今年の2月に沖縄で中学生の少女が米兵に連れ回され、性暴力をふるわれる事件があった。少女が携帯電話で友人に助けを求め、家族や警察が少女を捜し出して保護した。その後、米海兵隊員の二等軍曹が逮捕されたのだが、被害者と逮捕された米兵の供述には食い違いがあった。暴行(強姦)されたと被害者が訴えたのに対して、米兵はそれを否定した。しかし、少なくとも、米兵が声をかけて少女をバイクに乗せ、家に連れ込んで暴行しようとしたこと。さらに、家から逃げ出した少女を追いかけて車に連れ込み、車内でも抵抗するのを無理矢理キスしたり、体に触ったりした事実があったことは、米兵自身も認めている。
この事件は、『週刊新潮』が被害者のプライバシーを侵害する記事を書いたことで、被害者が告訴を取り下げるという事態になった。沖縄県警は取り調べの途中で米兵を釈放せざるを得なくなった。そのために事実関係で不明な点が残り、米兵は日本の法廷で裁かれることもなかった。その後、米兵は米軍の軍法会議に回され、懲役四年の実刑判決が下り、服役後の不名誉除隊も決まった。このことは本書でも(注)として、わざわざ米兵の弁明をつけて記されている(155~156ページ)。
この事件について本書では、〈第4章 少女暴行事件と沖縄の「怒り」〉という一章をもうけて論じている。座談会の時点では、軍法会議の結果は出ていなかったようだが、それでも新聞やテレビの報道をちゃんと追っていれば、加害者の米兵が軍法会議で懲役四年の実刑判決が出るだけのことをしたというのは、十分にわかり得た。にもかかわらず、小林は次のように発言している。
〈小林 ……捕まった米兵は「自分は強姦していない」と供述しているんだよね?実際はどうか分からんけど、本人は罪を認めていない。無理やり犯そうとはしたけれど、激しく抵抗したから途中でやめたという話でしょ。だとしたら、これを95年の少女暴行事件と同列に並べて、あれほどの怒りを沸騰させていいのかどうか疑問だよ。……ところが今回は逮捕された時点で犯罪者扱いしただけではなく、不起訴処分が決まってからも、まだ犯罪者として糾弾している。そして被害者が告訴を取り下げたにもかかわらず、「この少女は絶対に強姦されたのだ」と確信しているかのように語っているんだよ〉(141ページ)。
〈小林 ……でも沖縄では、何の証拠もなしに「いや、あの少女は強姦されたに決まっている。絶対に県民大会をやって抗議しなければならない」と突っ走った。それに異議を唱えて、米兵を擁護するようなことを言おうものなら、「強姦された者をさらに言葉で傷つけるのはセカンドレイプだ」という決まり文句で非難されるわけだ。これはおかしいんじゃないの?起訴されなかった以上、法的には無罪ということなのに、よくそこまで激しく糾弾できるもんだと不思議でしょうがない〉(142ページ)。
これが日頃、「反米主義者」を自称している小林の発言なのだ。〈無理やり犯そうとはしたけれど、激しく抵抗したから途中でやめたという話でしょ〉と小林は平然と言っているが、仮に強姦未遂だったとしても、それが重大な犯罪なのだという認識もなければ怒りもない。〈何の証拠もなしに〉ということで被害者の供述は無視し、「強姦はなかった」という米兵の供述を強調した上で、小林は〈起訴されなかった以上、法的には無罪〉とまで言ってのけるのだ。軍法会議で実刑四年という判決が下ったことを見ても、米兵の行った一連の行為が重大な犯罪であったことは明白なのだが、強姦の有無に問題を矮小化した上で、米兵を免罪しようとするのだから、まったく大した「反米主義者」だ。
