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海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

『忘れられぬ体験 第一集』より

2008-03-10 15:49:59 | 日本軍の住民虐殺
 『忘れられぬ体験 市民の戦時・戦後体験 第一集』(那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会)は、1978年に沖縄戦戦没者三十三年忌を迎えたことを機に、那覇市がとりくんだ記念事業の一つとして発刊された。当時の那覇市長の平良良松氏は、〈「全市民の手で」を目標に、一つの市民運動としてこの仕事を推し進めるため、市民代表と学識経験者により「那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会」ができ、そこを活動母体とすることになりました〉と述べている(同書4ページ)。
 本書には、那覇市の呼びかけに応えて寄せられた市民の体験記十六本が掲載されている。また、体験記の合間には資料として十五年戦争中の新聞記事も載っていて、当時の沖縄の状況がつかめるように工夫されている。
 収録された体験記の中に神谷すみ子氏の「島尻に後退して」と題した手記がある。原稿用紙にして百十三枚に及び、他の体験記に比べて飛び抜けて長い詳細な記録である。神谷氏は当時十六歳。四人姉妹の長女として、両親と家族六人、那覇で生活していた。〈昭和十九年十月十日の、那覇市の大空襲で、それこそ、裸同ようで那覇を焼け出され、親類をたよって首里での生活がはじまって〉(49ページ)からの、戦火に追われた家族の様子がつづられている。〈首里では空襲に備えて、かねてから隣組総出の毎日の作業で、西森の山すそに、コツコツと、横穴式防空壕を掘り、何十世帯も入れるような、素晴らしく大きな壕が出来上がりました〉(49ページ)という。米軍の空襲や艦砲射撃が始まると神谷氏の家族はその壕に避難する。
 昭和二十年三月になって米軍の攻撃が激しくなり、〈その頃当時の隣組長さんから「もうやがて首里は激戦地になるので若い男性以外は、全部国頭地方に疎開するように」と、軍から指令が出ているとのことでした〉という。しかし、神谷氏の家族は国頭に知人がなかったため、三月三十日の夜に首里を出て島尻に向かう。夜間の移動のため途中日本軍の高射砲陣地に迷い込んでしまい、スパイと疑われて詰問される恐怖を味わったり、隠れていた壕が爆弾投下を受け、間一髪で助かったりしながら、南へと移動していく。その過程で神谷氏は次のような光景も目にしている。

 〈何よりもまず私たちを驚かせたのは、道のあちら、こちらにたくさんの死んだ人が、ゴロゴロしていることでした。誰一人としてほうむられた人もなく無惨にも、荷物を持ったままや、肩にリュックを背おった人、さまざまでした。何よりも悲しく涙をさそったのは、子供をおぶったまま母親が死んでその背中で母の死も知らずに、無心にバタバタ、動きもがいている子供を見たときでした。手をさしのべて何とかしてあげたいと思っても何もしてやれない当時でした。道ゆく人も私をはじめ誰一人として手を差しのべてくれる人はいませんでした。どんなにかわいそうだと思っても、思っただけで、どうする事もして上げられない当時でした。
 それよりもなお私たちを驚かせたのは、その死んだ人から、もぎ取るようにして食糧などを、盗っている人を見たときの悲しさでした。でも父は「仕方ないことで戦国のならわしだ」と、言葉少なにつぶやいただけでした〉(56~57ページ)
 〈降り続いた雨で道が大分ぬかるんでいました。それに砲撃の後のくぼみが大きな水たまりになっておりました。朝が早かっただけに、トンボだけが、何か獲物をさがすようにゆっくり旋回しています。見られては大へんだと私たちは、なるべく木の影(ママ)にかくれるようにしての歩みですので、なかなか思うように進みません。時間がたつにつれ、人もだんだんと多くなってきました。中にはケガをして家族の肩を借りている者や、年よりが身よりの人とてないのか、ただ一人、防空づきんと杖だけを頼りに、それこそ足を引きづるような格好で歩いているかと思えば、両足を失った、見るも気の毒な兵隊が、泥だらけではいながら必死になって、道行く人に助けを求めているかと思えば、木の陰では数人のケガをした兵隊がもう進退きわまって、一人一人に哀願するように呼びかけておりました。しかし誰一人振り向く人もなく、みんな自分だけのために必死のようでした〉(61ページ)
 〈話によりますと南風原にあった大きな陸軍病院が解散になり、歩けぬ重傷の兵隊は、そのまま壕に残り、自害してあい果て少しでも動けるものだけが、かろうじて南部へ南部へと後退しているとのことでした。真白いはずの包帯が汗と泥にまみれて、どす黒く汚れていましたが、それどころの問題じゃなく起きては転び、転んでは起きしての必死にもがき苦しんでいる兵隊たちを見ますと、無残というよりも先に、あすは我が身にと思うと、背すじが寒くなる思いでした〉(61ページ)

