「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

          江戸時代の漫画本 山東京伝の黄表紙

2012-05-31 06:26:01 | Weblog
旧制中学時代の学友、細窪孝君(東京家政学院大学元教授)から近著「山東京伝黄表紙の世界」(アーバンプロ出版センター2010年)の寄贈を受けた。何年振りかで開かれる勤労動員時代のクラス会に出席したいのだが、足腰が弱くしていて参加できないので、皆で読んでくれという趣旨の手紙が添えられていた。

僕はこの道については、全く門外漢で山東京伝の名前は浮世絵師として聞いたことがある程度の知識である。黄表紙が何であるかも知らなかった。黄表紙とは江戸時代中期に流行した草双紙の一つで、当時の江戸っ子気質や風俗を描いた黄色の表紙の洒落本だとwikipedia にある。今でいえば漫画本である。

山東京伝(1761年―1816年)は浮世絵師であると同時に黄表紙本の作家であった。細窪君は学者として山東京伝の著書十冊について解説しているが、それだけではなく、僕のような素人にも解りやすく、黄表紙の中に出てくる人物、事柄、地名などについても面白く紹介している。

例えば山東京伝の処女作「米饅頭始」では、筋は主人公のお米が吉原を舞台に波乱万丈の生活の後、浅草の待乳山聖天脇に饅頭屋を開き繁盛する話だが、著者はそれだけではなく、同時代人の太田南畝の随筆集「玉川砂利」に出てくる「米饅頭」にも触れ、今なお横浜の鶴見にある「米饅頭」の店まで訪ねて行き、京伝の米饅頭との関係にも触れている。さらに「余談」として京伝時代の江戸の菓子店「船橋屋」「志ほせ」「虎屋」についても書いている。

「天慶和句文」では京伝時代にあった日食や月蝕について当時の人々が太陽の”御持病”と表現して観察していたことなどを黄表紙本を通じて紹介、さらに異常気象から起こった天明の飢饉の頃の江戸庶民の生活を紹介している。学校で習った歴史ではなく、吉原遊郭を主に舞台とした庶民史、漫画本だけに知らないことばかりで面白い。

        ”獅子身中の虫”も退治できない野田総理

2012-05-30 05:09:14 | Weblog
野田佳彦総理が今日30日、消費税率引き上げ法案をめぐる小沢一郎元代表との意見の違いについて「乾坤一擲」「一期一会」の気持ちで話しあったが物別れに終わったようだ。「乾坤一擲」とは”自分の運命をかけて、のるかそるかの大勝負の意”(三省堂慣用句ことわざ辞典)。一方「一期一会」は同辞典によれば、”一生に一度の出会い”を意味する。文字通り解釈すれば、会談が決裂すれば、これ以上両者の話し合いはないと思うのだが、どうもそうでもないらしい。

「張三李四」(普通の街の人)の僕には政治家のやっていることは理解できない。会談後野田総理が記者団に語ったところによると小沢氏は消費税の増税そのものには反対ではない。問題は”時間軸の差”にあるという。”時間軸の差”というのは増税をいつから実施すのかその時期なのだろう。野田総理は増税問題は党内で時間をかけて合意をえていると繰り返しいっているが、こんな基本的な事さえ決まっていなかったのか。

野田総理は言葉が軽すぎる。総理たるものが「乾坤一擲」だとか「一期一会」などと軽はずみに言うものではない。民主党にとって小沢氏は”獅子身中の虫”(組織の中にあって災いのもと)のように僕には見えるのだが、党の最高トップの野田総理ガ、この虫を退治できないとなれば鼎の軽重を問われる。

もう国民はこの問題にはうんざりしている。いい加減にしてくというのが本音である。政府与党内で合意ができていない問題を野党は真剣になって議論する気にはなれない。民主党内閣は一刻も早く退陣してもらいたい。日本の危機である。

              白昼横浜大空襲の黒い煙

2012-05-29 05:21:04 | Weblog
67年前の昭和20年5月29日は横浜大空襲があった日だ。朝9時20分から10時31分の1時間8分にわたって米軍のB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機が大挙して横浜市内を無差別に絨毯爆撃した。落とした焼夷弾の数は3月10日の東京大空襲の時よりも多く、この空襲で市内の34%が破壊され、8千人から1万人が犠牲となった。

僕はこの大空襲の模様を30㌔ほど離れた東京の自宅で見ていた。早朝から東京でも空襲警報が発令され、焼け跡整理の動員にも行けず自宅で待機していた。B-29の大群が西南の空に現れると、暫くしてもくもくと黒煙が立ち上がってきた。昨日のように、その黒煙は僕の脳裏に残っている。この黒煙は遠く皇居からも遠望できたようだ。「昭和海軍秘史」(中村菊男著)によると、天皇陛下はこの日皇居に米内光政元首相を呼び、農民が苦労して作った松根油が燃えている。すぐ消火するよう指示したという。