そもそも被害者が起訴を取り下げざるを得なかったのは、前述したように『週刊新潮』の記事が被害者と家族にショックを与え、さらにプライバシーが侵害されることに怯えたからなのだが、そのことを小林は伏せている。それどころか、宮城能彦沖縄大学教授とともに、意図的に事実を歪曲し、すり替えようとしている。引用した小林の発言のあとには、以下のやりとりがある。
〈宮城 たぶん、ここで私らがどんなに気をつけて言葉を発しても、「セカンドレイプ」と言われます。今の小林さんの発言も含めてね。「お前らみたいな人間がいるからこそ、少女は強姦されたのに告訴を取り下げたのだ」と言うでしょう〉
〈小林 本当かね、それ。少女が告訴を取り下げたのは、左翼やマスコミがいきなりお祭り騒ぎを始めたからでしょう。どいつもこいつも総力を挙げてお祭り騒ぎをするから、「こんなに大袈裟な話になったら恥ずかしい」という感覚が芽生えたんじゃないの。「これじゃお嫁に行けなくなるわ」みたいな〉(142ページ)。
よくもここまで平然と嘘がつけるものだ。事前に基礎資料を徹底して読むのは当たり前という宮城のことだから、座談会の前に当然『週刊新潮』の記事も読んでいただろう。被害者が告訴を取り下げたときの報道も知っていたはずだ。その上で、起訴取り下げの理由を「お前らみたいな人間……」という発言で自分も含めて一般化し、『週刊新潮』の記事という具体的事実は押し隠している。そのあとの小林の発言も、『週刊新潮』の記事の問題を〈左翼やマスコミ〉の問題にすり替えるものだ。
『週刊新潮』の記事は、事件を契機に反基地運動が広がることを恐れた者達が、プライバシーを暴くことで被害者と家族を動揺させ、告訴取り下げに追い込んだものであり、『週刊新潮』編集部は確信犯としてあの記事を掲載したと私は見ている。小林や宮城が『週刊新潮』の記事について触れず、隠蔽とすり替えを図っているのは、彼ら自身が『週刊新潮』と基本的に同じ立場にあるからだろう。ただ、小林や宮城らがこの座談会で語っている内容は、『週刊新潮』の記事よりもさらに悪質かつ低劣なものだ。
被害者の落ち度を強調することで、あたかも被害者の側に問題があるかのように描き出し、犯罪の悪質さや加害者の責任を曖昧にしていくというのは、レイプの議論でしばしば行われることだ。本書でもあからさまにそれが行われている。しかも明白な政治目的を持ってである。宮城は自分たちの議論が「セカンドレイプ」と批判されるだろう、と予防線を張っているが、それこそ宮城が確信犯として語っていることの証明だろう。
本書で小林や宮城らがやっていることは、2月の事件を受けて3月23日に開かれた県民大会にケチをつけ、その参加者を「左翼」として叩くことだ。2月の事件は、県民大会を開くほどのものではなかったのに、沖縄の「左翼」やマスコミがことさら騒ぎ立てた。そういう構図を描き出すために、2月の事件がことさら軽いものであったかのように扱われているのだ。米軍の対応が以前に比べて「改善」されたことを強調した上で、宮城は次のように言う。
〈宮城 ……改善されてきたのは、要所要所で沖縄の世論が高まったからではあります。確かにそうです。だから、世論を高めていって基地問題を解決の方向にもっていこうという意図はわかります。でも、何度も何度も「たいへんなことが起きた。今こそ県民が一致団結して闘うときだ」とやっていたのでは、次第に誰もついてこなくなってしまいます。「狼が来たぞ!」というのは本当に狼が来たときのみ使うべきです〉(156ページ)。
