「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

           生徒のふりみて先生も!

2008-10-31 05:34:16 | Weblog
昔の中学(旧制)の仲間が集まると,東大に見事現役入学したH君の事が話題になる。
H君は低学年の時はいわゆる"不良"で、服装はみだれ成績も下から何番目だった。そ
のH君が誰もが思いも及ばなかった東大に入学したのだ。多分、人知れず蔭で努力して
いたのであろう。

いつの時代でもそうである。少年少女の一時期、一種の”めだとう”精神からか他人と
自分を区別させたい気持ちがある。H君も戦時下、学帽はみな戦闘帽、制服は国防色
の時代だったが、わざと足にまいたゲートルをだらりと巻いたりしていた。

神奈川県平塚の高校で入試のさい服装や髪型の乱れを理由に、合格圏にあった受験
生22人が不合格になっていたという。当時の校長の話では、こういった生徒を入学させ
ると、入学後の先生の生徒指導が大変である。その負担を軽減させるための措置だっ
たのだという。僕には、これは教育の意味からいえば本末転倒だ。このような生徒を正し
徳育するのが教育であり、先生の誇りだと思うのだが。

もともとはTPOをわきまえず、子供を変な格好で試験場に送る家庭が悪い。しかし、それ
を試験の合否の基準にするのはおかしい。”他人のふりみてわが身を正せ”という諺があ
るが、最近の先生方の服装はどうだろうか。全部の先生がおかしくなっているとはいわな
いが、昔にくらべてだらしがない。一般社会では夏場の”クールビズ”以外、事務職でのノ
ータイの職場はすくない。まして教師は子供を教える立場にある。規則にはなくても教壇に
たつ時ぐらいネクタイをつけてもらいたい。




          ”超”後期高齢者の元気の源

2008-10-30 05:28:19 | Weblog
関西のある大学の学長をされた大先輩から新しく出版された「コイン随想」という本を
頂戴した。先生は今年90歳、卒寿の”超”後期高齢者である。この世代は先の戦争
の従軍経験者が多く、時には僕ら昭和一桁世代より元気だ。

「コイン」は先生の専門ではない。趣味の分野だ。本業の研究のかたわら、数十年に
わたって蒐集してきた、今言葉でいえば"オタク”のコレクションである。出版された本
は、この"オタク”についての随想である。「コイン」にはまったく門外漢の僕だが、読ん
でみるとなかなか面白い。

例えば、ヨーロッパのサンマリノ共和国が昨年、天正遣欧少年使節を記念して発行し
た2枚1組の記念金貨である。5スクード金貨には神武天皇の肖像が描かれ、2スクー
ド金貨には神武天皇を祀る橿原神宮の外観が描かれている。今の日本人の中には、
橿原神宮はおろか神武天皇の名前すらしらないというのにである。多分、特定の蒐集
家に売りだされたものだろうが、誰がデザインを発想したのか興味ぶかい。

馬齢を重ねると、若い時に比べて気力体力それに財力がうせてくる。一つの道に集中
できなくなってくる。それなのに戦争生き残りの長寿の方は、なにか一つにこっている。
インドネシア協会の参与のI氏(88)もそうだ。インドネシア関係のどんな会合にも顔を
だし、写真を撮りまくる。そして、その写真を現像焼付けして相手にプレゼントする。これ
がI氏の生きがいなのだ。長寿の秘訣は頑固なまでに一つのことにこることかもしれない。
僕も頑固にブログを書き続け、これにあやかりたいものだ。



       裸電球の下 ” 灯火に親しん”だ時代

2008-10-29 05:21:45 | Weblog
”灯火親しむの候”-かっては手紙の書き出しの常套句であった。が、IT器機の
普及で、今では僕ら後期高齢者でもめったに手紙を出したり,貰ったりしない。死
語に近い言葉になってしまった。読書週間である。敗戦直後が青春時代であった
僕らには、裸電球の下で読書した”あの頃”が愛おしく、また悲しい。焼け跡ばかり
の時代だ。やたらに停電が多かった。亡父の昭和20年10月の日記には”停電の
ため何もできず”という記載が多く、夜7時過ぎには就寝している。僕も電車の中で
試験勉強をした記憶がある。

