「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

″多事多幸”の新年を願って

2014-12-31 05:46:15 | Weblog
今日で2014年(平成26年)も終わり。年々思うのだが、月日の経つのの早いことだ。あっという間の一年だったが、わが家にとっては、かってない多難の年でもあった。10月から11月にかけて、夫婦そろってガンを宣告され入院した。幸い、二人とも初期に発見され大事に至らざるに済んだ。お蔭でこうして、大晦日の除夜の鐘をきき、年越しそばを共に食べ祝えそうだ。

多難であったが、一年を振り返ると、あまり想い出に残る出来事はなかった。僕はといえば入院手術以外の日々は、徒然草の吉田兼好なみに”日暮しパソコンに向かい、心に移りゆく、よしなしごとをそこはかとなく”入力発信してきた。これが”怪狂(ものぐる)欲しきものかは別問題だが、日々物忘れが激しくなってきた僕には、頭の刺激にはなっているのは事実だが―。

今年は夫婦そろっての旅行といえば、4月に南房総に住む先輩の百歳の誕生日祝いに一泊旅行に出かけただけだ。ホテルの窓からの東京湾の水平線の彼方に沈む夕陽は見事だったのが忘られない。80歳半ば近くになり、人生も終焉に近づいてきたのだろうか、僕は残照を見ながら、出来ることなら百歳の先輩のように、他人にあまり迷惑をかけず、この残照の輝きのように一生を終えたいと思った。

来年は僕の7回目の干支「羊」である。そして僕ら夫婦にとっては60年目の結婚記念日、ダイヤモンド婚式である。どちらかといえば、多難だった今年だが、来る年は”多事多幸”の年にになるよう祈って、今年の「老人タイムス」の終りにします。どうぞ皆様、よいお年を!

ズクなし 「生活不活発病」

2014-12-30 06:14:02 | Weblog
NHKラジオの早朝5時からの番組「健康ライフ」の中で「生活不活発病を防ぐために」を放送している。耳慣れない病名だが”入院したり災害などで外出の機会が減り、家にいて身体を動かさなくなり、その結果、身体の機能が低下する病気”(NHKアーカイブ)だそうだ。寝床の中で、この放送をききながら、僕はまさしく、この病気になりかかっている、のではないかと思った。

昨年12月、左膝の人工関節置換手術を終えた後、やはり運動量が少なくなっていたが、今度は大腸ガンの腹腔手術で2週間の入院である。お医者さんからは出来るだけ退院後も歩くように言われたが、どうも身体がいうことをきかない。家人からも散歩をするよう勧められているが、その気になれない。そうなると悪循環で身体全体がおかしくなってきた。まさに「生活不活発病}である。

老妻の故郷信州の方言に”ズクなし”という言葉がある。”物事に立ち向かう気力や活力がない”ことの意だが、怠け者を指す場合もある。今は厳冬でそれでなくとも外出したくない。しかし、”ズクなし”になって寝たきり老人になっては困る。一日一回、老妻から千円札一枚もらい、近くのミニスーパーへ行くことした。万歩計で測ると2千歩にすぎないが、それでも体調は良いようだ。

頭脳の”不活発病”もあるかもしれない。今年もあと一日、自分よがりのブログを書いてきたが、僕の頭の”不活発病”防止である、どうぞ病人と思っておつきあいください。

年の瀬 続出するお年寄りの焼死事故

2014-12-29 06:17:18 | Weblog
年の瀬にきて痛ましいお年寄りの焼死事故が続いている。27日には茨城県水戸市で86歳と83歳の夫婦と栃木県栃木市で83歳の男性が死亡。28日には新潟県三条市の14階建マンションで93歳と89歳の夫婦が、煙に巻き込まれ焼死している。さらに、栃木県小山市でも83歳の女性もなくなっている。

水戸、三条の事故で共通しているのは、老夫婦は息子と三人で生活で生活しながら火事当日、62歳と55歳の息子が外出して事故にあわなかったことだ。栃木の場合は、息子夫婦と同居していて、息子はいったん父親を救出したが、さらに飼い犬を探しに家へ入って犠牲になっている。国は特養老人施設の不足からか、政策として老人の在宅介護を勧めているが、相次ぐ高齢者のこういった痛ましい事故を知り、考えさせられるものがある。

僕ら老人夫婦は二人とも80歳代でともに介護1、僕は膝に人工関節を入れていて身障者の認定を受けているが、幸い、二人ともまだ、介護支援は受けていない。また同じ屋根の下に娘夫婦と孫も住んでいる。しかし、”自分たちで言うのもおかしいが、年々、齢相応になってきている。娘たちが一番心配しているのは「火の用心」である。老妻は東京品川の”竈(かまど)の神様”荒神さんから頂戴した”火の用心”のお札を壁に12枚も貼り付けている。

東京消防庁のHPによると、ここ数年管内で起きた火災による焼死者1187人のうち689人は65歳以上の高齢者である。自分ではしっかりしていると思っても歳は歳である。いっそう火の元には気をつけることにしよう。