〈宮城 ……しかし今回の教科書問題と暴行事件に際して開催した県民集会は、とんでもなく下手クソな作戦だったと私は思う。本当に心の底から沸き上がった怒りを見せつけるような集会というのは、そう簡単にできるものではないと思います。それなのに、あの程度のレベルの問題で何万人、何千人と集めてしまった。これは、ガス抜き以外の何ものでもないですよ。本当に闘おうと思うなら、ちゃんとその不満を沖縄県民の中に鬱積させておかないと行けない。怒りのエネルギーが溜まりに溜まったところを見計らって、「県民が怒るべきは今だ!」というタイミングでやってこそ、それが交渉の切り札になる。ところが今回は、自分たちでガス抜きをやってしまった。怒りが爆発するどころか、逆に県民にひと息つかせることにしか成らないわけですよ〉(161~162ページ)。
この言葉が沖縄大学の教員の口から発せられたものであることを改めて確認しておこう。2月に起こった米兵の暴行事件に対する宮城の認識は、〈本当に狼が来た〉のではなく、〈あの程度のレベルの問題〉と言いきるものなのだ。その前提には被害者の供述は嘘であり、加害者の供述の方が信用できるという認識がある。同時に、そこには被害者の視点から犯罪をとらえ返そうという意識や、被害者とその家族が受けた心身の苦痛に対する想像力がまったくない。何度も繰り返すが、起こったのは軍法会議で懲役四年の実刑判決が下りた事件だったのだ。
問題は事件に対する捉え方だけではない。沖縄県民の不満を鬱積させ、怒りのエネルギーが溜まったところで、タイミングよく爆発させろ、云々と口にする宮城のでたらめさ、愚劣さは目に余る。宮城の主張は、沖縄県民は米軍の事件や事故が起こっても抗議集会などせずに怒りを鬱積させ、大事件・大事故が起こるのを待って一気に爆発させろ、と言っているに等しい。それがどれだけ無責任な物言いであるかを宮城は自覚していまい。
まともな思考の持ち主なら、たとえ小さな事件・事故でも声をあげ、目に見える形で抗議をし、米軍の意識と緊張感を高めて、大事件・大事故が起こるのを未然に防止しようと考えるだろう。しかし、宮城はまったく逆なのだ。沖縄県民が沈黙すれば、当然米軍による事件・事故は多発するだろう。そうやって大事故・大事件を誘発させて怒りを一気に爆発させろ、とうそぶく宮城には、その過程で生じる被害者の苦痛など眼中にない。まるで作戦参謀にでもなったような顔で、傍観者の高見から空論をもてあそんでいるが、〈下手クソな作戦〉という言葉の裏にあるのは、大衆を手段として操作しようという傲慢な意識なのだ。
(つづく)
この事件は、『週刊新潮』が被害者のプライバシーを侵害する記事を書いたことで、被害者が告訴を取り下げるという事態になった。沖縄県警は取り調べの途中で米兵を釈放せざるを得なくなった。そのために事実関係で不明な点が残り、米兵は日本の法廷で裁かれることもなかった。その後、米兵は米軍の軍法会議に回され、懲役四年の実刑判決が下り、服役後の不名誉除隊も決まった。このことは本書でも(注)として、わざわざ米兵の弁明をつけて記されている(155~156ページ)。
この事件について本書では、〈第4章 少女暴行事件と沖縄の「怒り」〉という一章をもうけて論じている。座談会の時点では、軍法会議の結果は出ていなかったようだが、それでも新聞やテレビの報道をちゃんと追っていれば、加害者の米兵が軍法会議で懲役四年の実刑判決が出るだけのことをしたというのは、十分にわかり得た。にもかかわらず、小林は次のように発言している。
〈小林 ……捕まった米兵は「自分は強姦していない」と供述しているんだよね?実際はどうか分からんけど、本人は罪を認めていない。無理やり犯そうとはしたけれど、激しく抵抗したから途中でやめたという話でしょ。だとしたら、これを95年の少女暴行事件と同列に並べて、あれほどの怒りを沸騰させていいのかどうか疑問だよ。……ところが今回は逮捕された時点で犯罪者扱いしただけではなく、不起訴処分が決まってからも、まだ犯罪者として糾弾している。そして被害者が告訴を取り下げたにもかかわらず、「この少女は絶対に強姦されたのだ」と確信しているかのように語っているんだよ〉(141ページ)。
