ベトナム料理では定番の麺であった。もっとも同じ平たい麺は、広州の河粉地区でも名物料理としてあるようだが。

キシメンといえば名古屋である。現役の頃、名古屋へ出張に行くと、いつも二日酔いの朝食にはキシメンを食べた。以来、キシメン好きになって週に一度はミニスーパーからキシメンの玉を買ってきて食べている。キシメンの食感が好きなのだ。半世紀ほど前滞在していたインドネシアでも”Kue Cang"というキシメンを使った料理があった。華僑なん千年の歴史の中で、麺は色々な形となって世界に分布されたのであろう。

それにしても、ベトナム料理の”フォー”が、場末のラーメン屋さんのメニューにまで登場してくる時代である。日本人の食も変わってきた。半世紀前には東京でも、今はやりのイタリア料理店もインド料理店も探さなければなく、キムチも韓国料理店でなければ食べられなかった。確実に食の国際化が進行している。

黄葉しない?品川寺の大銀杏

2014-11-29 07:33:43 | Weblog
江戸時代から”竈(かまど)の神様”と知られる品川の荒神さんの秋の例祭に出かけた後、近くの同じ東海道筋にある真言宗醍醐派の古刹、海照寺(品川寺)にも快気祝をかねて参詣した。品川寺は古刹が少ない東京では珍しく大同年間(9世紀)の建立と伝えられ、江戸城開基の太田道灌が建立したと伝えられる。

広い境内には その古い歴史を物語る大銀杏が残っている。樹高25メートル、樹間5.35メートルもあり、樹齢600年ともいう。東京は今、銀杏の”黄葉”が真っ盛りで、明治神宮の並木はライトアップされ夜まで人で賑わっている。さぞかし、品川寺の大銀杏の黄葉も見事だろうと、期待していたが、何故か黄葉は始まっておらず、まだ緑の葉さえ残っている。

品川寺の門前には東海道に面して、露座の大仏が鎮座している。荒神様の春秋の例祭時には、大仏様の前で善男男女にお線香が売られ、昔は銀杏(ぎんなん)が”厄除け開運”として売られていたが、ここ数年は、その姿がない。寺のお坊さんに聞いたところ、年々、大銀杏の黄葉の時期が遅くなり、銀杏の数も減ってきて、売るほどの数が集まらないのだという。

退院してまだ1週間、初めての外出で多少疲れたが、昔からのお祭りは好いものだ。この秋、二人仲良くガン手術のお世話になった僕ら老夫婦は、二人の快気に感謝して、深まる秋の一日、人生の秋をかみしめながら、古刹参りの一日を過ごした。

要介護(1)の老夫婦のボケと老人福祉

2014-11-28 07:02:41 | Weblog
昨日、僕らが住んでいる東京の区役所の介護保険課から係員が、僕ら夫婦の介護保険の更新について調査に来た。昨年12月、僕が左膝の人工関節置換手術を受けたのを機会に、近くに住む娘が、区役所に僕の身体障害認定と、夫婦二人の要介護申請の手続きをとってくれた。幸い、申請は認可され、身障者用に自宅のトイレや浴室に手すりなど1割負担で設置され助かっている。

僕ら夫婦の要介護度は(1)で”日常生活を送るに当たり、若干の問題はあるものの独り住まいは可能”という程度で、事実二人とも、訪問看護も在宅看護も受けていない。しかし、加齢とともに老いは確実にやってくるものだ、僅かこの1年の間に、夫婦二人とガンが発見され、入院している。幸い二人の入院の時期がずれていたことと、子供が同じ屋根の下に住んでいたので国の支援は受けなかった。

調査員からマニュアルにそって、一人30分ほど身体の状況や、認知症度について色々質問を受けた。幸い、二人とも「認知症」ではないが、老人のボケ具合いは、かなり進んでいる。他人の名前が顔はわかっても、名前がすぐ出てこないのだ。それでも60年も一緒に住んでいる夫婦だ。名前が出てこなくても、夫婦の会話には問題ないのだが。

調査員が置いて行った暫定介護保険症によると、要介護(1)では、居宅サービスとして月16,692円使用可能のようだ。しかし、夫婦二人とも、今はこれにお世話になることはない。超高齢者社会である。決して今の老人福祉が完全に満足とはいかないでも、、戦前はこういった制度はなかった。将来にわたって、この制度が維持、改善されることを望む次第である。