国税の無駄遣い 「生活の党と山本太郎とそのなかまたち」

2014-12-28 06:59:06 | Weblog
小沢一郎氏の「生活の党」が先日の衆院選で惨敗し”国会議員5人以上”という政治資金規正法の適用外の政党に転落した。慌ててて無所属議員からの入党議員を探していたら、山本太郎氏が名乗りをあげ「生活の党と山本太郎とそのなかまたち」という変な名前で総務省に登録し、政党交付金を受けられるようになった。全く国税の無駄遣いである。

山本太郎氏はタレント出身で、2013年の参院選挙で東京地方区から反原発、反TPPを掲げて無所属で立候補、666,847票を獲得,第4位で当選した。しかし、議員になってからの話題といえば、天皇陛下主催の秋の園遊会で、陛下に直訴状を手渡し、場所をわきまえない行為として参院議長から厳重注意を受けたぐらいだ。

小沢一郎氏の「生活の党」は衆院では小沢氏のほかにもう1人、参院は沖縄出身の議員に、例の”やわらちゃん”こと柔道の谷亮子議員の二人、衆参合わせても議員は4人とは知らなかった。まさに”天下の秋”を知る状態だったが、一応、山本氏の入党で、政党の体裁はでき、交付金を受けられるようになった。その額はいくらかだか知らないが、当然山本氏も、その”わけまえ”を頂くことになろう。

政党交付金は、僕らの税金で総額320億円という巨額である。それが、こんな数字合わせのような「政党」に交付されるとは、まったく呆れた話である。山本氏はみずから自分のことを”永田町の野良犬”と称しているそうだが、今の日本では野良犬は保健所の取締りの対象である。それよりも、こんな男に666,847票も投じた有権者の愚が問題である。

墨で塗られ消された73年前の「マレー電撃作戦」

2014-12-27 07:05:28 | Weblog

歳末で書庫を整理していたら大東亜戦争下の国定文部省国民学校国語教科書初等科(巻八)が出てきた。この教科書は今流にいえば小学校六年生用後期のもので、国定だから当時の小学生は全員これで学んだ。その中の一項に「マライを進む」があった。”密林とゴム林が無限に続くマライ(マレーシア)にただ一筋の舗装道路が北から南に発している”-という書き出しで73年前の今頃、マレー半島をシンガポールに向けて進軍中の日本軍の奮闘ぶりを記してある。

昭和7年生まれの石原慎太郎さんは当時、国民学校6年生だったから、この教科書で勉強した。しかし、戦後すぐ進駐してきた連合軍の命令で、占領政策に反する教科書の記述はすべて抹殺するよう命じられた。学校によっては生徒に墨で消させたところもあった。以来、この「マライを進む」のような戦争に関するものは、日本の教科書から消え、日本人の記憶からも薄れていった。

日本人の八割が戦後生まれである。しかも実際に戦争を体験した世代は、このうちの何割だろうか。僕ら昭和1ケタ世代がおそらく最後の世代であろう。来年は敗戦から70年の節目の年である。当時の国語教科書には「不沈艦の最後」という題で、当時世界に冠たる英国の”不沈艦「プリンス.オブ.ウェルズ」を日本軍の航空機が襲い撃沈した模様を15ページにわたって紹介している。

世界史上初めて軍艦よりは航空機が優位であることを示した画期的なことだ。当時、「ハワイ.マレー沖海戦」という映画にもなって日本人の誰でもが知っていたが、当時の史実は教科書から抹殺されただけでない。歴史の表舞台からも消えようとしている。

Loveday Internment Camps 14 (2/2)

2014-12-26 07:30:16 | Weblog
Loveday Internment Camps 14 (2/2)

戦時中、蘭印など各地から連行された約2千人の日本人が抑留されていたオーストラリアの砂漠地帯にあったLoveday Camp。抑留者たちは昭和17年1月から7月までは、砂漠の上でテント生活をしていた。従って、この記録はそれ以後のもと思われる。抑留者の一部は、連合軍との交換協定で18年帰還したが、千人以上の方が昭和21年までこの地で生活していた。10名以上の方が、この地で亡くなっているが、オーストラリア政府によってカウラの日本人墓地に手厚く埋葬されている。

世代間対立煽る 後期高齢者医療保険料値上げ引き延し

2014-12-26 06:32:05 | Weblog
75歳以上の後期高齢者の医療保険料引き上げが1年先送りされる、と新聞に出ていた。理由は29年の参院選への影響を懸念したかららしい。どうも政府の老人福祉政策は結果的には、世代間の対立を煽るように思えてならない。破綻しかけている老人医療には、保険料の値上げは当然である。1年先送りしたからといってどうということはない。しかし、若い世代の中には、先送りに対して、政府の老人に甘い優遇策とみるに違いない。

新聞記事をよく読むと、高齢者医療全体の話ではない。高齢者総人口1519万人のうちの865万の低所得層や、家族の健保に依存している人たちなど現在税の優遇措置を受けている層だけ話だ。新聞は例によって誇張し、この層の中でも最高の9割低減者の例をあげ、優遇措置が廃止されると、年間80万円の年金生活者の月保険料370円は、一挙に3倍になる、と書いてある。確かに低所得者にとっては痛手だが、一般社会常識から言えば、3倍になってもたいした金額ではない。

