晴耕雨読

晴れの日は耕し、雨の日は読む。

民主主義と文書管理

2005年06月27日 | 書評

 

最近はあまり本を読む時間がない。しかし、ビジネスマンは無い時間の中から、時間を作り出して、勉強して行くものなのだろう。

 前から、ハンチントンの『文明の衝突』と、フランシス・フクヤマの『歴史の終焉』ぐらいは読んでおかなければならないと思いながら、まだ果たせないである。情けないと思う。それらの本の表題から、これらの著作の核心ぐらいは想像はついているつもりだが。しかし、しっかり読んで書評ぐらい書いておくのは当然の仕事だろう。

 昨日は、沖縄で敗戦の慰霊祭があった。そして、戦後六〇年を経て、今年は天皇皇后両陛下が、サイパン島を訪れ、玉砕した軍人と、戦闘に巻き込まれた民間人犠牲者を慰霊される。

八月一十五日の敗戦記念日を中心とする夏の季節は、戦争を記念し思い出させる季節でもある。ただ、マスコミなどで取り上げられる「戦争の追憶」の取り上げ方は、昔から、どこまでも情緒的で「宗教的」だ。「宗教的」だと言うのは、この戦争の背景や原因について、分析し解明し、その意義と限界をきちんと説明しようとするところまで踏み込まないからである。そんな番組や催しも少ないからである。そのほとんどは、過去の戦争による苦難と災害についての情緒的な懐古にとどまっている。そして、「平和」についても、それが現実に実現されて行くためには、どんな条件が必要かという科学的な解明に向かうことなく、ただ、「平和」「平和」「平和」と念仏のように唱えていれば平和が実現すると思っている。

 敗戦記念日には、とくに、戦争の背景と原因、なぜ戦争が起きたのか、なぜ戦争を防ぎえなかったのか、なぜ敗北したのかなどについての科学的な分析と解明にこそ取り組まれるべきである。戦後の日本政府が、先の太平洋戦争について、徹底的に総括した「歴史的文書」を発表しているということも聞かない。戦後の日本国民は、まだ、先の「太平洋戦争」の総括を国民としてきちんと仕上げていないのである。多くの面で、戦前を無自覚に引きずっている。

 その社会や国民がどれだけ民主的に開明しているかは、自らの生活の歴史を、自分たちの体験したさまざまな事件について、すなわち、社会や国家や民族の歴史について、その社会や国家や地方政府が、自らの行政の軌跡をも含めて、どれだけ、客観的に正確に記録し、文書として必要十分に記録し保存しているかという、文書管理の能力と関係がある。

 こうした、文書管理があってこそ、国家や民族の歴史についての客観的な研究も可能になる。そのためには、まずその社会や国家が公正でなければならない。現在の大阪市役所のような地方政府、また、恐らく自民党政府とその「官僚」たちが従事しているような不正の存在している社会では、闇が好まれて光が嫌われ、そのために公正な文書記録が徹底されることは無い。その社会が公正であること、情報が基本的に開示された社会であることは、その社会が徹底した文書管理社会であるための前提である。闇社会のはびこっている社会では、公共の文書管理が行き届くことなどありえない。

 今、日経新聞の夕刊に「現代を歴史に刻む──アーカイブスの今」 と題された連載記事がある。それには、現代の日本社会の文書管理のあり方の貧弱さの現状を伝えてそれなりの意義があるが、なぜ、日本がとくにアメリカやヨーロッパ諸国に比較して、これほどに公共的な文書管理が貧弱なのか、また、それを改善して行くためにはどうすべきかという点についての解明には、まだ十分に踏み込めていないように思われる。

 公共における文書管理能力の充実のためには、社会の公正さについて、倫理的な性格について問題にし、また、学校での図書館教育や文章教育をを含めた、文書管理教育まで含めて論じる必要がある。とくに、社会全般における文書管理能力の貧弱さは、学校における民主主義教育の欠陥と貧しさに多いに関係があるとも思われる。

 学校は小さな社会である。あるいは、学校とは、本質的に「社会の学校」でもある。だから、学校は、生徒たち自身が社会参加して、他者と共同してどのように自分たちの共同体を運営して行くかを学ぶ場にして行かなければならない。そのためには、必要に応じてつねに会議を開き、「会議の運営を通じて事業を遂行して行く能力」に長けるように、学校では配慮され日常的に訓練されるように教育が組み立てられている必要がある。

 各学級では自分たちのクラスに起きるさまざまな問題を議題にして会議を開き、そこで生徒に「司会のやり方」、「議事の進行しかた方」、「出席者の発言のルール」、「決議のとり方」などを教えるとともに、記録係(書記)を常に用意して、会議の記録を採らせ、それを学級の文書として管理蓄積して行く教育を、少なくとも小学校レベルからはじめて行くことである。このような学校における民主主義教育と国語教育の一環としての文書管理教育の充実を通じてこそ、日本も欧米諸国に負けない「アーカイブス社会」になって行く。

 確かに、全国各地の多くのオンブズマンの日ごろの努力によって、小泉政権になってからも、行政や企業の情報開示は着実に進んでいる。それは、評価できる。しかし、大阪市民が「大阪市役所は大阪から出て行け」などと叫んでいるだけでは、世界から笑い者になるだけである。大阪市民は、大阪市の公務員たち自身に、自分たちの行政の記録を、客観的に必要にして十分な記録を、きちんと整備保存させ、いつでも誰でも閲覧できるようにして行かなければならない。菅直人厚生大臣時代の厚生省「官僚」たちのように、いいかげんな文書管理こそ腐敗の原因になる。きちんとした充実した文書管理は行政を合理化する基礎でもある。現在の大阪市長などには、文書管理の決定的な重要性についての問題意識などほとんどないようである。いや、彼のみならず、日本のほとんどの公務員にもその自覚はないように思われる。これが、日本国民の現実なのかも知れない。