〈小林 ……でも沖縄では、何の証拠もなしに「いや、あの少女は強姦されたに決まっている。絶対に県民大会をやって抗議しなければならない」と突っ走った。それに異議を唱えて、米兵を擁護するようなことを言おうものなら、「強姦された者をさらに言葉で傷つけるのはセカンドレイプだ」という決まり文句で非難されるわけだ。これはおかしいんじゃないの?起訴されなかった以上、法的には無罪ということなのに、よくそこまで激しく糾弾できるもんだと不思議でしょうがない〉(142ページ)。
これが日頃、「反米主義者」を自称している小林の発言なのだ。〈無理やり犯そうとはしたけれど、激しく抵抗したから途中でやめたという話でしょ〉と小林は平然と言っているが、仮に強姦未遂だったとしても、それが重大な犯罪なのだという認識もなければ怒りもない。〈何の証拠もなしに〉ということで被害者の供述は無視し、「強姦はなかった」という米兵の供述を強調した上で、小林は〈起訴されなかった以上、法的には無罪〉とまで言ってのけるのだ。軍法会議で実刑四年という判決が下ったことを見ても、米兵の行った一連の行為が重大な犯罪であったことは明白なのだが、強姦の有無に問題を矮小化した上で、米兵を免罪しようとするのだから、まったく大した「反米主義者」だ。
そもそも被害者が起訴を取り下げざるを得なかったのは、前述したように『週刊新潮』の記事が被害者と家族にショックを与え、さらにプライバシーが侵害されることに怯えたからなのだが、そのことを小林は伏せている。それどころか、宮城能彦沖縄大学教授とともに、意図的に事実を歪曲し、すり替えようとしている。引用した小林の発言のあとには、以下のやりとりがある。
〈宮城 たぶん、ここで私らがどんなに気をつけて言葉を発しても、「セカンドレイプ」と言われます。今の小林さんの発言も含めてね。「お前らみたいな人間がいるからこそ、少女は強姦されたのに告訴を取り下げたのだ」と言うでしょう〉
〈小林 本当かね、それ。少女が告訴を取り下げたのは、左翼やマスコミがいきなりお祭り騒ぎを始めたからでしょう。どいつもこいつも総力を挙げてお祭り騒ぎをするから、「こんなに大袈裟な話になったら恥ずかしい」という感覚が芽生えたんじゃないの。「これじゃお嫁に行けなくなるわ」みたいな〉(142ページ)。
よくもここまで平然と嘘がつけるものだ。事前に基礎資料を徹底して読むのは当たり前という宮城のことだから、座談会の前に当然『週刊新潮』の記事も読んでいただろう。被害者が告訴を取り下げたときの報道も知っていたはずだ。その上で、起訴取り下げの理由を「お前らみたいな人間……」という発言で自分も含めて一般化し、『週刊新潮』の記事という具体的事実は押し隠している。そのあとの小林の発言も、『週刊新潮』の記事の問題を〈左翼やマスコミ〉の問題にすり替えるものだ。
『週刊新潮』の記事は、事件を契機に反基地運動が広がることを恐れた者達が、プライバシーを暴くことで被害者と家族を動揺させ、告訴取り下げに追い込んだものであり、『週刊新潮』編集部は確信犯としてあの記事を掲載したと私は見ている。小林や宮城が『週刊新潮』の記事について触れず、隠蔽とすり替えを図っているのは、彼ら自身が『週刊新潮』と基本的に同じ立場にあるからだろう。ただ、小林や宮城らがこの座談会で語っている内容は、『週刊新潮』の記事よりもさらに悪質かつ低劣なものだ。
被害者の落ち度を強調することで、あたかも被害者の側に問題があるかのように描き出し、犯罪の悪質さや加害者の責任を曖昧にしていくというのは、レイプの議論でしばしば行われることだ。本書でもあからさまにそれが行われている。しかも明白な政治目的を持ってである。宮城は自分たちの議論が「セカンドレイプ」と批判されるだろう、と予防線を張っているが、それこそ宮城が確信犯として語っていることの証明だろう。
