作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

スーラーの絵

2005年09月10日 | 芸術・文化

スーラーは後期印象派の画家として知られている。

印象派がなによりも捉えようとしたのは光である。丘の上で風に吹かれながら日傘をさす貴婦人に注がれる陽光のきらめく自由な美しさ、水平線の彼方から霧を透かして朝日が上るとき、海原に揺らめき反映する赤い光の美しさを画布に捉えようとした。ルノアールやモネらの印象派の画家たちは型にはまりつつあった古典派の画家たちから離れて、色彩にあふれた自由な自然を再発見し、光の変転極まりない動きと色彩を瞬間において捉えようとする。


新興のブルジョアが機械と動力を用いた工業的生産によって豊かな富と作りだし、それによって自由と快楽に満ちた個人主義の都市生活を享受しつつあるとき、伝統的な貴族社会が崩壊して、かっての宮廷画家たちの長い徒弟修業の後に習得される古典的な技巧によって確立された様式美は、時代精神には合致しなくなった。


資本が産業や工業の世界で作り出す都市での豊かな富と自由な生活は、モネやマネ、ドガたちの絵画にも見られるように、古典的な技巧から絵画を解放し、色彩という人間の感覚と不可分な光を捉えることによって、精神は自由な色彩の表現へと、さらに、具象から抽象へと進もうとする。やがてそれらはカンデンスキーらの純粋抽象へ橋かけるものである。

絵画は線と面と色彩という二次元の世界で思想や精神を表現するものである。上の「アニエールの水浴」と呼ばれているスーラの絵は、セザンヌの水浴の裸婦たちのような、三次元の立体を色彩と線と面によって抽象化を力強く進める芸術家の対象把握と自然の理念化とは少し異なり、ロマン的な感情移入を色濃く残している。

キャンバス画面は、遠景の橋によって、上下1対2に分割構成され、さらに、左上から右下へと大きく伸びる対角線によって斜めに二分割されることによって、静かな画面に動きを呼んでいる。私たちの視線は導かれるようにして、画面の中央に座っている少年へと注がれる。

川辺の芝草の上に座し、あるいは寝そべっている男たちの視線はみなそれぞれ対岸へと向かっている。ただ、中央の少年の右脇にあって、背をこちらに向けて、胸まで浸かっている金髪の少年だけ、他の人物たちとは視線の動きが逆になっている。

画面右下で、川の瀬に半身を浸からせている小年の口に手を当てるしぐさは、水平と垂直の構図から漂う静寂の中に、何らかの音の響きを感じさせる。

画布の中の男たちのそれぞれの造形は互いに自由で独立的で共通性がなく、都会生活の中の孤独と不安を感じさせる。遠く橋の向こうにたちこめる煙りは、工場の煙突から吐き出るものだろう。スーラの精神的内面はすでに現代人のものを予感している。

 

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郵政総選挙の真の争点

2005年09月10日 | 政治・経済

 

明日は総選挙の日。すでに8時を30分ほど過ぎているから、総選挙の立候補者たちも、すでに選挙活動を終えているはずである。

今回の総選挙はほとんど「郵政民営化」か「政権交代」かといった観点で論じられるが、そもそも、小泉首相が解散総選挙に踏み切らざるを得なかった経緯から考えるならば、今回の総選挙の真の争点は、自民党に巣食っている、国民全体の利益を犠牲にして一部の利益団体のためにだけ働く族議員を排除して、自民党が国民全体の利益のために働くことのできる国民政党として真に再構築できるかどうか、これが真の争点なのである。

郵政民営化についても、自民党が、国民全体の利益を考える国益本位の国民政党に改革されれば、おのずから実現できる。

今回の総選挙は、永年のあいだ一部の利益団体のために、とくに医師会や農協、銀行や一部の大企業に利益偏向して国民全体の犠牲の上に政治を行ってきた政治家や官僚たちの手から、国民全体の利益のための政治を取り戻せるかどうかの、国民の普遍的な意思に基づいて政治を統制できるようにする民主化促進のための総選挙である。

 