認知症 老衰死

2014-11-27 07:21:29 | Weblog
45年前の1969年、人類史上初めて、アポロ11号が月面に着陸、その模様が日本語で同時通訳された。いまだにその興奮は、僕の耳に残っているが、その時の同時通訳者、国弘正雄氏が”老衰”で亡くなった。まだ、僕と同じ世代の84歳である。死因が”老衰”とは、ショックであるが、もう”老衰”がおかしくない年齢なのである。

”老衰”とは、ネット情報を総合すると、加齢による老化に伴い、細胞や身体の組織の能力が低下し起きるもので、ほかに特定の死因がない場合は、医者は”老衰死”と認定する。厚労省の統計では”老衰”は80歳―84歳の死因別ランキングで、ガン、心失患、脳失陥、肺炎についで第5位。100歳以上では、死因の第一位である。

超高齢化社会である。これに伴って色々の問題が派生してきているが、その第一は”認知症”である。読売新聞が11月26日付け紙面(首都圏版)で”認知症”の特集をしていた、なかなか示唆に富む内容で参考になったが、一方では、その対策の遅れに驚き、将来これで大丈夫なのか心配した。

”認知症”は病気の一種だが、これで亡くなった方は聞いたことはない。先日の入院生活でも同室の二人が”認知症”で、四六時中僕は彼らの動静に悩まされたが、”認知症”の治療ではなく、他の病気の治療であった。病床にあって僕は、改めて”認知症”には,罹かりたくないと、つくずく思った。出来れば、”老衰死”によって寿命を終えたいものである。

木枯らしが吹いても”クールビズ”

2014-11-26 06:24:51 | Weblog
”クールビズ”の期間にノーネクタイの気楽さに慣れてしまったらしい。木枯らしの季節になってもネクタイをするるのがおっくうになった”(読売新聞朝刊コラム「編集手帳」)。日本人が今年は、冬の到来迩しというのに、ノーネクタイの服装が多いように僕には感じられる。NHKの朝のニュース「お早う日本」のアナウンサーもノーネクタイである。ノーネクタイが悪いというわけではないが、老人の僕にはやはり何か抵抗がある。

”クールビズ”は、もともと環境省が節電を目的に室温を28℃に保つため、5月1日から10月31日まで期間限定で、公的の場でも簡潔な服装でもよいと呼びかけ始まったものだ。数年前から”クールビズ”は、日本の社会でも定着し、国の重要法案を審議する国会の場でも、総理をはじめほとんどの閣僚が、ノーネクタイの”クールビズ”で答弁に当たっている。

高温多湿の日本の夏、しっかり背広を着こみ、ネクタイを締めて通勤するのは、確かに苦行である。その意味では”クールビズ”は大歓迎なのだが、木枯らしが吹いても公式の場でノーネクタイ姿は、如何なものだろうか。社会のけじめを守る意味から、最低国会議員ぐらいはTime(時間)Place(場所)Occasion(機会)-のTPOに応じた服装はして貰いたいものだ。先日、病室で見たテレビの画面には、ノーネクタイの野党の若い議員の姿があった。

TPOといえば、選挙の候補者がラフな姿で宣伝車から白手袋でマイクを握り、支援を呼びかける姿も頂けない。白手袋は多分”自分の手はこのように潔白です”という意味なのだろうが、それなら、モーニング姿か紋付き袴の正装の方が似つかわしい。

東京ゴルフ倶楽部 海軍病院 五輪会場そして今は

2014-11-25 06:37:28 | Weblog
入院中(11月7日から21日)の半月間、僕の日常生活は一変した。その第一はパソコンには全く手を触れず無縁の毎日であった。情報は病院備え付けの有料カードによるテレビと家から持ち込んんだラジオだけ、新聞も一切読まなかった。ブログの更新をするわけでもなく、ただただ閑な時間は、普段家では読めなかった古典の再読にあてた。

僕の病室は6階の4人部屋で、ベッドは窓側にあった。起床時間は午前6時だったがまだ暗く、30分ほどして東南の方角が朝焼けし、東京湾の方向から太陽が昇ってくるのが見えた。長年東京に住んでいても、普段は東西南北の方向感は全くないが、ここでは天気が良いと西の方角には丹沢連山が遠望でき、富士の霊山さえ拝めることもできた。

