海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

福地廣昭『少年護郷隊』より1

2008-01-24 02:15:11 | 日本軍の住民虐殺
 沖縄戦の歴史歪曲が右翼勢力によって進められている。「集団自決」(強制集団死)だけでなく、いずれ日本軍による住民虐殺に関しても、歪曲や隠蔽を行なってくるだろう(すでに一部では始められているが)。それを許さないためにも、改めて沖縄戦体験者の証言を読んでおきたい。具体的な事実を持って反論することが、何よりも大事だからである。
 私自身、生まれ育った村で起こった住民虐殺について、両親や祖父母から話を聞かされてきた。私の父や祖父も日本軍に命を狙われた体験を持っている。そういう地域で起こった事件に関しては、戦争体験者からの聞き取りを早急に進めなければ、と考えている。
 沖縄戦に関しては、膨大な資料を掲載したホームページやブログがいくつもある。今さらという感もあるが、まずは私自身が考えるための資料として整理し、まとめておきたい。
 最初に福地広昭『少年護郷隊』(沖縄時事出版)より紹介したい。
(福地氏の名前の廣は編として日がつくが、ソフトにないので廣にしてあります)
今帰仁村の宮城康二氏の証言を福地氏がまとめたものである。宮城氏は昭和二年十一月の生まれ。戦争中は沖縄島北部の山岳地帯でゲリラ戦を行った第一護郷隊に召集されていた。

 〈宮城さんが村上大隊に召集されたのが昭和十九年で、謝花校で訓練を受け、多野岳の陣地掘りに配置された。
 もうすぐ戦闘に突入、百二十発の小銃弾を渡されたが結局一発も撃たなかった。米軍が上陸してからはカンメンポ三つだけ与えられての撤退で、三日間、絶食することが普通であった。宮城さんはいったん下山したが、家に着くと父に「君は来るな、名誉の戦死としておくから」と追い出された。父としては娘四人のことを心配していたからである。
 そのころMPが、頻繁に宮城さんの家にきて娘たちとも親しくしていた。ここに兵隊である宮城さんがいると、危険だと思ったらしい。自分の子に〃出ていけ〃とは冷たい仕打ちだが、家族の安全と生活のためにはやむを得なかったのかも知れない。
 宮城さんは言われるままに家を出て、再び山に身をかくした。そのころ、渡辺大尉と一緒に嘉津宇岳の下に住んでいた。渡辺大尉は部下三十人を連れて運天の特殊艇陣地から源河山に来たりしていた。彼こそが今帰仁村民五人をスパイ容疑で処刑した張本人だ。古嘉津宇岳の下の内原に根拠をおいて夜間、米軍がいなくなったころに住民地区に下りて食料強奪、住民処刑をくりかえしていた。米軍の前哨部隊は早くも四月八日には呉我海岸を突破し湧川まで進出していた。
 宇土部隊は八重岳の陣地を放棄し、四月二十二日には多野岳に移っていた。すでに今帰仁村内の各所に米軍が駐屯し、山中に非難している村民に下山をすすめ生還するように呼びかけていた。食料がきれ、病弱者、老幼者をかかえた人たちは、米兵に対する恐怖心をいだきながらも生きるため山から下りた。
 住民が米兵と接触するようなことにでもなれば、日本軍から逆にスパイの嫌疑で殺されることになる。宮城さんは、源河山で渡辺大尉と会ったとき、この住民処刑の張本人を「厳罰にしたい」と憤りをいだいていた。〉(83~85ページ)

 証言に出てくる「運天の特殊艇陣地」については、『今帰仁村史』(一九七五年七月一日発行)に「第四節 運天港を基地とした海上奇襲部隊」として次のように記されている。

 〈運天港には設営隊としての山根隊、蛟竜隊(指揮官鶴田伝大尉)、第二十七魚雷艇隊(指揮官大尉白石信也)がいた。
 蛟竜は排水量五九トン、乗組員五人、魚雷数二、連続行動日数五日間で、ちょうど小型潜水艦のようなものであった。
 蛟竜隊が沖縄に進出したのは、十九年の八月下旬であった。基地を運天におき、十一隻の蛟竜で訓練に励んでいた。その後、空襲による被害で米軍来攻時には七隻になっていた。
 …中略…
 魚雷艇の本格的な量産は十八年に入ってから行われたが、航空機の中古機械等を利用したので、機関自体の故障が多かった。したがって長さ十八メートル、排水二〇トンを標準としたが、部品の関係から多種多様の魚雷艇ができあがった。魚雷艇の主な武装は、魚雷二、一三ミリ機銃一、爆雷二であった。
 第二十七魚雷艇隊は(指揮官白石信也大尉)は、十九年八月から九月にかけて運天に進出してきた。魚雷艇一八隻隊員三六〇名であった。十月十日の空襲で十三隻失ったが、その後、補強して、米軍攻撃時には十五隻を保有していた〉(86ページ)
 
 『今帰仁村史』によれば、蛟竜隊は一九四五年三月二五日から四月五日にかけて出撃し、魚雷艇隊は三月二七日から二九日にかけて出撃している。両隊とも米艦船にいくらかの打撃を与えたようであるが、米軍の空襲によって蛟竜、魚雷艇ともに使用不能となり、四月五日から六日にかけて陸上戦闘に移行している。
 このあとほかの文献でも今帰仁村における住民虐殺をみていくが、これら海軍部隊の敗残兵による蛮行についての証言が繰り返し出てくるので、記憶にとどめておいてほしい。

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