戦争末期、国内の石油燃料は底をつき、政府は国をあげて松根油の生産に励むよう命令を出した。僕も動員先の広場で運ばれてきた松材から松根油を採る作業をした記憶がある。松の木200本あれば、飛行機が1時間は飛べるといわれていた。横浜大空襲の時も厚木飛行場から零戦や雷電などの戦闘機が迎撃にでたが、B-297機を落としただけの成果しか上げられなかった。燃料が不足してなかったのかもしれない。

亡父の当時の日記を見ると、連日の空襲で東京の交通網は寸断され父は歩いて都心部まで出勤していた。僕も10キロ離れた空襲で焼けた動員先の工場の焼跡整理をしていた。亡母は毎日のように食糧の買出しをしていた。将来どうなるのか不安の生活だったが、それでも僕はやがて”神風”が吹いて日本は勝利するものと固く信じていた。

       ”KUEは食え” インドネシアのお菓子造りの講習会

2012-05-28 05:55:12 | Weblog
昨日、日本インドネシア協会文化交流委員会主催のお菓子造り講習会に参加した。と言っても僕は造り方を学ぶのではなくてもっぱら食べるほうであったが。講師の石井マリさんは、スマトラ.メダン生まれの二世で、お父さんは元日本軍軍属で、アチェで終戦を迎えたが、そのまま現地に残留、インドネシア独立戦争に従軍して同国政府からゲリラ勲章を授かっている。

インドネシア語(マレー語)ではお菓子のことをKUEと言う。戦争中南方へ行った日本人は従軍に先立って次のような諺風の言葉で現地の言葉を学んだと言う。”人はOrang(おらん)飯しはNasi(なし)サカナはIkan(いかん)菓子はKue(食え)”なかなか言い当てていて面白い。当時インドネシア(マレーシア)は、日本に比べて人口は希薄だったから”おらん”で、植民地経済でお米の生産量が少なかったたため”なし”。サカナは熱帯で腐りやすいから、食べるのは”いかん”。食べてよいのはkue(食え)だった。

昨日の講習会ではパステル.ゴレンという焼き餃子風のお菓子とビジ.サラックというサツマイモのお団子の入ったお汁粉を習った。男性を交えて日イ両国の女性が日本語、インドネシア語半分半分、手真似を交えて勉強したが、僕は出来たのを食べ、お土産にして貰って帰った。

戦争中、戦地にいた軍人たちはほとんどが兵舎内で、ご飯に味噌汁といった日本の食事をしていたから現地の料理についての知識はないし想い出もない。しかし、お菓子については休みの日、街で食べたのであろう。戦後の戦友誌にはよく登場してくる。マリさんのお父さんと同じアチェから復員してきた木下廸介さん(近衛捜索連隊)は”想い出のインドネシア”の中で「オンデ.オンデ」という南方ではとてもポピューラーなお菓子の歌を楽譜を添えて紹介している。

左党の僕でもいくつかインドネシアのお菓子を知っている。大半は南方華僑の物だが、メダンのビカ.アンボンみたいなオランダからの渡来のものもある。インドネシアは菓子の宝庫である。(写真はパステル.ゴレン)

            働かなくなった日本人と生活保護

2012-05-27 05:29:19 | Weblog
かって日本人はワーカフォリック(仕事中毒)とかエコノミック.アニマルとか世界から批判され、蔑まされていたことがあった。バブル前の時代で、その頃まで日本人は戦後の復興と経済発展に向かって”モーレツ”に働いていた気がする。しかし、これは裏を返すと、この時代はまだまだ、日本人全体が貧しかったのである。

昭和42年(1967年)の内閣政府広報室の「内職に関する世論調査」をたまたまネットでみて驚いた。当時日本の一般家庭で毎日内職をしている家庭が48.5%、半分近くあった。そして、内職をする理由として、生活を賄う(10.1%)不足を補う(38.2%)を挙げている。わが家でも昭和20年代の後半だが、町工場の下請けでミーリングの真似事みたいなことをやっていたのを想い出す。

人気お笑いコンビ「次長課長」の河本準一の母親が生活保護を受けていたことが問題になっている。芸人の社会は一見華やかだが、売り出す前の生活はは苦しい。河本も弁解しているように、申請して受理された当時は貧しかっのだろうが、その後有名になり所得が増えた後も貰い続けていたことは問題だ。どうも生活保護に対する日本人の意識が変わってきたのであろうか。”モーレツ”時代の日本人は,”おカミから”のおカネを受け取ることは恥であり、抵抗もあった。

生活保護受給者の数ここ数年増え続け、ついに200万人を突破したという。生活のセーフテイネットであり、生活弱者にとっては必要な制度である。しかし、受給にからんで暴力団が関係したり、働けるのに働かないで理由をつけてこれで生活している若者もいるみたいだ。「次長課長」の不正事件は良い機会だ。もう一度生活保護制度を見直し、同時にかっての日本人とまではゆかなくとも、もっと働くによって喜びを知る社会に戻すべきである。

          「昭和を彩った懐かしの品々」といっても!