国民は、いまだ政府を自らの手で統制する能力を手に入れていない。族議員と官僚たちが、赤坂の料亭などで、夜な夜な酒を酌み交わしながら天下国家を牛耳る政治から脱却できるかどうか、自民党を国民政党に生まれ変わらせて、真の民主的な政府を国民ははじめて手にすることができるかどうかが今回の総選挙の真の争点なのである。

 

田中角栄の系列を引く経世会などに属する政治家が、先に橋本元首相や青木幹雄、野中広務元幹事長などが、日本歯科医師会から一億円の不明朗な政治献金を受けることによって公正な政治をゆがめてきたように、そうした旧態依然とした自民党政治をどれだけ変革できるか、これが今回の総選挙の根本的な争点である。これに失敗すれば、当然に郵政民営化も実現できない。利権政治脱却総選挙である。

 

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重陽の節句

2005年09月09日 | 日記・紀行


今日は「重陽の節句」。現在は太陽暦を使っているので、かっての中国や江戸時代の陰暦の日本とは季節の上で若干のずれがある。そのために周囲を見まわしても、まだ菊の花の面影すらない。


今日の日本がアメリカやヨーロッパの影響を強く受けているように、江戸時代には中国の影響を受けて、日本人も「重陽の節句」を祝っていた。日本では、一月七日の「七草粥」、三月三日には女の子の「桃の節句」、五月五日は男の子の「端午の節句」、七月七日の「七夕」と、これらの四つの節句は、今日でもよく記憶され、行事としても盛んである。


中国の儒学などの圧倒的な影響に反発して国学に従事した本居宣長も、この日は高い丘にのぼり、杯に菊の花を浮かべて、酒を飲み交わした。そして、仲間たちと長寿を祝い、談笑したことが記録されている。


しかし、五節句のなかでも、今日の「重陽の節句」だけはほとんど忘れかけようとしている。陽数の重なるこの日を「敬老の日」にするのが、もっともふさわしいと思うけれども、残念ながらそうではなく、そのために、五節句の中でも印象の薄い日になってしまっている。

散髪に行く予定。
台風一過、空は秋空らしくなったが、地上は残暑でまだ蒸し暑い。

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ブログの流行

2005年09月07日 | 日記・紀行

私もブログの存在を知ってから、利用するようになった。自分でホームページを作る手間に比べれば、とても便利だ。こうして日記としても使える。そのために、ノートの日記にはあまり書かなくなった。ホームページの更新もさぼりがちになる。当然にいろんな人の目に触れる機会や可能性があるから、あまりにプライベートな問題は書けない。また私のこのブログのように、社会問題などについてのメモワールの色彩が強いものは、生活の匂いのしない、面白みのない日記になってしまう。止むを得ないかも知れない。

 

テレビと自動車とインターネットが私たちの世代において、生活に変化をもたらしたもっとも象徴的な技術革新かも知れない。多くの若者にとっては、そんなものは生まれた時からあるから珍しくもない。だから彼らはそれらの価値をどれだけ自覚できるだろうか。私にとって人生の後半期になってから出てきたインターネットなどは、恐らく生涯の三分の一の期間に使えるだけである。残念といえば残念である。若くして亡くなった私の親友などは、もちろんインターネットなど知らずして逝った。生きていれば毎日やり取りできたのにと思う。

 

これからも、引き続き科学技術の進歩によって社会の変革は続く。私の父や祖父の生きた時代とは善くも悪しくもすっかり様変わりしてきている。古き善きものの多くも失われたと思う。とくに大和撫子の失われたことなど。しかしまた、その一方で、ネットやブログで、全世界と瞬時につながり、知識や情報の交換もできるようになった。 現在の政治状況なども父たちには想像もつかなかっただろう。失ったものがあれば得たものもある。

 

海外のブログの活用、利用の状況はどうのようなものだろうか。外国のブログはまだ本格的に訪れたことがないのでよく分からない。ただ文化的な伝統からか、あるいは教育の拙劣のためか日本では議論や討論になれておらず、冷静に理性的にさまざまなテーマで論議しあうブログ関係は、まだ十分に構築できてはいないように思う。

 

大学や大学院での学術論文などの製作も、諸外国と比べて質量ともに、とくに文科系では見劣りするとも聞く。恐らくそれは日本の学校教育での、あるいは家庭教育での読書教育や文章教育が貧弱なためだと思う。その結果として、豊かな言語生活を、言論活動を享受できないのだと思う。深刻な問題だと思う。

