「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「深夜便」 J-POPに馴染めない世代

2016-03-31 04:58:17 | 2012・1・1
昨日早朝午前3時からNHKラジオの「深夜便」で「昭和歌年鑑 44年の流行歌」を聞いた。昭和44年は、僕にとって転職、転勤それに前年暮れの父の死もあって忘れられない年だ。それだけに懐かしく、流行した歌の一つ一つを聞いたが、中でも水前寺清子の「三百六十五日のマーチ」が、”モーレツ”のCMと共に想い出深かった。

「深夜便」は開始以来20年経ち、すっかり高齢者の間の人気番組になってきたが、昭和1ケタ世代にとっては、以前に比べてあまり面白くなくなってきた。とくに午前3時台の歌のコーナーがそうである。番組表に”J-POP"(ジャパニ―ズ.ポップス)とあると、聞かないことにしている。”J-POP"とは日本でつくられたポピューラー音楽で1990年代に、音楽の一つのジャンルとして確立されたようだ。すでに20年以上の月日が経っているのに何故か僕にはなじみがない。

先日新聞に政治家が超党派で「演歌歌謡曲を応援する国会議員の会」(会長二階俊博自民党総務会長)が設立され記事が載っていた。最近、演歌や流行歌が廃れ気味なので、これを応援しようというものらしいが、防衛関連法案などをめぐって与野党間の対立が深まっているのに”ご苦労さま”の話である。議員先生方が演歌歌謡曲を応援する裏には、多分、”J-POP"など新しい歌が理解できないからかもしれない。

昔、古い政治家の事を”浪花節”と呼んでいたが、今は”演歌”と、若い世代は呼んでいるかもしれない。”歌は世につれ、歌は世につれ”である。”J-POP"に馴染めないのは僕だけではなそうなので、一安心したが、議員先生方同様、今一つ理解できない世の中である。
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川崎二ヶ領用水の桜と家康のインフラ整備

2016-03-30 06:05:39 | 2012・1・1

昨日、川崎の多摩川堤に近い宿河原の二ヶ領用水へお花見に出かけてきた。用水に添って植えられた染井桜は約400本、満開には少し早く7分咲きだったが、陽気もようやく春らしくなりお花見を満喫できた。

この二ヶ領用水は慶長2年(1597年)川家康の命により武蔵の国稲毛領と川崎領の二ヶ領にまたがる農業用水として14年の歳月をかけて完成した。慶長2年といえば、家康が秀吉の国替えによって江戸に入城してから2年、城造りに先立って、神田上水や河川の整備などに着手したころである。多分この用水も江戸の人口の増加を見越しての新田開拓、インフラ整備の一環だったのであろう。

400年の歳月を経て用水は本来の役目を終え、すっかり都会化の波にのまれ、一部は暗渠に変った。が、戦前、昭和10年代にはまだ、このあたりは農村の面影を残しており、”歩け歩け”運動の指定コースで、僕らは下流の二子玉川から用水にそって上流の向ヶ丘まで列を作って競歩したものだった。

僕ら老夫婦は、15年前に早逝された親友の夫人と三人で用水脇に腰かけて弁当を開いた。花弁の中にはすでに散って筏となって流れていくものもある。何故か僕は用水の川面を眺めながら、”行く川の流れは絶えずして、元の水はあらず”(方丈記)を想い出し、来し方、行く末の人生の妙味に感傷的になった。



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疎遠社会の中での犯罪 少女誘拐事件

2016-03-29 05:45:06 | 2012・1・1
埼玉県朝霞市から行方不明になっていた中学3年生の少女(15)が東京.東中野で無事保護された。犯人はこの3月、千葉大学を卒業したばかりの男(23)で、少女を誘拐、監禁して2年間も連れまわしていた。事件の全容はまだはっきりしないが、誰でもが驚いたことは、2年余の間、この情報社会の中で事件が発覚されなかったことだ。

何故なのだろうか。僕は情報社会である一面、都会の疎遠化が事件の背後にあるのだと思う。犯人の男は少女を誘拐後、ほとんどの期間、通学していた千葉大学近くのマンションの一室に少女を監禁していたが、隣近所は誰も少女の存在に気がつかなかったという。男の実家は関西の池田市で、両親も祖父もいるそうだが、男は大学時代、一度も故郷に帰らず、また家族も男を訪ねに来なかったのだろうか。

男は大学の工学部で、時代の先端をゆく情報画像科でソフトウエアの開発を研究していたとのこと。さらには大学を1年間休学、米国に留学して小型飛行機の免許まで取得しているエリートである。外から見れば、何不自由なく見える学生である。それが、このような犯罪を起こすとは、心のどこかに疎遠化された社会への寂しさがあったのかもしれない。

