「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

    「安里屋ユンタ」 「いざ来いニミッツ マッカーサー」の時代

2012-05-08 05:46:34 | Weblog
映画監督の篠田正浩氏が「時代の証言者」という読売新聞のコラム(5月5日)の中で氏の戦争末期の頃の体験を書かれていた。篠田氏は敗戦時旧制中学3年だから僕と同じ学年である。戦争末期、氏は岐阜県各務原飛行場近くの軍需工場へ動員されて飛行機の部品を造っていたそうだが、当時工場の寮で耳にした歌に沖縄石垣島の民謡「安里屋ユンタ」があったと記されていた。実は僕も昭和20年6月、千葉県江戸川運河川口の浚渫工事に動員された時この歌を歌っている。

沖縄戦は20年3月26日の慶良間諸島への上陸に始まって6月23日まで続いている。5月の今頃は首都首里の攻防をめぐって激しい戦闘が行われていた。まだ中学3年だった僕らは遊び盛りでもあり、少し仕事の手をぬくと、監督の兵隊から”沖縄のことを思え”と怒鳴られたものだ。何故、こんな時期に「安里屋ユンタ」が流行していたのであろうか。篠田氏は沖縄の基地から各務原飛行場へ戻ったパイロットがもたらしたと書いているが、僕らが動員されていた江戸川運河の現場は広島の暁という陸軍船舶部隊の配下にあった。

夕食後の軍歌演習で僕らは「安里屋ユンタ」も歌ったが「比島決戦の歌」(作詞西条八十作曲古関裕而)という歌をよく歌った。その中の”いざ来いニミッツ,マッカ-サー 出て来りや地獄へ逆落とし”という繰り返し文句が好きで、ここの部分だけ一声高く怒鳴ったものだ。ニミッツは米国の比島方面の海軍の提督,マッカ-サーは陸軍の総司令官だった。「安里屋ユンタ」が何故戦争末期のこの時代に本土で流行したのか判らないが、この歌を聞くといつも”出てこいニミッツ マッカ-サー”の歌も同時に想い出す。