「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

      在外公館の危機管理は?タイ、インド

2008-11-30 07:09:01 | Weblog
タイの反政府市民団体がタクシン元首相派の政権打倒を目指してバンコク空港で座り込
み、その影響で日本人1万人が立ち往生したという。バンコク空港といえば東南アジアで
もビジネス客や観光客が多いので知られれている。テレビで疲労しきった乗客が成田空
港に到着する姿を見た。幸い、大きな事故にはならなかったが、現地バンコクの在外公館
は事前にこの情報をつかめなかったのか?

インドのムンバイは世界でも危険な都市として僕でも知っていた。3年前スマトラ津波のさい
40歳代の息子がムンバイの会社の同僚宅の実家へ遊びに行った。津波は地理的に影響
がないのは判っていたが、親としては心配だ。その息子が帰国して言うには、ムンバイでは
友人のインド人の父親が息子の安全を心配して、息子のホテルにまで同宿してくれた、と苦
笑していた。

外務省では、世界各国の危険な地域の情報をNHKのBS放送で流している。定期なのか不
定期なのかしらない。チャンネルを回しているうちに出会い、僕も時々これを見ることがある。
いまは、どこへ行っても日本人がいるといわれるほど”国際化”が進んでいる。果たしてムンバ
イやバンコクの情報が事前にテレビで放送されたのかどうかは知らない。

加齢と共に僕ら高齢者は、身体的に海外へ行く機会が少なくなってきたが、体験でものを
いえば、かりに現地の言葉ができても危険な地域には行かないことだ。一方、外務省でも
BS放送だけに頼らず、危険地域の情報を国民に徹底してもらいたい。


          ”アジアは一つ”を体験

2008-11-29 05:58:14 | Weblog
ドバイ一週間の旅で僕は改めて”アジアは一つ”を体験した。一夜、僕はあるインド人
夫妻のパーティに招かれた。南インドからギター一つでドバイに来て、巨額の富を築い
とという立志伝の富豪だ。パーティにはインド人だけでなく、僕ら日本人、レバノン人、
マレーシア人などの多国籍が出席、酒が入って各国の歌がとび出し、旅愁を忘れた。

同席のレバノン人は最近、ドバイに出来た最大のショッピング・モールに宝石店を出し
たという金持ちのようだ。店の名前を聞くと「イスタナ」だという。「イスタナ」(Istana)は
インドネシア語でお城とか宮殿という意味。大統領宮殿も"Isutana Merdeca"(独立宮
殿)という。なぜ店名が「イスタナ」なのか尋ねると「イスタナ」はトルコの「イスタンブー
ル」と同じ語源なのだ。多分アラビア語なのだろう。

滞在中雇った車の運転手は、今度のテロがあったムンバイからの出稼ぎ労働者だ。宗
教はヒンズーだそうだ。ヒンズーと日本の密教とは類似性が強い。密教の影響を受けて
いる日光の東照宮にある”見ざる、聞かざる、言わざる”の三猿は、もともとヒンズーのも
のだ。話をしたら当然彼も知っていた。

昨日、僕は老妻と恒例の品川の"荒神さま”をお参りした。昔の東海道筋にある”火”と”水”
の神さまで、江戸時代から庶民の信仰を集めている。この”荒神さま”を元を質せば”庚申”
信仰からきていてヒンズーとは”親戚”である。ここの名物は"竈”(かまど)のおこし(写真)。
数年前、ヒンズーのバリ島へ行ったら同じものがあった。


        ドバイから(7) 世界一世界一!

2008-11-28 08:37:57 | Weblog
ドバイ滞在最終日、僕らはつい最近オープンした世界一というショッピング・モールに
案内してもらった。あの日本でもよく知られているドバイ・タワーの近くにある。とにかく
広い。180平方㌔という「ドバイランド」という、東京ディズニーランドの約100倍の地の
一角にできたもので、僕らは世界一の水族館棟だけ見たにすぎないが、案内人がな
ければ迷子になりそうだ。

ドバイ・タワーは総工費80億㌦をかけて建設中で来年完成する。建物自体は705㍍。
その上の尖塔部門をいれると800㍍を越し建造物では世界一となるそうだ。すでに
建物部門は、ほぼ完成していて、市の中心部からその威容が望見できる。