しかし、他人事ではない。一昨年、わが家の隣に建ったアパートの住人を僕ら夫婦は見たことがない。かりに少女を誘拐して連れ込んんでいても判らない。アパートは建てた不動産会社がいっさい管理していて、誰が家主なのか判らない。住民も近所に挨拶にも来ない。個人の秘密保護の大切さは理解しているが、考えてみると、今度の少女誘拐事件は起るべきして起ったような気もする。
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焼き討ちされたジャカルタの中国大使館と「海洋衝突」

2016-03-28 06:08:48 | 2012・1・1
南シナ海のインドネシアEEZ(排他的経済水域)で違法に操業中の中国漁船をインドネシアの監視船が調査しようと、自国領に曳航しようとしたところ、体当たりされたという。同水域では、ここ数年同じような事故が起きており、インドネシアは中国に抗議しているが、一向に解決を見ない。言葉は悪いが、インドネシアは完全に中国になめられている。

インドネシアでは東日本大震災の起きた「3.11」は別の特別な日である。”Super.Sumar"(3月11日大統領文書)といって、1966年3月11日、当時の大統領スカルノが、政治混乱の責任をとって、スハルト戦略軍司令官に大統領全権限を委譲した日で、この名を取った大学まである。もう半世紀も前の出来事だが、新聞社の特派員として当時ジャカルタにいた僕は、連日の学生デモの中で中国大使館が焼き討ちされたのを目撃取材している。

政治混乱の原因は前年の9月30日起きた共産党によるクーデーター未遂事件で、その背後には中国があるとして、政権を掌握したスハルト将軍は翌1967年、中国と断交、国内の華僑弾圧に乗り出した。以来、インドネシアでは1990年、国交が回復するまでの23年間、華僑は現地名に改名を迫られたり、中国語の新聞も発行を禁止された。難を怖れて中国に帰国した華僑も多かった。

しかし、1998年スハルト退陣後のインドネシアと中国はまるで”蜜月”状態で、かっては年中行事であった国内の華僑街焼き討ちは影をひそめた。それどころか、中国企業のインドネシア進出が目立ち、昨年は高速鉄道プロジェクトまで中国が落札した。インドネシアにとって中国との間の”蜜月がよいのがどうか。過去の歴史を見ると、両国関係は約30年ごとに問題が起き、ついたり離れたりしている。
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老後の生活 ”人生想定外40歳代からの備え”

2016-03-27 06:27:05 | 2012・1・1
産経新聞が連載中の「にっぽん再構築」高齢者をいかせ⑤(首都圏版3月26日付3面)の見出しに”人生想定外40歳代から備え”という記事があった。大手生保会社のエリート社員が”想定外”の腎臓がんに倒れ、それを契機に退社して、新しい人生を選んだ話だが、そのエリート社員の言葉を借りれば"(サラリーマン)は一人一人が「自分株式会社」の社長のつもりで40歳代のうちから’老後”を備えるべきだというのである。

年金(厚生)生活に入って25年、半生を振り返ってみて僕もその通りだと思う。僕がサラリーマン生活にピリオドを打ったのは50歳の時であった。当時定年は55歳であったが、勤務地の北海道で定年を迎えても将来が見えないので思い切って退職した。具体的な転職先があったわけではないが、生まれ故郷の東京には、すでに最低限度の生活が保証できるアパート収入があった。42歳で、北海道への転職が決まった際、従兄の勧めで自宅をアパートに改築していた。

明治17年生まれの父親は昭和14年、50歳で定年を迎えた。戦前は公務員には恩給制度があったが、今のような年金制度はなく、民間のサラリーマンは、退職金を貰って、それぞれに老後の生活を計画したものだ。父親は母親の勧めで、東京の郊外だった今の地に銀行から借金して借家を6軒建てた。多分、両親はこれで自分たちの老後は保証出来たと思ったに違いない。しかし、想定外の事は起るもので、16年には戦火は太平洋にも拡大、さらに悪いことは、敗戦後のインフレによる物価統制令で、抑えられた家賃では生活ができなくなってしまった。

僕が42歳でアパートを建てたのは、こういった両親の体験によるものだが、長い人生何が起こるかわからない。産経新聞の記事ではないが「自分株式会社」の社長になったつもりで、40歳代から「人生経営」に当たる気持ちは必要な気がする。僕の場合は、幸運にも帰京後も新しい仕事が見つかり65歳まで年金をもらいながら仕事ができた。
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"でっかい道” 新幹線は開通したけれど

