作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

今日は中秋の名月

2005年09月18日 | 芸術・文化

 

今日は中秋の名月。しかし、今宵秋の夜空には月の面影はない。


中秋の名月で思い出すのは、かぐや姫のこと。かぐや姫の淋しさ。かぐや姫は、月を見ては泣いていた。翁が姫に月を眺めるなとどんなにいくら言い聞かせても、言うことを聴かない。そして、とうとう今日の八月の十五日になると、もう人目もはばからず激しく泣く。そして、姫がこの世の住人ではなく、月の都に父も母もいると言う。それでも、かぐや姫はすっかり月の世界の父母を忘れて、長年慣れ親しんだ翁、嫗との別れを悲しむばかり。

かぐや姫は竹取の翁によって、竹筒の中から発見された。それからというもの、竹取の翁は竹の節々に黄金を見つけて、見る見るうちに富んでいった。そして、この愛らしい女の子は、たった三月の間に、竹のようにすくすくと成長して立派な女性になった。翁も姫を手塩にかけて育てた。

その容貌があまりに美しかったので、世間の男は身分の高いものも低いものも、こぞってかぐや姫に求愛した。しかし、かぐや姫は並みたいていの愛情では男たちの求愛に応じようとはしない。かぐや姫に求愛する五人の貴公子たちの言動は、色と欲に溺れる男たちの真実をユーモラスに伝えている。


多くの古典作品がそうであるように、この竹取物語は子供が読んでも、老年者が読んでも、それぞれ味わいがある。

子供の時に読む竹取物語は、まるでお伽噺のように空想を膨らませることのできる楽しい童話であり、青春期にあるものには五人の男たちの愉快な恋愛譚である。また、ある程度人生の経験を積んだものには、免れがたい宿命を悲しむ人間の、有限性を自覚させられる悲しい物語にもなる。竹取物語もまた、ダイヤモンドのように多様な屈折を内部に照り返す美しい結晶体である。

中秋の空に浮かぶ月は、一年のうちでもっとも大きく白く輝く。その季節の夏から秋への移り行きの中で、また、植生が萩やフジバカマやススキなどに変化する中に、秋空に浮かぶ大きく清らかな白い月を眺めて、仏教思想などの影響を受けた古代の貴族たちが、月の世界を浄土とし、地上を穢土と認めたとしても不思議ではない。

竹取物語もそうした発想のもとに組み立てられている。後半に至ってかぐや姫を迎えにきた月の都の王と思しき人は、実はかぐや姫が犯した罪のために、この「穢なき所」に流されて来ていたことを知らせる。

多くの色好みの男たちの求愛にも難題にかこつけて拒否し、その上、この地上の最高権力である帝の面会の申し出にさえも応じようとはしない。無理やりつれて行こうとすると光になって消えてしまう。かぐや姫は結局この世の人ではないから、どんなに優れた求愛者でも、この世の最高権力者、帝でさえ自由にならない存在である。そんなかぐや姫に翁は、さかしい人情から結婚を勧め、自らの富と出世の欲とも絡んで、かぐや姫に宮仕えさえ勧めようとする。

 

しかし、やがて贖罪も終え今は月に帰るべきときになり、やがて月から姫を迎えに来ると言う。かぐや姫は自分がいなくなることを翁が悲しむことがなによりつらいのである。翁もそんなかぐや姫を失うことは死ぬよりつらいと思っている。
かぐや姫は自分がいなくなることによって、翁や嫗が嘆き悲しむことに何よりも耐えられない。かぐや姫がもっともつらいのは、姫自身が取り去られる辛さよりも、自分がいなくなって、翁や嫗が嘆き悲しむことである。

 

それを伝え聞いた帝は、少将高野を勅使に遣わし、六衛府の侍たちにかぐや姫の身辺を厳重に守らせる。何千人にも上る兵士たちがが塀や甍の上でそして、部屋の前にも中にも蟻の這い入る隙もなく防備し、女房たちもかぐや姫をしっかりと抱きかかえている。このあたりの物語の描写は簡潔で見事である。それでも、かぐや姫は知っている。どんなに厳重な防備も効き目のないことを。どんなに翁が強がって見せても、無駄であることを。

そうしているうちに、とうとう天空から人が雲に乗って地上五尺ばかりのところに立ち連なって来る。それを見た兵士たちはすっかり腰を抜かして、呆然とし、痴れ者のようになってなすすべもない。

こうした簡潔で見事な描写は仏教経典の菩薩の来臨の描写の影響も当然にあるのだろう。ヨハネ黙示録の天上の礼拝の描写も思い出させる。むしろ、竹取物語は、仏教の経典や仏教説話などの発展と見るべきなのだろう。だから、その中の王と思われる人の言葉によってはじめて、かぐや姫が何らか罪を作ったがゆえに翁のところに降されたことが告げられる。しかし、罪も償われて、かぐや姫はいよいよ月の都に戻されようとしている。


その土壇場に及んでも、翁は月の都の王に対して、探しに来たかぐや姫は別の姫だとか、病気であるとか言い張る。いよいよ幼き知性の翁は無視されて、「かく迎ふるを、翁は泣き嘆く。能はぬ事なり。早出だし奉れ」と絶対的な命令でかぐや姫は召し出される。

月の都の人には心配事も何一つなく、清らかで老い衰えることもない。月の世界は、人類が追い求めた不老不死の仙境を実現した、言わば、ユートピアの世界である。そんな世界に行くことはかぐや姫には少しも嬉しくはない。むしろ、汚き穢なき所で、老い衰える翁、嫗とそばにいたいという。
ここでは、ユートピアが否定され、色と欲と穢れに満ちた俗世間が肯定されている。人間は結局穢れなきユートピアには住めないのかもしれない。

月の都の人は「天の羽衣」と「壷に入った薬」を持ってきていた。その羽衣を着、薬を飲むと、もう人の心は失われ別人のようになると言う。かぐや姫はその事を知っているので、その前に一言帝に書き残しておこうとする。

 

ここに明かに示されているように、かぐや姫が月の世界に取り戻されるというのは、生の世界から死の世界へと移されることである。物語という形式を通じて、人間は死という絶対的な事実の前には完全に無に等しいことが知らしめられる。この死という絶対の有限を前にしては、どんな人間の嘆きも、執着も、富も色欲も、帝王の権力も、いっさいが無に等しいという絶対的な空しさが、物語という涙の教訓を通じて人間に悟らしめられるのである。

 

美しいかぐや姫を主人公とする一見メルヘンを通じて、人間は仏教的な悟りへと、断ち切れぬ富や地位への執着の断念へと導かれる。どんな人間にも絶対的に訪れる親しき人々との別れ、兄弟や両親、妻や夫との別れ、そして、なによりも自分との別れを、そして時にはかぐや姫のようなかわいい娘との別れの辛さへの心構えを、その準備を気づかないうちにさせるのである。これらの別れを前にして、人はかぐや姫のように泣かざるを得ない。

 

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