多くの少年少女たちが非行に走るのも、言論活動が十分できるように訓練教育されていないことが原因である場合が多い。そのために、言葉によって、言論によって自分の意思や欲求を他者に的確に十分に伝えられず、その結果として、自分を知らせるために暴力や非行に走ってしまう。

 

子供たちの言語能力は、子供たち自身の倫理の問題、人間関係の処理能力と深く関係している。とくに学校教育関係者は深く留意すべき点だと思う。もっと子供たちの言葉の力を育て、コミュニケーションの能力を高めて行く必要がある。青少年に対する正しい情報教育に早期から取り組み、充実させて行く必要がある。今の学校教育はこの要請にきちんと応えられているだろうか。

 

いくつかの掲示板を覗いてみても、もちろん、そこに参加する人は必ずしも専門家ではないのだから当然としても、それにしても一般市民の参加する掲示板でも、必ずしも実り豊かな議論や論争が展開されているとは思えない。その多くは犬や猫などの動物どうしの唸りあいに近いものになっている。ブログなどを見ても、深く社会的な議論を展開したものはまだ少ない。

携帯電話やテレビなどの流行で、昔のように、子供の頃から、大河小説などに読みふける家庭環境などがなくなってしまったせいかも知れない。

 

また、いまだ政治や地方行政においても情報開示が進まず、医療や銀行や農協、教育、法曹関係などの利害関係団体が日本の政治、経済、文化における効率化と発展にとって大きな障害になってきた。そのために、お隣の韓国などと比較しても、情報処理、健康医療、マスコミの芸術文化の産出力などで大きな遅れを取ってしまっている。公共機関などにはホームページの充実などさらに求めて行くべきだろう。今回の総選挙でも、インターネットを選挙活動に活用できないなどという事実に見られるように、特殊な利益団体や組織がどれだけ日本国全体の発展の障害となってきたか、また、日本の政治が、どれだけ旧態依然としたものであるかの証拠となっている。

 

それでも、ブログなどの流行で、日本国内にとどまらず、海外からも多くの知識や情報を手に入れ、一流の論文などに(ネットに行き交っている多くの言葉や情報の90パーセントは無意味なものが多いと思うけれど)触れることができるようになった。こうした環境の変化がもたらす教育や文化上の影響は大きいと思う。必ずしも教育力の不足した多くの大学などに行かずとも、ネット上の知識や議論で十分に訓練されるかも知れない。そうなれば、教養の高められた国民が、自らの力で改革に立ち上がる日は近いかも知れない。

 

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台風14号の接近

2005年09月06日 | 日記・紀行

また台風。台風14号は自転車のような速度。その接近にもかかわらず、当地では雨は降ったり止んだり、晴れ間も見える。

むしろ、東京などの方が、秋雨前線といっしょになって、集中豪雨になったらしい。ニュースによると、杉並区などでは、地下室への浸水などがひどかったらしい。

アメリカのハリケーンなどと一緒で、自然の猛威の前には人間はなすすべもない。それで、少しは謙虚になるのかというと、必ずしもそうでもないのが人間的ということなのだろうか。

参議院の廃止あるいは議員定数の削減について』の文章を書く。

私の文章は少し、難しく過ぎるようだ。特に慣れない人にとっては。ゆっくり、少しずつ読んでくれればそうでもないと思うけれども。しかし、このブログは日記が主なのだから、もっと軽い気楽なものにして行くべきかも知れない。もちろん、学術的な文章は時には正確さを期するために、堅苦しいものになる場合がある。それでも、もっとやさしい文章を書くことを自覚的に心がける必要はありそうだ。

追記

昨日の日記にコメントいただいた方は、一度にたくさん読んでいただいたようで、眼と頭をずいぶん疲れさせてしまったようです。本当にごめんなさい。何ヶ月の間に溜まった文章を一時に読もうとされたようで、しかも、どちらかと言えば堅苦しい文章ですから無理もないと思います。申し訳なく思います。