”灯火”というと、僕らには”蛍光灯”より”電球”が懐かしい。調べてみると、蛍光
灯が日本で初めて発売されたのは昭和28年との事だ。だから多分、30年代になっ
てから一般家庭に普及したものだろう。37年、僕は初めて外国旅行をし、ロンドンの
ヒースロー空港に着いたときの、オレンジ色の蛍光灯の色が今でも忘れられない。

ネットの普及で、誰もが自分の文章を発信できるようになった。が、これに逆比例した
かのように近年本が売れなくなってきた。あの裸電球の下、虫の声を聞き、羽虫を追
いながらの風景は消えた。好いのか悪いのか。せめて読書週間ぐらいは、青春に帰り、
昔、読み残した「世界文学全集」や明治大正時代の文豪の長編に挑戦したいという気
持ちはあるのだが。やはり、読書は若い時のものだ。人間形成の一生の財産になる
と思う。

(昨日のブログで推測で、伊藤ハムの東京工場敷地周辺には、戦争中軍需工場があ
ったのでは、と書いたが、やはり「毒ガス」室みたいな施設があった、という報道もある)

         ハム工場になぜシアン化合物?

2008-10-28 05:17:07 | Weblog
伊藤ハム東京工場=千葉県柏市=の敷地内の地下水からシアン化合物が検出され、
同工場の製品26品目、225万パックが自主回収された。伊藤ハムによれば、検出値
は微量で健康には影響がないという。当然である。人体に影響があったら、それこそ
大変なことである。

僕がこのニュースを聞いて、まず解らないのは、同工場は平成12年にISOの認証を受
けている。ISOは省エネルギーだけでなく環境保全にすぐれている事業体に与えられて
いる。認証時にはシアン化合物は検出されなかったのだろうか。もう一つの疑問は工場
付近には、シアンを取扱う工場などないという。なのに地上界にはないシアンが検出さ
れたという点である。

まさかハムの製造過程でシアンを使用していたとは思えない。昔、この工場があった場
所はなんだったのか。僕は戦争末期、柏に隣接する江戸川運河の浚渫工事に勤労動員
されていたが、柏市周辺には飛行場や高射砲陣地が沢山あった。秘密の軍事施設など
なかったのか。

先日、成田の三里塚記念公園内で大規模な防空壕跡が発見された。昔、皇室の御料牧
場があった場所だから、多分、皇室用のものと思われるが、宮内庁には資料がないという。
スマトラの旧25軍司令部防空壕跡がインドネシア政府によって日本軍による虐殺現場に
されかかったことがあった。戦争を体験した僕らの世代がいるうちに戦争の”遺物”は、きち
んと検証しておくべきだと思う。


       ”ハレンチ”報道はいい加減にしろ!

2008-10-27 05:11:21 | Weblog
昨日の新聞を見て、がっくり、がっかりした。社会面の片隅だが▽海自二曹が下半
身露出▽小五女児を触り逮捕▽病院職員が実習生を盗撮ーと三つも"ハレンチ”な
ニュースが載っている。日本の男は、いつから、こんなに"セックス・アニマル”にな
り下がったのか。こんなニュースを何本も掲載する新聞も新聞だ。

NHKの「事件記者」(1958年ー62年)というドラマが人気を呼んでいた時代より、すこし
前、僕は”駆け出し”記者として上野、浅草方面の警察を担当していた。その当時の
自分の書いたスクラップ・ブック残っていたので改めて読んでみた。ほとんどが警察
発表物の窃盗団の逮捕とか火事、交通事故だが、こんな記事もあった。

▽隣家の傘泥棒を捕う、中学生に総監賞ー荒川区に住む公務員の長男の中学一年
生が隣家に忍び込み、傘一本を盗んだコソ泥を捕まえた。この行為に警察が警視総
監賞を上申したーというものだ。スクラップ帳には、このほか当時"美談もの”といって
いた記事がめだつ。▽蔵前署に若い女性が小鳥を寄贈ー留置所にいる容疑者(当時
はそう呼ばなかったが)を更正させようと、女性が小鳥を寄贈、これを篭にいれてその
泣き声を留置人に聞かせているーという記事だ。

僕は痴漢が逮捕されたという記事を書いたことがない。まだ売春禁止法が施行される
前で,月に何回かは上野の山にたむろしていた”夜の女”の"刈り込み”があったが、記
事にはならなかった時代だ。半世紀前とは時代が違うが、"痴漢”の逮捕など世のバカ
者に対して警告にはなるかもしれないが、あまり意味がないし、みっともない。

           お産婆さんの活用は?