2012-05-26 06:19:39 | Weblog
大手スーパーのダイエーの折込広告を見たら「昭和を彩る懐かしの品々」の企画をやっていた。サントリーウイスキーの”ダルマ”や“あたり前田のクラッカー”はCMソングで僕も知っているが、昭和一けたの僕ら世代にとっては、あまり懐かしさを感じないし”彩る“ものとは思えない。平成も24年、四分の一世紀たち、昭和の後期に生まれた人でも「昭和」にノスタルジアを感じるようなってきたのであろう。

昭和と言っても戦前戦中と戦後では懐かしの度合いが違う。今や少数派になった一けた世代は戦争を挟んで約10年間、物がなく物に飢えていた時代を体験している。昭和を彩るものはあまりない。スイトンと雑炊とサツマイモの想い出ばかりだ。でも、戦争が激化するまでの子供時代にわずかの期間だが”懐かしい”ものはある。”新高ドロップ”や”一粒300m”の景品付きのグリコ、古谷のウインターキャラメルなど。それに駄菓子屋で売っていた鉄砲玉(あめ)や砂糖でつくった金華糖や金平糖なども懐かしい。

戦後のある時期子供時代を過ごした世代にとっては読売巨人軍の選手のカードを売り物にしていた紅梅キャラメルやペコちゃん人形で売り出した不二家のミルキーや粉ジュースなどが懐かしいに違いない。最近、コッペパンがブームと聞くが学校給食で育った世代にとっては懐かしいのだろう。鯨のベーコンが好きな世代だが、今はあっても高くて手にはいらない。

一けた世代にとっては、サントリーの”ダルマ”よりは”角”、”角”よりは”トリス”のほうが懐かしい。最近、復活してきたようだが”tトリスハイボール”もブドウ割、梅割焼酎と共に懐かしい品々であるが、あまり昭和を彩るものではない。

             国は医療費財源を確保せよ

2012-05-25 05:38:10 | Weblog
東京都後期医療広域連合から平成23年7月―12月までの期間、僕が医療機関に支払った医療費の明細が送られてきた。計算してみると半年間で医療が80,420円、調剤が71,320円、合計で151,700円である。僕の場合は4週間に1回、高血圧と高血糖治療のため通院して薬を貰い、また膀胱がん再発チェックの3か月に1度の内視鏡検査が主な支払である。後期高齢者一人当たりにかかる医療費の平均がどのぐらいなのか知らないが、おそらく大変な額であろう。

厚労省の審議会部会で子宮頚がんなど7種類のワクチンの定期接種が決まった。世界の先進国の中でわが国の予防接種は遅れているとのこと。その意味では歓迎すべきだが、肝心の財源が国にはなくて、地方自治体の負担になりそうだという。地方自治体の医療費は今でも場所によってバラツキがあり、不公平感がる。私事だが、僕は東京都の広域連合に対して、医療機関に支払った額とほぼ同じ後期高齢者医療保険料を支払っている。

民主党政権が選挙で約束した後期高齢者医療制度に代る案が、すでに2年近くなるというに国会にも出てこない。代案は出来ているのだが、これを実施する地方自治体の反対にあって決まらないだという。詳しいことは知らないが、70歳から74歳までの高齢者の窓口負担を2割に引き上げるのがネックになっていると聞く。僕の場合は3割負担である。保険の精神から見てお互いに助け合うのは当たり前である。国民全体が公平な医療を受けるためには、国はまず地方自治体に頼らず、それに見合う財源を確保すべきである。

          「アルカイーダ」と半世紀前のイエメン

2012-05-24 06:19:47 | Weblog
イエメンの首都サヌアで「アラビア半島のアルカイーダ」(AQAP)の犯行とみられる自爆テロで96人の兵士が殺された。現地からの報道によると、イエメンでは昨年来の政情不安に乗じてAQAPの勢力が伸長し、南部のいくつかの都市はAQAPに占領され、その勢力下にあるという。

2001年の米国での同時多発テロの指導者オサマ.ビン.ラデインの先祖はアラビア半島南部のイエメン.ハドラマウト地方の出身で第一次大戦後サウジアラビアに移住してきた一家である。半世紀前の1962年11月,僕はイエメン王政革命後の取材のためイエメンと当時英国の保護領だった隣接の「南アラビア連邦」のアデンといくつかの首長国を訪れた。ハドラマウトはその首長国の一つである。