僕らが日本に帰る夜、ドバイ市内は世界一のホテル「アトランテイス」の完成を祝って
盛大な花火大会で湧いていた。パームという椰子の木を模した人工島の根先の所に
出来たホテルで1400の部屋数を誇っている。僕らも車で見学に行き、アラビア海に面
する側から写真を撮った。なにか国籍不明の城門のようだ。46年前、僕らがこの国を
訪れた時には二階建ての部屋数12の小さなホテルが一つあっただけだったのに、今
ドバイには五つ星のホテルが51もある。

ドバイのGDP(2007年)の成長率は16・5%と高いが、そのうち石油部門の占める比率
は6%だから必ずしも石油に依存しているわけではない。建国以来観光に力を入れて
いる。必ずしも歴史遺産に富んでいるわけではないが、なんとなく魅力のある国だ。
日本でも若い女性を中心に静かなブームを呼んでいるそうだが、一生に一度ぐらい
”アラブの王様”の気分を味あうのもまんざらではない。(終)



       ドバイから(6) マジェリス(王室会議)

2008-11-27 06:12:53 | Weblog
僕らを招待してくれたシェイク・アハマッド(アハマッド殿下)は、ドバイでは国父
と尊敬されている故ラシッド首長の異母弟である。今、国内ではエミレーツ航空
などのグループの会長をしている実業界の雄である。世界を股に活躍している
多忙な人だが、僕らの帰国の前日、やっと時間をさいて会ってくれた。それも40
分もの長い時間だった。

ドバイ空港事務所の一角にある、それほど立派ではない会長室の横の待合室で
会見を待ちながら、僕は46年前、今市庁舎になっている元王宮のマジェリスのこ
ことを想い出した。マジェリスとは、かって回教圏のサルタン国にあった特別の会
議制度で、それから派生して東南アジアの回教国でも、マジェリスはそのまま一
般的に会議という意味にも使われている。

46年前のラシッド首長主宰のマジェリスは「アラビアンナイト」の世界のように僕の
目には映った。首長は、市民から直接悩み事,もめ事、相談事などを聞き取り、そ
れに対して解決策を与えるのだと、当時マジェリスを案内してくれた英国人から聞
いた。王宮で順番を待つ市民たちの手には鷹がとまっていた時代であった。その鷹
匠の姿は今回の旅では一人も見なかった。

僕らが46年前、ドバイを訪れた時アハマッド会長はまだ5歳の少年だった。だから
今はなくなったマジェリスのことは知るべき由もない。しかし、マジェリスの精神は
今のドバイにも生きているのかもしれない。僕はドバイの近代化の基礎を一代で築
いたラシッド前首長と、これを引き継ぎ推進しているアハマッド会長の同じ微笑の
中にこれを見た。(写真は旧王宮前の砦跡=現博物館)(続)


         ドバイから(5) 砂漠の水

2008-11-26 07:07:06 | Weblog
わずか半世紀近くなのに激変したドバイでは、昔僕らが泊まったホテルがどこなのか
特定できなかったが、やっとKカメラマンが撮った写真の給水塔からそれが判った。給
水塔は、王宮(現在は市庁舎)の近くにあり、変電所の建物に変わっていた。46年前、
ドバイの住民は、この給水塔から、さらに引かれた配水所へロバなどにに乗って水を
買いに来ていた。当時の取材ノートによると、石油缶一杯が9円とある。

昔、僕らはホテル以外で食事をした記憶がない。レストランなど一軒もなかった。今回
の旅で、僕らはクリークの上の船上レストランで初めて現地料理を味あった。観光客用
なので、果たしてこれが日常住民が食べているものなのかどうかは判らない。在ドバイ
30年の日本人の話では、香辛料は使っているが、東南アジアのように辛くはない。ハム
-ルという白身の魚が名物だった。

レストランでは日本のように水は出なかった。僕らの泊まっている高級ホテルでも注文
しないとサービスはなかった。やはり砂漠なので、水は貴重品なのかと思ったら、ペット
ボトル(500ml)に入った飲料水を売る自動販売機が町の各所にあった。1ディラム(30円)
のコインを入れると簡単に求められた。

ドバイ市史によると、海水を淡水化するプロジェクトは1979年から本格化している。46年
前のドバイでは、緑はあまりなかった記憶だが、今はクリーク沿いのゴルフ場の芝は青
青としている。飲料水も技術の進歩で砂漠のオアシスの水が大量に汲み取られ、これが
”砂漠の水”として珍重化され、日本にも輸出されているという。