高齢者保険料は二年ごとに見直しが行われ、平成26-27年度の全国平均月保険料は5、668円で、これは24-25年度の5、569円よりわずかながら値上げしている。これは年金収入、年額約200万円を基準にして割り出したものらしいが、わが家では夫婦合わせて年間約30万円支払っている。保険の性質からいって格差のあるのは仕方がない。

問題は政府が選挙を意識して、老人保険料全体の引き上げが先送りされたかのような発表することだ。制度をよく知らない老人は新聞報道を見て喜び、逆に若い世代は、政府は老人だけを優遇していると錯覚する。これでは、それでなくとも世代間対立がある世相を煽るだけである。

ランチキ騒ぎのクリスマスイブだった戦後のあの頃

2014-12-25 07:02:38 | Weblog
今日はクリスマスである。といってもキリスト教徒ではないわが家は特別な行事をするわけではない。子供も孫まで成長して家にクリスマス.ツリーを飾ることもないし、七面鳥料理を用意するわけでもない。老夫婦二人だけで、いつものように、ささやかな夕食をするだけだ。

僕が青春真っ盛りだった昭和20年代後半から30年前半までの東京のクリスマス.イブは異常な風景であった。駆け出しのサラリーマンだった僕でさえ安月給をはたいて事前に買ったパーティ券をもって盛り場のバーやキャバレーを梯子して歩いた。サンタのような三角帽子をかぶり、だてメガネをかけた酔客が街に一杯だった。そして手には家族への飲んだ贖罪なのかケーキの箱をぶらさげていた。

記録を見ると、壽屋(サントリー)が「洋酒天国」という宣伝雑誌を出したのは昭和31年で、同じころ都会では、安いトリスウィスキーを水割りやソーダで割ったハイボールをのませる”トリスバー”が出現、賑わっていた。戦争直後の密造酒まがいの”カストリ”焼酎から西欧の匂いのするウィスキーへと転換期であった。クリスマス.イブのランチキ騒ぎもその延長線であった。

当時、僕らサラリマンの間ではいつになったら、所得が欧米並みの1000ドル(当時の為替相場で3万6千円)になるかと話題になっていた、高度成長期前の貧しい時代であった。街頭テレビの力道山のプロレスに群衆が集まっていた頃だ。生活に疲れたサラリーマンは、ただただ安酒に救いを求めていたのかもしれない。しかし、昭和30年代も半ばをすぎると、所得倍増政策の効果か、庶民の生活も豊かになり、サラリーマンも家庭でイブを楽しむようになりランチキ騒ぎもなくなった。所得1000ドルを越えたのも、このころではなかっただろうか。

オーストラリアの戦時中の日本人抑留所の貴重なyouutube

2014-12-24 07:37:14 | Weblog
インドネシアの「スラウェシ情報マガジン」をネット上で発信されている脇田清之さんから戦時中オーストラリアの砂漠地帯にあったLoveday日本人抑留所の記録がyoutube(https://m.youtube.com/watch?v=cVavwbY6T8W)で見れると連絡を受けた。このyoutubeは、関西在住の和田ひとみさんが先日、ご先祖のオーストラリアのカウラにある戦時中、同地で亡くなった日本人の方々の墓地を訪れた際、現地で入手した記録をyoutubeに収めたものだそうだ。

Loveday収容所の日本側の記録は、戦時中の昭和17年1月から敗戦で帰国するまでの3年8か月、同収容所14Bキャンプに収容されていた私家本の「抑留日記」(古池三五勝)のほか、18年抑留者交換で帰国するまでの記録、「抑留日誌」(斉藤敏雄)「被抑留日誌」(小松原俊良)などがあるが、いずえも戦時下の抑制もあって、残念ながら克明には残されていない。

和田さんのyoutubeを見て驚いた。5分近くの長編でカラー。、画面にははっきりと「14Camp」と書かれた入口の門が見れる。「14Camp」には、まさに古池さんたち、多い時には、蘭印(現在のインドネシア)を初めとる各地から連行された日本人2千人が抑留されていた。youtubeは主に抑留所の監視に当たるオーストラリア兵の様子だが、抑留所のバラック建物、入口の下駄、抑留者の竹細工を作る様子、抑留者が造成した日本庭園、神社などもあり、抑留者が催した演芸会の舞台看板まである。

「14Camp」には主として単身者が収容されていたが、Tazuraには家族連れの収容所があった。その記録が当時子供だった梅村清さんによって、戦前蘭印にいた人たちの会「じゃがたら友の会」の会報に書いておられるが、オーストラリアで驚いたことの一つは、ジャワ馬にくらべて現地の馬の大きかったのをあげているが、和田さんのyoutubeをみて、収容所内をパトロールするオーストラリア軍の騎馬隊の馬に僕も驚いた。日本側にない当時の貴重な記録であるが、残念ながら関係者の大半が他界されている。