一日分の日記だけ読んでいただければよかったのに。残念です。これからは、もっとやさしく、気楽に楽しめるよう心がけて行きます。ここは日記をメインにしているのですから。堅苦しい議論は別にすればよいのかもしれません。気をつけます。

また、気が向いたらコメントしてください。京都の旅楽しんで来てください。

   

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平穏無事

2005年09月05日 | 日記・紀行

昨日の日曜日はこれといったことをしなかった。少し疲れて頭も働かない。

チャンネル桜で西尾幹二氏の郵政問題ビデオ番組を見た。西尾幹二氏は小泉首相の郵政民営化に反対である。その理由は、この改革が日本の国家の根本的な欠陥を何ら改革するものではないからである。西尾氏が改革の核心が財務省理財局にあるといっているのは正しいと思う。質量ともに公務員制度改革が日本の改革の「本丸」だというのは正しい。


小泉首相や竹中担当相の改革の趣旨というのは、財務省の役人たちは、道路公団やその他の特殊法人の公務員に無駄遣いをさせるばかりで、郵便貯金、保険に集められた国民の巨大な金融資産を有効に活用する能力がない。だから、海外も含めた民間投資会社に、アップルウッドやリーマンブラザースにこの金融資産の運用を任せようというわけである。西尾氏はその危険を主張している。確かに郵政民営化にはそうした危険、否定面はあるが、国民に与える一般的な利便性の向上という点で、その意義の方が大きいのではないか。財務省理財局の官僚の失政が犯罪的であることは認めるとしても、だからといって現段階で、小泉郵政民営化を反対するのは間違いだ。

また、海外の投資運営会社にこれらの金融資産を運用させることがそれほど避けねばならないことか、またそれが日本の国益を損ねることになるのか、むしろ、日本の利益になるのではないかという疑問がある。引き続き研究課題である。

国家財政の再建と、国家公務員制度の改革、モラルと能力に卓越した公務員の育成を含めた国民教育の改革が今後の日本の中心的な課題であることは言うまでもない。

朝晩がすっかり涼しくなった。中国やアメリカなどとの外交関係なども引き続き観察を続けて行く。

台風が接近中である。アメリカではカトリーナが大きな爪あとを残して去って行った。南部のルイジアナなどには圧倒的に黒人人口の多いことが分かる。アメリカという国は人材もピンからキリまで、日本のように平均化、均質化していないことが分かる。

イラクでは宗派間の対立が深まっているようである。メールを一件。

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夏の終わり

2005年09月04日 | 日記・紀行

 

 

すでに九月。今年の夏も終わり。アメリカではハリケーン「カタリーナ」が大きな爪あとを残して去った。イラクではシーア派の祭りの最中に、自爆テロのうわさが飛び、それにパニックを起こした多くの民衆が犠牲になった。

世界は危険に満ち満ちている。

昨日小野田寛郎さんのドキュメント番組を見る。日本人らしい日本人だと思う。もちろん、戦後の教育の結果、現代にはこのような日本人はいなくなった。

小野田寛郎さんの言うように、敗戦の泣き言を言わないことが肝心だ。毎年夏に恒例の「終戦」記念番組の多くは、敗戦の泣き言、愚痴に過ぎない。戦争について、全面的に客観的にその因果関係を分析して真実を明かにしようという番組は少ない。マスコミ関係者の、特にテレビ関係者の水準が、そして国民の教養の水準が示される。

人間は遅かれ早かれ死ぬ。

郵政民営化解散総選挙で、従来の田中角栄政治から、日本の政治が解放されつつあるのは喜ぶべきことである。田中角栄は、国家と日本人の品格を落とした元凶とでも言うべき男だった。鈴木宗男氏は、小角栄に過ぎない。こんな人間は潰してしまわなければならない。利権まみれの角栄政治を受継いだいわゆる経世会一派が自民党から駆逐されつつあるのはうれしいことである。少なくとも小泉郵政解散総選挙にはこの意義がある。

哲学的問題

弁証法的な思考では、観念と物質は切り離さない。観念は物質になり、物質は観念になる。人間の意識は物質か観念か。観念(神)が物質(宇宙)を創造するということ、観念が物質に転化することはありえないことなのか。物質や観念の本質とそれらの相互関係を研究するのも哲学の課題である。

 

 

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