2016-03-26 07:20:58 | 2012・1・1
待望の北海道新幹線が開通、今朝早く東京駅と新函館北斗駅をそれぞれ出発する「はやぶさ」の姿をテレビで見た。昔、足掛け10年仕事で北海道にお世話になった僕にとっては、最短4時間2分で東京と北海道の地が結ばれたのを知り感無量だ。が、意外なことに新幹線の評判は今一つのようである。一番列車こそ上り25秒、下り30秒で完売されたが、開業後4月3日までの予約は20万座席のうち5万席25パーセントの予約率だという。

先日、北海道在住のコメンテーター、頑固親父さんからのあるコメンンとの中で”札幌の人間は新幹線(北海道)など利用しない。札幌までの開通は15年先、それまでお互いに生きておられるかどうか。それまでに廃線になっているのでは”という厳しい言葉を頂戴した。僕とすれば、昔、東京まで青函連絡船に乗り、20時間近くかかっていたのが、函館までとはいえ僅かな時間で行けるのに、さぞかし道民は喜びに沸いていると思ったのだが。

北海道の地を去って40年、僕は”でっかい道 北海道”を忘れてしまっていた。新幹線が出来て東京から函館までなら日帰り出張も可能になったが、函館から道都札幌までは特急を使っても片道3時間半かかる。かりに午前中に札幌で会議があっても、新幹線経由では参加できない。北海道に住んでみなければ、”でっかい道”の広さは実感できない。昔、札幌のテレビ局に勤務していた時、東京のキー局から、遠路数時間もかかる地の事件に簡単に中継車を出せとといってきて憤慨した当時を想い出す。

新幹線の函館までの開通では経済的効果は限られているが、函館を中心にした道南の観光地が簡単に行けるようになったのは魅力である。昔、まだ元気だったころ、駒ケ岳を背にした広大な大沼ゴルフ.CCの600ヤードのロングコースで大叩きしたこと想い出した。函館の朝のイカ売りの声も旅愁があった。観光シーズンになれば新幹線も賑わうと思うが心配である。
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忘れられた”わが師の恩” 

2016-03-25 06:15:39 | 2012・1・1
戦前、東京では公立校の卒業式は3月25日と決まっていた。73年前の昭和18年3月25日(木)、僕は東京の国民学校(小学校)を卒業”六年間の蛍雪の功なり想い出の校門を後にした”(亡父の日記より)。今でも僕はクラスの仲間と一緒に「蛍の光」と「わが師の恩」を歌った卒業式をはっきりと覚えている。

「蛍の光」や「わが師の恩」が卒業式で歌われなくなったのは、いつごろからであろうか。
♯ 「蛍の光」(スコットランド民謡 明治14年 小学唱歌)
  蛍の光 窓の雪 書読む月日 重ねて
  何時しか年も すぎの戸を
  開けてぞ今朝は別れ行く
♯ 「わが師の恩」(米国の歌”song for close school"明治17年小学唱歌)
  仰げば尊し わが師の恩 教えの庭には早やいく年月
  思えばいとし この歳月 今こそ別れめ いざさらば

ウィキペディアによると、卒業式でこの二つの歌が嫌われるようになったのは歌詞が文語調で理解しにくいこととか”身を立て名をあげ”が民主主義に反するとかを理由づけしているが、やはり、僕は戦後の一時期、君が代が学校教育の中で敬遠された、あの変な流れの一環のように思われるが、どうだろうか。

今、学校では「卒業ソング」として「旅たちの日」や「贈る言葉」が歌われているようだが、子供たちが、その歌に過ぎし学園生活に想いを馳せ歌うのならそれで好い。野暮なことは言わないが、明治、大正、昭和に生を受け、”蛍の光、窓の雪”で象徴される貧しい学校生活を送った世代にとっては寂しい限りだ。確かめたわけではないが、台湾の学校の中には今でも「仰げば尊し」が卒業で式で歌われているそうである。
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"共産党は破防法対象” 64年前の火炎瓶の記憶

2016-03-24 05:50:57 | 2012・1・1
”共産党は破防法対象”(産経新聞)”共産暴力革命のままと認識”(読売新聞)-時計の針を半世紀以上逆戻りさせたような錯覚を呼ぶ活字に驚いた。これは、かの北海道大地の代表、鈴木宗男氏の長女貴子氏(衆院無所属議員)が政府に提出した質問書に対する答弁書で、3月22日の閣議で了承されている政府見解だ。

遠い過去で、はっきりした期日は忘れたが、サンフランシスコ平和条約が締結された昭和27年の春頃のような気がする。僕は大学からの帰途、乗換駅の国鉄(JR)渋谷駅前で、日本共産党を名乗る集団が火炎瓶を投げ大騒ぎしているのに遭遇した。ハチ公像が駅のすぐ前にあり、青山方面からの都電がガードを左折して駅まで回り込んでいた時代だ。集まった群衆の投げた火炎瓶が暮れかかった夜空を真赤に染めていた。