当時は米ソの冷戦下だったが、アラビア湾に面するアデンはソ連(ロシア)の影響力が強くサウジアラビアの支持を受けたイエメンとの間で勢力争いが続き政情は今と同じように不安であった。僕はアデンを根拠にしてラヘジやハドラマウト首長国にも出かけたが、記憶にあるのは貧しい昔ながらのアラビアの王様の国であった。ラクダが脱穀の臼の周りをゆっくりとまわっていたのが印象的だった。

石油が出ないイエメンは世界の最貧国の一つである。半世紀前イエメンの人たちはまだ独特の民族衣装をつけ腰に短刀をさし、口をもぐもぐさせてカートという麻薬の草を噛んでいた。今でもこの風景が見られるのかどうか。テレビの画面で見ると町は現代化されてきているが、政情は50年前とかわらない。その原因はカートにあるという説もある。(写真はイエメンの砂漠でエンコした車)



        ”ごまかしウソ詭弁”の野田内閣視界不良

2012-05-23 05:59:42 | Weblog
昨日、一昨日と「社会保障.税一体改革法案」に関する衆院特別委の審議の模様をテレビ中継で見た。野田総理が政治生命をかけて不退転で臨んでいるそうだが、テレビでみている限り、僕にはその真剣さが伝わってこないし、多分実現出来そうもない。理由は何なのか。昨日の質問に立った自民党の町村信孝氏(元外相)がいみじくも言っていたが、民主党は”ごまかしウソ詭弁”の政党で、政策に信頼がおけないからだ。

”ごまかしウソ詭弁”の政党では、野田総理がどんなに美辞麗句を並べ雄弁でも信用するわけにはいかない。政治生命をかけたといっても肝心の与党内の足並みが揃っていない。小沢一郎元代表一派が反対だという。輿石東幹事長が中に入って調停しているが、この期におよんで、こんな話し合いを持つことのほうがおかしい。

テレビ中継を見ていると、野田総理をはじめ閣僚の野党への答弁の中に必要以上な気配りが感じられる。そして、それが時には野党への“秋波”とさえ感じられいやらしい。とくに安住淳財務相がそうである。普段から安住氏は、相手議員を”先生”呼ばわりしているが、今回の特別委ではそれが目立ち、発言の中にもお世辞まがいの媚びとしか思えない発言もあった。それにしても、大臣席での安住氏の足を組んだり、はずしたりするあの落ち着きのなさは、なんとかならないのだろうか。

昨日たまたま話題の東京スカイツリーがオープンした。初日から20万人を超す来場者があったそうだが、東京は生憎の天候で天望回廊からの展望は視界不良であった。美辞麗句で固められた野田内閣の「社会保障.税一体改革」案も視界不良である。

          復員兵の帰国 「梅ちゃん先生」の時代

2012-05-22 06:58:44 | Weblog
老妻におつきあいして毎朝NHKの朝の連続ドラマ「梅ちゃん先生」を見ている。加齢のせいだろう。最近はテレビドラマは全く見ないのだが、この「梅ちゃん先生」はドラマのヒロインが昭和4年2月生まれという設定、僕とほぼ同じ世代なので、ドラマの筋よりも彼女が生きてきた時代が懐かしく想い出され見ているのだがー。

昨日の画面には昭和22年10月というテロップが出ていた。焼跡が残る少女時代の梅ちゃんが住む街にリュックを背にした復員兵が帰ってきた。何年ぶりかの帰国だが、一面焼け野原で自分の家が判らない近所の人である。梅ちゃんの知らせで、バラックの家から奥さんと子供が駆けつけてきて、復員してきた夫と涙の抱擁である。この時代、日本の津々浦々で見られた光景である。

僕の大学時代の学友も昭和22年2月、ジャカルタから宇品港に復員してきている。大正9年生まれの彼は昭和16年、故郷の大分県の歩兵連隊に現役で徴兵され、戦争勃発とともにフィリッピンのリンガエン上陸作戦に従軍、さらにインドネシアのスラバヤ上陸作戦にも参加した。戦争中の大半は東チモールに駐屯していたが、軍の移動で敗戦時にはジャカルタにいた。しかし、すぐには帰国できず1年半も連合軍JSP(降伏日本軍人)として捕虜以下の扱いで使役させられた。何と6年間も兵役に服していたわけだ。

学友は帰国後、戦後の学制改革で新制高校の3年に編入、それから大学に入学してきたため9歳も違うのに僕の学友である。最近彼がまとめた「南十字星輝く空の下での戦争体験」の後記には「皆さんは世界一幸せだ。戦地に行くことはない。愛する人が、父が兄が弟が戦争に行く心配はない」と書かれている。青春時代の6年間を戦争のために、あたら犠牲にさせられた世代の実感である。