2008-10-26 05:04:09 | Weblog
東京で体調がおかしくなった妊婦が8病院で診察を拒否され、最終的に搬送された
「総合自産期母子医療センター」で脳内出血の手術を受けてなくなった。この長った
らしい名前の施設は、出産による母子の生命の危険を救う”最後の砦”ともいうべき
ものだという。悲劇である。悲劇の最大の原因は産科医の不足からきている。死亡
した妊婦が最後に搬送された病院の産科医の定員は8人なのに、この日(土曜日)
の当直医は1人だったという。

わが家の3人の子供は、近所のお産婆さんの手で取り上げられている。もちろん母子
ともに健全であった。3人が産まれた昭和30年代には、まだ東京にも町の電信柱など
にお産婆さんの看板がみられ、異常出産でない限り病院での出産は少数派であった。

いま東京では助産院の看板など見られない。わが家の孫2人も、”有名な”都内の総合
病院で産まれている。母親たちが一見施設の悪い産院を嫌うようになったのか、それと
も少子化で産院の経営がなりたたなくなったのかー。

平成16年の国の統計では、助産婦の数は全国で25、675人もいる。が、病院勤務が70
%、診療所勤務が16%である。昔のような”独立”したお産婆さんはいない。産科医を
”助ける”助産師”である。

産科医不足というが、助産師をもっと活用してはどんなものか。男女共同参画時代だが、
助産師は女性だけにしか許されていない。法で助産師に助産行為を許可しているのなら
男性にも助産師の門を開放したら、どうだろうか。


          "モーレツ!”時代の悲劇

2008-10-25 04:25:21 | Weblog
秋は”偲び,偲ばれる”季節である。このところ学校や職場のOB会が毎週のように
ある。昨日も半世紀ほど前勤めていた職場の会に出た。いつの間にか僕も”長老
の仲間入りした。入社してから55年だが、もう僕より先輩は二人しかいない。それ
どころか僕より後に入社した仲間が12人も鬼籍の人だ。

後期高齢者といっても”超”がつく世代ではない。学校時代や他の職場のOB会で
は、こんなに死亡率は高くない。この原因は何なのか、僕なりに考えてみたら、ど
うも夜勤当直勤務が多かったことに起因しているみたいだ。

J・F・ケネデイが暗殺された頃、僕は新聞社で外国関係の仕事をしていた。時差の
関係で僕は週に3回も当直勤務があった。夜8時に出勤、ニュースの締め切りの午
前4時まで仕事して仮眠、次の日正午までの勤務だった。週3回というのは月にす
ると12回から13回の当直である。

先日新聞に東京の病院勤務の小児科医の自殺をめぐって、東京高裁の裁判長が
”当直が増え、過重な勤務が鬱病を発症した”と仕事と自殺との因果関係について
認めた。小児科医は当時、月10回ほど当直勤務についていた。

僕は40年前の当時を思い起こした。仲間の一人は不眠症になり、当直室でいつも
睡眠薬をぼりぼりかんでいた。僕も不眠症克服のため鎌倉の禅寺にこもったことが
あった。あの時代はテレビのCMではないが、日本全体が”モーレツ”の時代で、世
界から日本人はworkholic(仕事の虫)と悪口をいわれ、逆にそれを誇りにしていた。
国の発展には寄与したが、若くして亡くなった人は不幸だ。


     李承晩は主張していた  "対馬は韓国領”

2008-10-24 06:25:18 | Weblog
産経新聞(東京版)が21日から23日までの3日間、”対馬が危ない”の見出
しで現地ルポを一面におおきく掲載している。この記事を受けて自民党議員
集団が28日に緊急会議を開く予定だという。