 進撃する米軍に追われて、首里を放棄した兵隊も住民も沖縄島の南端へと追いつめられていく。神谷氏の体験記には、逃避行の過程で体験したことや目にしたことが詳細に書かれている。その中に、日本兵によって殺された赤ん坊の話がある。神谷氏の家族が隠れていた壕に、慶留間さんと亀甲さんという二つの家族があとから入ってきた。その二家族が「真壁の千人壕」にいたときに起こったこととして、家族から聞いた話を書きとどめている。
 慶留間さんというのは四十歳前後の男性で、二人の娘を連れて壕に逃げ込んできていた。

 〈慶留間さんは、喜屋武の自分の家を出るときまでは奥さんもそして奥さんがおぶった、もう一人の乳のみ子も合わせて五人家族だったらしいんですが、喜屋武をたって間もなく途中で奥さんは砲弾を浴びなくなったらしいんです。奇跡的にも背中におぶっていた赤ちゃんだけは無事でそれを今度は長女がおぶって真壁までやっとこさ着き、そして千人壕のお世話になったらしいんですが、乳がないため赤ちゃんが火のついたように泣いてばかりいるもんですから、いっしょに入っていた兵隊たちや民間の人が赤ちゃんの泣き声で壕がアメリカ兵に発見されたら、壕全体の人が犠牲にならなければいけないから、家族みんなしてこの壕を出ていくかさもなくば、赤ちゃんを殺すかどっちかにしてくれといわれ慶留間さん、壕を出ていけば家族全部が死ぬのは火を見るよりもあきらかだとし、かといって何も分からない無心な幼子を殺すにはどうしても出来ないしと、ずい分なやみ苦しみ、そしてためらったそうですが、乳もないことだし、おそかれ早かれ死ぬ運命の子だと、自分自身に、いい聞かせ、いっそのこと、ひと思いにと、幾度となく思ったが、しかしいざとなると、泣きつかれて無心に寝ている幼子の顔を見ると親としては、どうすることも出来なかったそうです。それを見かねてか、やにわに日本の兵隊が寝ているその子の首をぎゅっとしめたそうで……〉(75~76ページ)
 
 もう一人の亀甲さんは慶留間さんの奥さんの妹で、二二、三歳の若い女性だった。結婚後まもなく夫は出征し、その後に生まれた数ヶ月の男の子を抱いて戦火の中を逃げまわっていた。〈度重なる疲労と食糧難、そして栄養失調のためお乳がすっかり上がってしまい、出ない乳をくわえて〉赤ちゃんは壕の中で泣き続ける。水を与えると下痢を起こし、前にもまして泣きじゃくってしまった。

 〈壕にいっしょに入っている民間の人にはしかられるやら、また日本の兵隊には即刻壕を出ていくよう追い立てをくうやらで途方に暮れ、どんな事があってもこの子だけは守らなければと、どんなことがあっても手離す(ママ)まい、死ぬ時は親子もろともだと、幼な子を強く抱きしめ壕から出て行こうとするのを、いきなり、そばにいた兵隊が立ち上がったかと思うと、赤ちゃんの首を一気にしめられたそうです。ほんの一瞬のできごとだけに、どうすることも出来ず、ただぼう然と立ちつくしてしまって……気がついたときは、ぐったりしたわが子を抱きかかえたままで涙すら出なかったそうです。わが子を抱きしめたまま、何時間も何時間も動こうともせず、むしろ放心状態のままでいるのを、みんなにさとされ、やっとわれにかえり、せめて葬るのでさえも手厚く、やってあげねばと、あちら、こちら歩いたそうですが、目じるしになる壕の近くは、みんな固い岩ばかりで仕方なくあまり人の立ち寄らない小さい(クムイ)池に、慶留間さんの赤ちゃんと二人して、そっと沈めたそうです。でも親としては、そこをそのまま立ち去ることが出来ず、夜がしらじらと明け初めるころまでじっとそこにすわったままだったそうです。ましてや戦地へ行った夫の忘れ形見であるがゆえ、すんだことで帰らぬわが子とはいえ、其の悲しさ、さみしさ、そしてくやしさで、とてもたまらず、翌日、日が暮れるのを待って其の池へそっと見に行ったそうです、
 そしたら、暗い夜とはいえ、星明かりの下、はっきりと幼い二つの死体が池の表面に、ぽっくり浮いていたそうです。それを見るやいなや、若い母親はすかさず池に入り冷たく、そしてぐっしょりぬれた幼子を、しっかり抱き上げ、声を限りにわが子の名を呼び続け、抱きしめたまま泣きくづれているのを、心配して後を追いかけてきた甥子たちにさとされ、こんどはの水のない深い井戸へ葬ったそうですが、私たちの壕に来てもその事ばかり話しては、毎日涙しておりました〉(76~77ページ)

