老妻におつきあいして毎朝NHKの朝の連続ドラマ「梅ちゃん先生」を見ている。加齢のせいだろう。最近はテレビドラマは全く見ないのだが、この「梅ちゃん先生」はドラマのヒロインが昭和4年2月生まれという設定、僕とほぼ同じ世代なので、ドラマの筋よりも彼女が生きてきた時代が懐かしく想い出され見ているのだがー。
昨日の画面には昭和22年10月というテロップが出ていた。焼跡が残る少女時代の梅ちゃんが住む街にリュックを背にした復員兵が帰ってきた。何年ぶりかの帰国だが、一面焼け野原で自分の家が判らない近所の人である。梅ちゃんの知らせで、バラックの家から奥さんと子供が駆けつけてきて、復員してきた夫と涙の抱擁である。この時代、日本の津々浦々で見られた光景である。
僕の大学時代の学友も昭和22年2月、ジャカルタから宇品港に復員してきている。大正9年生まれの彼は昭和16年、故郷の大分県の歩兵連隊に現役で徴兵され、戦争勃発とともにフィリッピンのリンガエン上陸作戦に従軍、さらにインドネシアのスラバヤ上陸作戦にも参加した。戦争中の大半は東チモールに駐屯していたが、軍の移動で敗戦時にはジャカルタにいた。しかし、すぐには帰国できず1年半も連合軍JSP(降伏日本軍人)として捕虜以下の扱いで使役させられた。何と6年間も兵役に服していたわけだ。
学友は帰国後、戦後の学制改革で新制高校の3年に編入、それから大学に入学してきたため9歳も違うのに僕の学友である。最近彼がまとめた「南十字星輝く空の下での戦争体験」の後記には「皆さんは世界一幸せだ。戦地に行くことはない。愛する人が、父が兄が弟が戦争に行く心配はない」と書かれている。青春時代の6年間を戦争のために、あたら犠牲にさせられた世代の実感である。
昨日の画面には昭和22年10月というテロップが出ていた。焼跡が残る少女時代の梅ちゃんが住む街にリュックを背にした復員兵が帰ってきた。何年ぶりかの帰国だが、一面焼け野原で自分の家が判らない近所の人である。梅ちゃんの知らせで、バラックの家から奥さんと子供が駆けつけてきて、復員してきた夫と涙の抱擁である。この時代、日本の津々浦々で見られた光景である。
僕の大学時代の学友も昭和22年2月、ジャカルタから宇品港に復員してきている。大正9年生まれの彼は昭和16年、故郷の大分県の歩兵連隊に現役で徴兵され、戦争勃発とともにフィリッピンのリンガエン上陸作戦に従軍、さらにインドネシアのスラバヤ上陸作戦にも参加した。戦争中の大半は東チモールに駐屯していたが、軍の移動で敗戦時にはジャカルタにいた。しかし、すぐには帰国できず1年半も連合軍JSP(降伏日本軍人)として捕虜以下の扱いで使役させられた。何と6年間も兵役に服していたわけだ。
学友は帰国後、戦後の学制改革で新制高校の3年に編入、それから大学に入学してきたため9歳も違うのに僕の学友である。最近彼がまとめた「南十字星輝く空の下での戦争体験」の後記には「皆さんは世界一幸せだ。戦地に行くことはない。愛する人が、父が兄が弟が戦争に行く心配はない」と書かれている。青春時代の6年間を戦争のために、あたら犠牲にさせられた世代の実感である。
シベリア抑留所からの帰国は昭和30年代まで続いていました。中国大陸からの復員が一番多く、数も多かったのでしょうか。僕の知人(昭和3年生まれは)は敗戦後、中国の内戦に巻き込まれ共産軍兵士にされて、やっと昭和28年になって帰国しています。ご存じだとおもいますが、童謡「里の秋」は、復員を待つ家族の気持ちを歌ったものです。捕虜でもないのに捕虜より悪い待遇で使役させられています。完全にジュネーブ協定違反ですが、敗戦国としては、何も抗議できなかったわけです。戦争の犠牲者です。