読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

鴎外最盛期の作品、「堺事件」「余興」「じいさんばあさん」「寒山拾得」

2007-12-02 12:41:03 | 本;小説一般
「堺事件」・・・・・・・・・・(53歳、1914年2月、「新小説」)
「余興」・・・・・・・・・・・(54歳1915年8月、「アルス」)
「じいさんばあさん」・・・・・(54歳、1915年9月、「新小説」)
「寒山拾得」・・・・・・・・・(55歳、1916年1月、「新小説」)


「堺事件」・・・・・・・・・・・(53歳、1914年2月、「新小説」)
堺事件は、「フランス水兵殺害の責を負って土佐藩士が切腹した事件。慶応4年2月15日(1868年3月8日)、フランス水兵20名が開国していない堺市内見学の為上陸し迷惑不遜行為に及んだことから、新政府から治安維持を任されていた土佐藩士が出動、フランス水兵が11名死亡した。フランス公使の抗議に対して、賠償金15万ドルの支払いと暴行者の処刑などすべての主張を政府が飲んだ」。

「フランス公使が20名の切腹を要求し、29名の者が現在の大阪府大阪市西区にある土佐稲荷神社で籤を引いて切腹する者を決めた。2月23日(3月16日)、堺の妙国寺でフランス水兵を射殺した土佐藩士20人の刑の執行が行われたが、藩士達は切腹の場で自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵に次々と投げつけるという凄惨さに立ち会っていたフランス軍艦長プティ・トゥアール(Petit Thouars)が途中で中止を要請し9人が助命された。橋詰愛平ら9人は土佐の渡川(四万十川)以西、入田へ配流され庄屋宇賀佑之進預けとなり、その後、明治新政府の恩赦により帰郷した。大正3年(1914年)、森鴎外は事件を題材に同名の小説を書いた」。

「フランスは『測量』をやることをちゃんと日本政府に届けたうえで海から上陸、歩いていたところを土佐藩兵に見つけられ連行されそうになったのでこれを拒否。小舟に向かって逃げたところを発砲されたそうです」。(「堺港攘夷始末」大岡昇平)

「余興」・・・・・・・・・・・・・(54歳1915年8月、「アルス」)

「同郷人の懇親会があると云うので、久し振りに柳橋の亀清(かめせい)に往った」という書き出しで始まるとても短い小編。懇親会の幹事が余興に、「浪界の泰斗」、辟邪軒秋水(へきじゃけんしゅうすい)という浪花節語りを呼んで、その浪花節を聞いて閉口したというお話です。


「じいさんばあさん」・・・(54歳、1915年9月、「新小説」)
ある事件がもとで、三十七年も離ればなれになってしまった夫婦の再会を描く短編小説。


「寒山拾得」・・・・・・・・・(55歳、1916年1月、「新小説」)
サイト「OK WAVE」に次のような質疑があります。

Q)何回も読み直しているのですがいまだしっくりくる理解にいたっておりません。どなたか解説をお願いできないでしょうか。特に寒山拾得縁起にある「実はパパアも文殊なのだが、まだ誰も拝みにこないんだよ」という表現が?です

A1)あれはですね、禅問答を小説にしたようなものです。南泉斬猫の話がありますが、ある禅寺で猫の本質について坊主たちが議論していたら、帰ってきた和尚の南泉が、問われて猫を斬ってしまった。その後高弟が帰ってきて、南泉が問うたら、草履を頭に乗せ、南泉が「お前がいれば猫を切らずに済んだものを」と言ったという、わけの分からない話です。要するに、はっきりした答えを求めようという姿勢をはぐらかすのが禅問答ですから、「寒山拾得」も、読めば読むほど意味が分からなくなるのです。

A2)『寒山拾得』を読む上で、絶対に読み落としてはならないのが、この最終節です。

-----(青空文庫から引用)------
この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればと言ってみずから進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦念め、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して言ってみると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。
-------

つまり、この作品は、この「中間人物」を描いたもの、と考えることができます。
「閭」がそれにあたります。
閭は「道」の存在を客観的に認める。そうして、「道に親密な人」を尊敬しようとします。
「道に親密な人」とは、寒山と拾得です。

豊干から寒山と拾得のことを聞いた閭は、ふたりに会いに行きます。
そうして「衣服を改め輿に乗って、台州の官舍を出た。従者が数十人ある。」というものものしい出で立ちで赴き、さらに
「袖を掻き合わせてうやうやしく礼をして、「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋、閭丘胤と申すものでございます」」
と挨拶する。

この閭の出で立ち、立ち居振る舞いは、描かれる寒山と拾得の
「一人は髪の二三寸伸びた頭を剥き出して、足には草履をはいている。今一人は木の皮で編んだ帽をかぶって、足には木履をはいている。どちらも痩せてみすぼらしい小男で、豊干のような大男ではない。」
とまったくの対照をなしています。

寒山や拾得からみれば、閭の出で立ちも、肩書きを名乗る挨拶もおかしくてならない。閭の態度こそ、鴎外の言う「盲目の尊敬」なのです。

果たして「道」というものを、客観的に認めることに意義があるのか。
「道」というのは、
「こういう人が深くはいり込むと日々の務めがすなわち道そのものになってしまう。つづめて言えばこれは皆道を求める人である。」
このようなものではないのか。

そこに入りこみもせず、尊敬することなど、まったく意味がない。
その道のはるか先にいる寒山や拾得からすれば、そのような尊敬など、おかしくてならないのです。


森鷗外(文久2年1月19日(1862年2月17日)-大正11年(1922年)7月9日)は、「明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、医学者、軍医、官僚。第二次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称されている。本名、林太郎(りんたろう)。石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京帝国大学医学部卒」。

「大学卒業後、陸軍軍医になり、官費留学生としてドイツで4年過ごした。帰国後、訳詩編『於母影』、小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』を発表し、また自ら文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、軍医総監となり、一時期創作活動から遠ざかったが、『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『雁』などを執筆」。

「乃木希典の殉死に影響されて『興津弥五右衛門の遺書』発表後は、『阿部一族』『高瀬舟』などの歴史小説、史伝『渋江抽斎』を書いた。なお、帝室博物館(現在の東京国立博物館、奈良国立博物館、京都国立博物館)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任している」。(ウィキペディア)


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