病院の正式名は「独立法人国立病院機構東京医療センター」というが、戦前までは旧海軍の病院であった。戦後すぐの昭和21年、僕は蓄膿症の手術をこの病院で受けているが、その当時は昔の海軍病院のままで、広い敷地の中に一階建ての病棟が点々としてあったのを憶えている。病院の周辺は、もともと東京で初めてのゴルフコースがあったところで、戦後すぐの時代までクラブハウスの建物があり、引揚者住宅に使われていた。

昭和39年の東京五輪の際には、ここはバレーボールなどの会場になり”東洋の魔女”が大活躍した。今、会場跡は都立五輪駒沢公園となり都民の憩いの場となり、連日公園内は市民ランナーで賑わっている。東京ゴルフ倶楽部時代には、近くの東急東横線自由が丘駅からキャデイさんを運ぶバスが出ていたそうだが、いまは病院の患者や見舞客用の小型バスが出ている。やはりここでも時代の推移を感じさせる。

高倉健 ガン 夏目漱石

2014-11-24 05:50:33 | Weblog
ちょっと三題噺めくが、病床で知った俳優の高倉健の死と、たまたま読んでいた夏目漱石の「明暗」が暫らく、頭から離れなかった。高倉健とは単に銀幕を通じての知り合いだが、生年月日が昭和6年2月16日で全く同じ、しかも血液型まで同じB型である。違うのは”ケンさん”が1m80㎝と偉丈夫で、男の中の男であるのに対して、僕が病身で市井の徒であることぐらいだ。その”ケンさん”が、数年前,前立腺ガンで入院していたことは公表されていなかった。結局、これが引き金になって悪性リンパ腫(ガン)で亡くなった。

病床で夏目漱石の絶筆「明暗」を読んだ。「明暗」は漱石が大正5年、49歳で夭逝した未刊の作品である。「明暗」は主人公の津田(漱石)が病院の手術台の上で、胃潰瘍の手術を受ける場面から始まっている。手術は”28分”で終了、約一寸”(3.3㎝)の腫瘍部分がとりだされている。当時ガンという病名があったかどうか不明だが、胃潰瘍ではなくて、漱石の死因は明らかにガンであった。

漱石は最晩年、「即天去私」という言葉をよく使った。「、広辞苑」によれば”小さな私を去って自然に委ねる”という意味だそうである。一種の悟りの境地である。人生50年の時代とはいえ、今の僕には、まだなかなかこの境地には至らない。高倉健は、死後事務所を通じて”往く道は精進にして終り悔いなし”という辞世をマスメデイアにFAXで送った。時代も違うし、生きてきた道も違う二人だが、色々示唆に富んだ考えさせられる言葉だ。

老人患者から見た超高齢化社会の医療の現実

2014-11-23 06:42:11 | Weblog
今回、再び大腸がんの手術で二週間、国立病院に入院するはめになった。入院は昨年12月のの左膝関節置換手術についで二度目、生まれてから数えると九度目だが、改めて、日本の超高齢化社会の医療の最先端の現実を身をもって体験、今後さらに加速化される、わが国の老人医療制度の問題点について老人患者の立場から病床で考えてみた。

今回、僕は手術前の予備入院3日を含めて病院に15日間入院したが、最初の3日間入院した4人病室のうち二人は「認知症」患者で、一人は自分が、今どこにいるのかさえ、解らないようで、夜通し奥さんの名前を呼び続けていた。もう一人の患者は、どういうわけか身に着けている”おしめ”をとってしまい、そのあとナースコールで看護婦さんを呼び続ける。病室は相い身互い、たいがいの事は我慢するのが常識だが、手術後、こんな環境下で治療に当たられるのは厳しく思われたので、あえて、我がままをいい、手術直後の夜と次の二日間は個室の予備病室に移して貰った。

僕がお世話になった東京の国立医療センターは、「認知症患者」に対する特別な対応”ユマニチュート”療法で知られる病院のためか、看護スタッフの「認知症患者」に対する応対は抜群であった。しかし、僕の目からみれば、「認知症患者」は病人だから仕方がないが、その家族のなかには「認知症」をよい事に患者を甘やかせ、病院に隠れて病室で間食にアイスクリームを与え、看護師から注意されたりしていた。何のための入院なのかわからない。