暴力主義的破壊活動を行う危険性のある団体の規制を目的に「破壊活動防止法」が施行されたのは、この年の7月で、日本共産党もその取締りの対象であった。渋谷駅前の火炎瓶騒動を見て、当時、ノンポリ学生だった僕は、破防法は当然な措置だと思ったが、世論も同じで10月にあった総選挙では共産党は全員落選している。

政府が何故、この時期に鈴木議員の質問に答え”共産党は破防法対象”を再確認したのか判らない。変な勘ぐりをすれば、夏の参院選挙を控えて、野党が共産党とまで組んで”連合”して当たろうとしているのに対する策略かもしれない。”暴力革命”など幸い、今の日本ではありえないが、パリやブリュセルみたいなテロもある。おさおさ警備だけは怠らずにだ。
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「暴走老人」 "一番タチの悪い世代”

2016-03-23 06:01:34 | 2012・1・1
兵庫県加古川市の路上でタバコのポイ捨てをした75歳の老人に対して小学1年の子供たちが注意したところ首を絞めらるなどの暴行を受けて捕まった。一体全体、この国はどうなっているのだろうか。本来は教える立場の老人が、逆に孫より若い子供たちから注意され逆切れしている。75歳といえば、僕と同じ後期高齢者だが、とても考えられないことだ。

ちょっと旧聞だが先日、民主党内閣時防衛大臣をしていた北沢俊美氏が、国会質問の中で”戦前生まれ、終戦時小学校低学年”と自分の世代を紹介したら、自民党の若い議員から”一番タチの悪い世代だ”と野次られたという。民主党の指導者層には小沢一郎氏など同年齢層が多いが、その一人江田五月、元参院議長は、よほど、この野次が頭にきたらしく、自分のHPの中で世代擁護論を展開してる。

加古川市の”暴走老人”は、北沢、江田両氏と同じく戦前生まれだが、戦前の教育は受けていない。戦前の教育勅語や修身教育が僕ら昭和1ケタ世代の人格形成にどこまで影響しているのかは判らない。しかし、加古川”暴走老人”のようなことはしない。同じ後期高齢者に属していても違う。

この世代のうち、昭和16年12月の大東亜戦争勃発後に生まれた世代をとくに”全共闘世代”と呼ぶこともある。最近、何か問題が起きると国会前で騒ぐ連中の中には、明らかに白髪禿頭のこの世代と思われる”老人”がいる。自民党の若手議員の目から見れば、北沢、江田議員も同じように”一番タチの悪い世代”に映るのかもしれない。僕ら1ケタ老人から見れば、マナーの悪いのは、この世代の老人である。
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新聞が週刊誌の取材力に驚いているだけでは困る!

2016-03-22 05:31:55 | 2012・1・1
産経新聞に”週刊文春スクープ連発なぜ”という記事(3月20日付け首都圏版総合面3面)が載っていた。世の中変れば変ったものだ。僕ら昭和30年代、第一線の新聞記者だった世代にとって、週刊誌など取材の競争相手ではなく、まして紙面で、その取材力を褒め称えることなどなかった。

ここ10数年、僕は自分のカネで週刊誌を買って読んだことはない。先日、床屋が混んでいて順番待ちの間に「週刊文春」と「週刊新潮」を拾い読みした。この二つが、日本を代表する週刊誌のようだが、どちらかといえば”右傾”を編集方針にしている「週刊新潮」に対して”スクープを連発している「週刊文春」の方が誌面に活気があるように僕にはみえた。

出版社系週刊誌が登場したのは、昭和30年代初めの頃で、当時まだ取材力がなかった週刊誌から僕ら若手の新聞記者に対して、内職原稿執筆の依頼があったものだ。自社の週刊誌と違って匿名で勝手なことが書けたし、何より、絶好な”飲み代”稼ぎになった。そのうちに出版社は、外部から”トップ屋”という専門の記者を見つけだし、出版社系の週刊誌が新聞社系の週刊誌を”駆逐”した。

新聞社系の週刊誌といえば、今や大学試験の合格者発表時だけ売れているようである。広告の見出しを見ると、出版社系の週刊誌と大して変わらないのだが、新聞社という看板からか、自主規制みたいなようなものが作用しているのかもしれない。特ダネやスクープがない。しかし、産経記事のように、週刊誌の取材力にただ驚いているだけでは困る。かって新聞は明治時代には社会に警鐘を鳴らす存在であった。
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