「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

              白昼横浜大空襲の黒い煙

2012-05-29 05:21:04 | Weblog
67年前の昭和20年5月29日は横浜大空襲があった日だ。朝9時20分から10時31分の1時間8分にわたって米軍のB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機が大挙して横浜市内を無差別に絨毯爆撃した。落とした焼夷弾の数は3月10日の東京大空襲の時よりも多く、この空襲で市内の34%が破壊され、8千人から1万人が犠牲となった。

僕はこの大空襲の模様を30㌔ほど離れた東京の自宅で見ていた。早朝から東京でも空襲警報が発令され、焼け跡整理の動員にも行けず自宅で待機していた。B-29の大群が西南の空に現れると、暫くしてもくもくと黒煙が立ち上がってきた。昨日のように、その黒煙は僕の脳裏に残っている。この黒煙は遠く皇居からも遠望できたようだ。「昭和海軍秘史」(中村菊男著)によると、天皇陛下はこの日皇居に米内光政元首相を呼び、農民が苦労して作った松根油が燃えている。すぐ消火するよう指示したという。

戦争末期、国内の石油燃料は底をつき、政府は国をあげて松根油の生産に励むよう命令を出した。僕も動員先の広場で運ばれてきた松材から松根油を採る作業をした記憶がある。松の木200本あれば、飛行機が1時間は飛べるといわれていた。横浜大空襲の時も厚木飛行場から零戦や雷電などの戦闘機が迎撃にでたが、B-297機を落としただけの成果しか上げられなかった。燃料が不足してなかったのかもしれない。

亡父の当時の日記を見ると、連日の空襲で東京の交通網は寸断され父は歩いて都心部まで出勤していた。僕も10キロ離れた空襲で焼けた動員先の工場の焼跡整理をしていた。亡母は毎日のように食糧の買出しをしていた。将来どうなるのか不安の生活だったが、それでも僕はやがて”神風”が吹いて日本は勝利するものと固く信じていた。