半月間入院して大治療を受けたにもかかわらず、僕が病院に支払った医療費は、変な例えだが、東南アジア3泊4日のパッケージ観光旅行の費用ととさして変わりがない。実際にかかった費用の1割にすぎない。世界中で、こんなに医療費に恵まれている国は世界でも多分ないだろう。病室で食べる病院食も下手なレストランよりも美味で健康食であり、さらに3キロ減量に成功した。

こんなことを言うと、大方の世論から袋叩きにあいそうだが、現在の世界に冠たる老人医療制度を維持するためには、消費税の10パーセントの国民負担もやむをえないと僕には思えるのだが。

大腸がん腹腔鏡手術を終え、無事退院出来ました

2014-11-22 11:26:37 | Weblog
大腸がんの手術を終え、無事今朝(22日)退院できた。手術後の経過がよく、予定の三週間より一週間早く帰宅できた。直接執刀手術に当たった医療スタッフは、もとより熱心に看護をしてくれた老妻はじめ関係者に心から感謝したい。

大腸がん手術は正式には「腹腔鏡補助下大腸がん手術」といい、最新の医療技術を結集したものだそうだ。素人でよく解らないが、直接腹部を切開するのではなくて、ヘソの周りの数か所に腹腔鏡を入れて患部を削りとるものらしい、手術後老妻が手術医からみせて貰った写真によると、患部の長さは10㌢ほどあったようだ。腹部には4か所、腹腔鏡を挿入した穴が残っている。

腹腔鏡手術について、僕は全く知識がないが、入院中見た新聞で、群馬大学医学部病院で腹腔鏡手術の失敗から数人の方が亡くなっていることを知った。患部の場所や医師の執刀技術によって、このような医療事故が起きるのかもしれない。全身麻酔で、僕は手術中の事は何も覚えていないが、手術は朝9時から午後3時まで5時間にもおよんだそうである。日頃不摂生の生活習慣病によってか、腹の脂肪が、執刀の妨げになったようだ。

がんの進度はステージⅡからⅢの初期という診断であった。退院に当たり、医師からデーターを示され、再発の可能性や死亡率について説明を受けた。80歳半ば近くの年齢であり、抗がん剤の服用については、老妻と相談の上積極的にはのまないことにした。医師の指示に従って、がんが再発しないよう切に望むしかない。

”多病息災” 九回目の入院

2014-11-07 05:29:26 | Weblog
横行結腸ガンで入院することになった。数えてみたら、これで9回目の入院である。80歳余の人生で、10年に1回入院している勘定になる。昨年も11月、人工膝関節置換手術で1か月入院しており、入院は慣れているというものの、老体にはいささかうんざり気味である。長生きするためには仕方がないのかもしれないが。

「一病息災」という言葉がある。健康な人よりも一つぐらい病気があったほうが長生きできる意味だが、僕の場合は一病ではなくて多病である。若かった現役時代、単身赴任の生活がたたって、急性肺炎で入院、以来、気管支拡張、膀胱ガンの4回にわたる摘出、白内障と9回も入院している。それに”持病”として高血圧、高血糖であったが、この方は昨年外科手術のさい、病院側の配慮で、入院中,低カロリー食で体重を10㌔ダウンした結果、今は薬を飲まずにでも正常である。

”多病息災”には大先輩がいる。昨年93歳で亡くなった、アンパンマンの作者、やなせ・たかしさんは67歳の時腎臓結石で入院、以来亡くなるまで、70歳では白内障、心臓病、80歳代では、膵臓がん、緑内障、膀胱がんで入院。膀胱がんに至っては亡くなるまで10回も入院、手術されている。90歳を越えてからも腸閉塞を患っているが、最期まで元気に仕事をされていた。

闘病には気力が必用のようである。107歳の長寿をまっとうされた彫刻家の平節田中さんは、100歳の誕生日の時、アトリエに30年の材料の木材を用意されていたという。とても両大先輩には及ばないが、せめて両先輩にならって、何事もプラス指向に考えていきたいものだ。入院は最大3週間だそうだが、その間、小ブログの更新はお休みにします。