      ドバイから(4)成長路線は軌道上

2008-11-25 05:52:32 | Weblog
ドバイの奇跡的な発展のカギは、前首長の故ラシッド氏が打ち出した自由貿易構想
だと指摘する識者が多い。滞在4日目、僕らは市の中心部から20㌔ほど離れたジュ
ベルアリ自由貿易特区を見学した。150hという広大な敷地に世界の大企業650社が
張り付いている。米国の雑誌「フォーチュン」が選ぶ世界の優良企業、500社のうち
150社、ここに工場や倉庫を持っている。日本からも150社が進出してきている。

ドバイの建設ラッシュは聞いていた以上だ。世界の建設機械の四分の一が今、ドバイ
に集中している、というのもあながち誇張ではない。すでに高層ビルが林立しているの
に、さらに高さを競うように新しいビルが建つ。来年には高さ800㍍、世界一のドバイ
タワーが完成する。一方、来年には交通渋滞解決のため、日本の技術陣によって、新
交通システム「メトロ」が一部開業する。その最後の仕上げが急ピッチである。

この工事の担い手になっているのが外国人労働者である。「メトロ」工事の日本人関係
者の話では、41か国、1万4千人が動員されているそうだ。僕らの泊まっているホテル
もそうだ。ドバイ人口260万人のうち8割が外国人だそうだ。この国は外国人なしでは考
えられない。

その昔、砂漠の上をゴム草履で取材した僕らの目には、果たしてこんなにビルが建っ
て大丈夫なのかと余計な心配をする。しかし、現地の新聞は”成長路線は依然軌道
上”と豪語していた。世界的に不況だというのに、見た目には不況はみられない。

          ドバイから(3)真珠と石油

2008-11-24 05:54:13 | Weblog
ドバイ滞在3日目、僕らは謝意をかねて政府観光商務局にカリッド局長を表敬
訪問した。ここで一つの”奇跡”が起きた。46年前、Kカメラマンが撮ったアルバ
ムを見せたところ、カリッド氏が”これは亡くなった父です”と一枚の写真を指
さした。聞いてみると、カリッド氏の父親は当時税関長の要職にあり、故ラッシ
ド首長の王宮のマジェリス(会議)にはいつも出席していた。写真は僕らがマジ
ェリスを取材したときのものだった。

政府観光商務局はドバイ国立銀行ビルの24階にあった。窓越しにドバイの象徴
であるクリーク(入り江)が俯瞰される。昔は砂漠で何もなかったところだ。このあ
たりが発展したのは昭和38年にドバイと対岸が初めて橋で結ばれてからだ。僕ら
の訪問時、ドバイの話題は税関の局舎の拡張工事と、この橋の建設だったことを
想い出した。北九州市の若松と戸畑が若戸大橋で結ばれた頃の話だ。

国立銀行の好意で僕らは局舎内にある”真珠博物館”を見学したあと屋上から発
展するドバイの姿を写真に撮った。1930年代までドバイの産業は真珠採りだけだ
ったが、日本の養殖真珠に押されて衰退した。今では真珠採りは行われていない。

ドバイの急速の発展は1966年、ドバイ沖合90㌔の2300mの海底で石油が発見され
て以来だ。僕らは屋上からドバイ市内を見下ろしたが、高層ビルの林立で、やっと
かすかに空港がみえたが、この世界に誇るハブ空港も手狭になり、今六つの滑走
路を持つ新空港を建設中だという。(続)



     ドバイから(2)) 郷愁のクリークと市場

2008-11-23 05:18:48 | Weblog
在ドバイ30年のAM夫妻の案内で、僕らは46年前始めてUAE(アラブ首長
国連邦)の地を踏んだドバイに隣接するシャージャの飛行場跡地を訪れた。
ドバイ発展の効果もあって、この国も活気に満ちていた。4車線の広い道路
の両側には高層ビルが立ち並び、まだ建設中のビルの上には建設機械が
音を立てていた。

シャージャ飛行場は"跡地”になっていたが、幸い昔の管制塔や乗客室が博
物館として保存されていた。かっての砂漠の滑走路は道路に変わってしまっ
たが、博物館で昔のよすがを知り、僕らのセンチメントを慰めてくれた。昔は
砂漠の道なき道だったが、今は完全舗装になった道路を約1時間で僕らはドバ
イに戻った。

