ジュウジロウ・ワダとは日本人の探検家である。彼の像がアラスカ州スワードの町に建っている。スワードでの二日目は、ケナイ・フィヨルド国立公園でトレイルを歩いた。各所で雪解け水が流れ落ち、苔むした火山岩がゴロゴロした山道はなかなかに険しい。それを一時間ほど登れば、ふいに辺りが高山植物風の花畑になり、谷から吹き上げる風が冷たくなる。さらに小一時間ほど尾根道を進めば氷河を見下ろす絶景スポットへ着く。トレイルはさらに先へ続くが、筆者はそこで引き返した。筆者の他にもハイカーは多く、挨拶を交わしながらの楽しいハイキングだ。特に草むらに野ネズミが居ることを親切に教えてくれた白人メガネ女子の、その学級委員的な風貌では隠し切れないエロスが、今でも印象に残っている。人は神々しいほどの大自然の中にいても、性的である。
この旅の記録(のつづき)は以下のとおりだ。参考にしもらいたい。
①ビジター・センター
往復で4時間ほどのハイクを終えて、ビジターセンターへ戻ってきた。ビジターセンターにはケナイ・フィヨルド国立公園のジオラマが展示されている。ジオラマを見れば、盆地のように山に囲まれたお釜の中が氷で満たされており、筆者が見た“氷河”とはそれが盆地の外側に溢れ出ている場所のようだ。故に氷河は、お釜の低い部分、つまり盆地を囲む山と山の間から谷を目掛けて四方八方に広がっているそうだ。地球の気温が上昇している影響で、このあふれ出ている部分の氷の量が年々減っているのだという。
②スワードのスーパーマーケットと地中海料理
予約より一時間早いシャトルバスに乗せてもらい、スワードの町へ戻った。そして『さぁ酒を飲みに出よう』と思ったものの、外で酒を飲むと高いし、一日目のシーフードのコスパの悪さもあったので、“スワードのスーパーマーケットで、魚介の総菜を買う方が良いかも知れぬ”と思いなおした。だがスワードのダウンタウンにはスーパーマーケットが無い。そこで鉄道駅の北にあるスーパーに向けて歩いたのだ。そこには“スワード・マーケット・プレイス”と“セーフ・ウェイ”の二件のスーパーがある。だが期待したスワード・マーケットプレイスには生鮮食品がほとんど売られておらず、少々がっかり(酒類コーナーのコリアン店員は可愛かった)だったり、頼みのセーフ・ウェイですらベイエリアのそれよりも魚介が少ない有様であった。どうやらアラスカの人は、魚介を好んで食する訳ではないようだ。仕方なくダウンタウンの老舗っぽい地中海料理屋へ入ることにした。女将と思しき4頭身で、樽のようなスタイル、そして恐ろしいほどの厚化粧の白人女性からは、心なしか他のテーブルと比べて劣るサービスをされたのが気に食わなかったが、ピザの味は悪くなく、ビールをゴクゴク飲んでしまった。トレイルヘッド・ロッジングに戻ったら、トレッキングの疲れで深い眠りについた。筆者が空港や高速のすぐ傍のアパートで、鳴り続ける交通音にすっかり慣れた生活をしている所為かも知れないが、スワードの夜は、まるで“静寂の音”がするかのような静けさがある。
③ジュウジロウ・ワダ像
翌日の朝のバスでアンカレッジへ向かうことになっていた。スワードの町が名残惜しく、早朝に散歩をしてみると、水族館に隣接した芝生の広場にジュウジロウ・ワダ像があった。毛皮の防寒服に全身を包み(顔だけ出ていて可愛い)、手に犬そりの道具のようなものを持つその姿は、一見では日本人とは思えない。台座には“Iditarod Trail Pioneer”と書かれている。他に何の説明もない。しかしウィキペディアを見れば、この人物は、カワベ・パークのカワベ・ソウタロウに比べると圧倒的に情報量が多く、新田次郎によりその半生が小説化もされているようだ。16歳のときに『アシはアメリカに渡って住友になるぞな』と言い、明治24年に愛媛県を飛び出してアメリカへ密航、捕鯨船の給仕として過ごす間にアラスカの土地勘や犬ぞり技術を学び、毛皮商や石油や金鉱の発掘などで活躍したのだという。彼がスワードの町から依頼されて探検したIditarod Trailのルートは、今は世界的な犬ぞり大会のコースになっているそうだ。
“筆者と同じ年位の頃には何をしていたのかな”とふと思い、ウィキペディアの彼の年紀を追うと、“タバスコ王、エドワード・マキルヘニーと組んで鉱山開発に取り組むも、日本のスパイ説が流布され、身を隠すことを余儀なくされる。その間もカナダ北部を拠点に北極圏を犬橇で走り回る”と、スケールがまるで違う人生を歩んでいる様子があった。筆者は、今の日本にワダ氏のようなタフ・ガイはいるのだろうか・・・そういえば確かかつて早稲田大学にスーパー・フリーなワダさんがいたな・・などと、アンカレッジへ向かうバスの中で思いに耽っていた。
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