本書で小林や宮城らがやっていることは、2月の事件を受けて3月23日に開かれた県民大会にケチをつけ、その参加者を「左翼」として叩くことだ。2月の事件は、県民大会を開くほどのものではなかったのに、沖縄の「左翼」やマスコミがことさら騒ぎ立てた。そういう構図を描き出すために、2月の事件がことさら軽いものであったかのように扱われているのだ。米軍の対応が以前に比べて「改善」されたことを強調した上で、宮城は次のように言う。
〈宮城 ……改善されてきたのは、要所要所で沖縄の世論が高まったからではあります。確かにそうです。だから、世論を高めていって基地問題を解決の方向にもっていこうという意図はわかります。でも、何度も何度も「たいへんなことが起きた。今こそ県民が一致団結して闘うときだ」とやっていたのでは、次第に誰もついてこなくなってしまいます。「狼が来たぞ!」というのは本当に狼が来たときのみ使うべきです〉(156ページ)。
〈宮城 ……しかし今回の教科書問題と暴行事件に際して開催した県民集会は、とんでもなく下手クソな作戦だったと私は思う。本当に心の底から沸き上がった怒りを見せつけるような集会というのは、そう簡単にできるものではないと思います。それなのに、あの程度のレベルの問題で何万人、何千人と集めてしまった。これは、ガス抜き以外の何ものでもないですよ。本当に闘おうと思うなら、ちゃんとその不満を沖縄県民の中に鬱積させておかないと行けない。怒りのエネルギーが溜まりに溜まったところを見計らって、「県民が怒るべきは今だ!」というタイミングでやってこそ、それが交渉の切り札になる。ところが今回は、自分たちでガス抜きをやってしまった。怒りが爆発するどころか、逆に県民にひと息つかせることにしか成らないわけですよ〉(161~162ページ)。
この言葉が沖縄大学の教員の口から発せられたものであることを改めて確認しておこう。2月に起こった米兵の暴行事件に対する宮城の認識は、〈本当に狼が来た〉のではなく、〈あの程度のレベルの問題〉と言いきるものなのだ。その前提には被害者の供述は嘘であり、加害者の供述の方が信用できるという認識がある。同時に、そこには被害者の視点から犯罪をとらえ返そうという意識や、被害者とその家族が受けた心身の苦痛に対する想像力がまったくない。何度も繰り返すが、起こったのは軍法会議で懲役四年の実刑判決が下りた事件だったのだ。
問題は事件に対する捉え方だけではない。沖縄県民の不満を鬱積させ、怒りのエネルギーが溜まったところで、タイミングよく爆発させろ、云々と口にする宮城のでたらめさ、愚劣さは目に余る。宮城の主張は、沖縄県民は米軍の事件や事故が起こっても抗議集会などせずに怒りを鬱積させ、大事件・大事故が起こるのを待って一気に爆発させろ、と言っているに等しい。それがどれだけ無責任な物言いであるかを宮城は自覚していまい。
まともな思考の持ち主なら、たとえ小さな事件・事故でも声をあげ、目に見える形で抗議をし、米軍の意識と緊張感を高めて、大事件・大事故が起こるのを未然に防止しようと考えるだろう。しかし、宮城はまったく逆なのだ。沖縄県民が沈黙すれば、当然米軍による事件・事故は多発するだろう。そうやって大事故・大事件を誘発させて怒りを一気に爆発させろ、とうそぶく宮城には、その過程で生じる被害者の苦痛など眼中にない。まるで作戦参謀にでもなったような顔で、傍観者の高見から空論をもてあそんでいるが、〈下手クソな作戦〉という言葉の裏にあるのは、大衆を手段として操作しようという傲慢な意識なのだ。
(つづく)