ドバイの町はクリーク(入江)から発展した街だ。46年前、僕らはドバイとデリラ
を結ぶ船着場近くのドバイのエアポート.ホテル(部屋数12)の2号室に宿泊し
たが、もちろん、このホテルは高層のもに変わっていた。しかし,想い出の船着
場は昔のままで、昔同様、アブラという名の渡し舟がひっきりなしに走っていた
が、乗客は住民ではなく観光客である。アブラも手漕ぎではなく、動力船になっ
ていた。ただ料金は1DH(約30 円)で、昔僕のメモにある15円と変わっていた。

クリークの両側にあったスーク(市場)は場所は同じ所だが、屋根がついて近代
化されていた。地べたに座ってサカナを売っていた、黒づくめで顔までベールを
していた地元の女たちの姿は消え、かわって外国からきた男たちは売っていた。
サカナ市場には、サカナをさばく店までできていた。ちなみにさばき料は小魚で
1DH(30円)であった。(続)







       ドバイから(1) 飛行場とハブ空港

2008-11-22 08:47:51 | Weblog
昨夜帰国しました。現地からこのブログを書こうと思っていましたが、ダメで
した。ホテルには日本語変換のPCもあったのですが、連日の"取材”が忙し
くて帰国後になってしまいました。しかし、感想は現地でのものです。

46年ぶりのドバイはまったく"今浦島”、別天地だった。関西空港からドバイ
空港まで約12時間、ドバイ首長一族(エミレーツ航空会長)の招待ということ
もあって、僕らは生まれて初めてエアバスのファーストクラスの座席に収まった。
今後もこういう体験はまずあるまい。完全に隔離された畳一畳半ぐらいの個
室で、足を伸ばしてゆったりと寝られる。このコンパートメントメント形式の座席
はエミレーツ航空だけだという。

昭和37年11月、僕らは小さなコメット(座席数89人)に乗って中東各地を回った後
ドーハからプロペラ機で砂漠の滑走路のシャルジャ(ドバイの隣接首長国)に降り
立った。それから半世紀近くたったドバイ空港は世界でも有数のハブ空港に変容
していた。僕らはVIPなみにゴルフ場のカートみたいな車に乗せてもらい、広い空港内
を走り、やっと外へ出あた。とても案内人なしでは迷子になりそうな広さだ。

空港の外にはキャディラックの迎えの車が待っていて、マリーナ地区のホテルまで
約20分、高速道路を走った。道の両側は高層のビルが林立、まだ建設中のものも
沢山みられた。46年まえ、僕らは四輪駆動の車で道なき道を走ったものだった。

この時期あまりセレブのことを書くのははばかりたいたいが、僕らのホテルはアラビ
ア海を見下ろす29階の豪華の部屋で、僕が歩幅ではかったら300㎡はあった。二つ
の寝室のほか部屋数が三つもあるスイートルームである。46年前、この国には部屋
数が12しかないホテルが一つしかなかった。僕らはその2号室に宿泊したのを思い
出した。(続)


       後期高齢者のセンチメンタル旅行

2008-11-13 06:08:14 | Weblog
46年前、羽田空港で撮った写真が残っている。僕が新聞社の移動特派員としてカ
イロへ出発した時のものだ。空港ロビーで撮った写真には、幼稚園児だった長女と
ヨチヨチ歩きの長男と共に亡き両親の姿もある。今夕、僕は同じ羽田空港から老妻
一人の見送りを受けて関西空港経由で中東のドバイへ向かう。

半世紀近くの時の流れだ。あの当時は外国旅行はまだ珍しいこともあったが、空港
まで家族はむろん、勤め先の上司、同僚それに旧友までかけつけ見送ってくれた。
そのころは、国内の転勤時になると、東京駅などのプラットフォームでは"万歳万歳”
の声が聞かれ、転勤者を見送った。まだ新幹線のない時代だ。

昭和37年11月、僕らの乗ったUAR(アラブ連合)=当時エジプトとシリアが合邦してい
た=の新型ジェット機、コメット(座席数98)は南まわりでカイロまで20時間以上は、
かかった。羽田から香港、バンコク、ボンベイ(ムンバイ)アスマラ(当時エチオピア)、
バーレ-ンと各地で給油しての長旅だった。今夕関西空港から乗るエミレーツ航空の
エアーバス(座席数489)はドバイまで直行で12時間で行ける。

46年ぶりのドバイ再訪、万感の思いをこめての後期高齢者のセンチメンタル旅行だ。
同行のKカメラマンと二人合わせての合計年齢は155歳である。改めて僕らは長寿と
二人を招待してくれたドバイ首長一族のホスピタリティに感謝する。