 赤ちゃんや幼い子どもたちが壕の中で泣きやまず、殺害されたり、殺害されそうになったという証言は数多い。手をかけたのは日本兵ばかりではなく、民間人もいれば、まわりの声に耐えきれず自ら手をかけた親たちもいる。そのような親たちは、戦後どのような思いを抱いて生きてきたのだろうか。あるいは、我が子を殺された親たちは。
 神谷氏の手記に出てくる亀甲さんも、1978年に我が子の三十三年忌のウワイスーコーをやったはずである。その時にも、池の中に入って抱き上げた子どもの感触は、両手にしっかりと残っていたことだろう。
 壕やガマ(洞窟)の中で殺され、あるいは病気や飢えによる衰弱で死んでいった子どもたち以外にも、神谷氏の体験記にも出てくるように、死んだ親のそばで泣いていたり、死体にすがっていた子どもを見捨てていったという証言が数多くある。赤ん坊や子ども、老人、障害を持った人たちなど、一人で生き延びることのできない者が、戦場で見捨てられるということは死を意味していた。いったいどれだけの子どもたちが壕の中で殺され、路上や山野に見捨てられて死んでいったのだろうか。
 糸満市摩文仁にある「平和の礎」には、沖縄戦全戦没者の名が刻まれているとされる。その中には「・・・・の長男」というように刻まれているのもある。一家が全滅し、戸籍も消失して、名前は分からないが、ただ短い生涯を終えた子どもがいた事実だけが伝わっているのだろう。
 米軍が記録した写真や映画には、生き延びた子どもたちの笑顔や、子どもに水や食糧を与え、手当をする米兵の姿などを撮ったものがある。それを繋ぎ合わせることによって作り上げられる作品は、戦争を生き延びたウチナンチューのたくましさや子どもたちの無邪気な明るさを感じさせることで、懐かしさや希望を与えるかもしれない。少なくとも、そういう映像は見ていて苦にならない。
 しかし、子どもたちが殺されていく様子を撮った映像はあるだろうか。あったとしてもそれが公開されることはあるだろうか。公開されたとして、私たちはどこまで正視できるだろうか。一フィート運動で作られた映画に、幼い女の子が座って全身を震わせている映像があるが、幼子のそういう姿を見ると胸が抉られるような思いがする。ハエのたかった子どもの死体の写真は、米兵に水筒から水を飲ませてもらう少女の写真と同じように見ることはできない。
 戦争においてさえ多くの人はヒューマニズムで味付けされた物語を好むだろう。だが、アメリカ軍が壕の中に爆弾を投げ込んだり、火炎放射器を噴射する映像の向こう側に、爆風で吹き飛ばされ、押し寄せる火で焼き殺された日本兵や住民、幼い子どもたちがいたのだ。黒こげになった子どもたちにもかつて笑顔を見せて暮らしていた日々があった。戦争はそれを破壊し去ったのであり、壕の闇の中で殺されていった子どもたちのことを考えずに、生き残った子どもたちの笑顔の映像を見るだけなら、いつか沖縄戦も米兵と沖縄人のヒューマンな物語に染め上げられ、戦争の本質的な残酷さは押し隠されていくだろう。
 壕やガマ(洞窟)の中で何があったのか、想像力を支えとして考え続けることを怠ってはならない。

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