昨日、僕は東京都内で開かれた友人たちの「対馬街宣報告会」を聞きにいった。
会場は中高齢層を中心に百人をこえる盛況だった。報告会では、産経新聞の報
道前から、この問題に取り組む団体代表が現地で行った街宣運動を中心に対馬
の現状を浮き彫りにした。講師の一人、酒井信彦・元東大教授は現地報告のあ
と、自説にそって、対馬は”精神侵略”の段階を終え、すで第二の”人口侵略”に
入っている、と指摘した。酒井氏によれば、第三段階は”軍事侵略”である。

麻生首相は、産経新聞のルポに関連して”韓国政府が対馬を韓国領といったこと
がない”といっていたが、これは首相の勉強不足だ。祖父の吉田茂時代、韓国の
初代大統領李承晩は1952年、一方的に海洋主権宣言を行い、対馬,浮波島、竹
島は自国領だと宣言している。この主張は占領下のGHQ(連合軍司令部)によって
撤回されたがー。

麻生首相は、この事実を知らないのか、忘れてしまったのだろうか。、この一方的
宣言によって引かれた漁業ライン(李承晩ライン)の犠牲にされ、昭和40年,日韓
平和条約が締結されるまでの13年間に3929人の日本人が不法に捕まり、44人の
死者まで出している。わずか半世紀ちょっと前の歴史的事実である。ドイツには、た
とえ、不毛なわずかな土地でも相手に渡せば大事にいたるという諺があるそうだ。





          麻生総理の”ナイト・ライフ”

2008-10-23 09:53:25 | Weblog
麻生太郎首相が高級ホテルで連夜、会合を開いていると、新聞が批判している。
新聞の中には首相の”ナイト・ライフ”を表にし”はしご”の回数まで紹介している。
麻生首相は24日で就任1か月になるが、難問山積、国のかじ取り役として本当
にご苦労様だ。僕からみれば、この程度の”ナイト・ライフ”は、別に豪遊でもない。
むしろ、身体を気をつけて途中で倒れないよう願いたい。

天下の総理と僕のような市井の徒とを比べては失礼だが、数十年前、現役で仕事
をしていた時は、会社から家へ直行したことなどなかった。ところが、総理はきちん
と5回も帰宅されている。僕からみれば「優等生」である。

政治家の”ナイト・ライフ”は、いつの時代も批判の的である。かっては、永田町から
近い赤坂や新橋などの”粋な黒塀,見越しの松”の前には、黒塗りの高級車が深夜
まで並び”夜の政治”が行われていた。それからみれば、麻生総理のホテルのバー
での会食など問題ではない。庶民感覚からすると、ずれているという批判もあるが僕
らとは違う。総理の言うように安全面からみればホテルが一番だ。

政治の世界は知らないが、総理ともなれば、昼間だけでは時間はたりないのだろう。
どうしても夜にまでずれ込むのはわかる気がする。麻生総理が”飲む人”なのかどう
うかは知らないが、一つだけ”飲兵衛”だった僕の忠告です。飲んだ席での”グッドアイ
デイア”は酔いが覚めるとくだないということです。

           全治1週間で直りましたが!

2008-10-22 17:27:58 | Weblog
パソコンがやっと我が家に戻ってきました。習慣とは恐ろしいものです。毎日書き続けてきただけに、ぽっかっと生活に穴があいた気がしました。が、そのお蔭?で落ち着いて本が読めたことが収穫でした。
IT器機はやはり、老人には対応が大変です。メーカーの工場から帰ってきてからが大変でした。再設定が難しく、老夫婦でマニュアルと首きっり、それでもわからなくメーカーに電話して指示を仰ぎましたが、技術用語とマニュアル言語が理解できず、ご迷惑をかけました。
恥ずかしいのは、ブログのIDを忘れてしまったことです。仕方がなく新しいIDをつくり新ブログを立ち上げました。そしてコメントを頂いた方に断りまでしました。
ところが、その直後に2年前の手帳からIDが見つかりました。新IDにはkakektua(インドネシア語で後期高齢者の意)まで用意したのでしたが。
今後ともご愛顧のほどお願いいたします。