日本族インディアン国酋長の感謝と詫び状―――歴史のカリカチュア
アメリカ・インディアンも日本人も同じモンゴル人種で、気の遠くなるような遙か遠い昔に、一方は、モンゴル平原やシベリア大陸からベーリング海峡を越えて東に向かい、南北両アメリカ大陸に渡った。もう一方ではユーラシア大陸の東辺境に沿って南に降りて行った。前者がいわゆるアメリカ・インディアンたちで、後者はやがて、満州族や朝鮮人となり、さらに日本人となった。
同じインディアンでも、北アメリカに渡ったアメリカ・インディアンたちは、二百年ほど前に、西部開拓を押し進める南北ヨーロッパからの白色人種の移民たちによって、殺されたり追い払われたりした。今は狭い居留地に閉じこめられて、自閉的で退廃的な生活を過ごしているらしい。
それから約百年も経たないうちに、ヨーロッパからの白人移民たちはアメリカ人となって、北アメリカ大陸の西海岸に行き着いた。しかし、そこで彼らは行き所を失って海に、広い太平洋に出ざるを得なかった。そして、彼らがやがて辿り着いて出会ったのが、ユーラシア大陸の東の半島や島々の辺境地に住み着いていた満州族や朝鮮族、日本族のインディアンたちだった。
とりわけ日本族インディアンたちは、アメリカ・インディアンを退治するようには簡単に始末できなかった。南太平洋の島々でさんざん梃子づらせたあげくに、広島と長崎に原子爆弾を二発投下してようやく、彼らを力づくで押さえ込むことができた。
そして、マッカーサーを首領として日本列島に乗り込んできたアメリカ人たちは、彼ら日本族インディアンたちが二度と反抗することのないようにと、武器を二度と持たさせないために「平和憲法」を拝ませてやる代わりに、被害者意識で日本族インディアンに対する憎悪に凝り固まった漢族共産主義者たちから、彼らを守ってやらなければならなくなった。
アメリカ・インディアンと同様に今やテレビやサッカーなどの娯楽に夢中で、昔のサムライ精神を忘れて腰抜けになった今の日本族インディアンたちには、これからも狭い日本列島におとなしく居留させてやる代わりに、自分を守れない彼らをアメリカ人は保護してやる責務がある。
すでに、日本族インディアンがアメリカ人にやっつけられてから今年で六十五年目に入った。今年もまた日本族インディアン国首相である菅直人氏は、靖国神社にはA級戦犯たちが祭られているという理由で、参拝にも行かないそうだ。
敗戦で属国になってしまった国の酋長、菅直人氏は、やはり宗主国の意向に逆らう度胸もなく、今となってはアメリカ合衆国日本州の知事でもあるのだから、勝者であるアメリカ合衆国が六十五年前に厳かに宣言した東京裁判の判決を、唯々諾々と踏襲するのも、もはや当然といえば当然のことなのかもしれない。
A級戦犯というのは、確かアメリカ人たちが自分たちに反抗する日本族インディアンの酋長たちに被せた罪名だったはずだった。が、戦争が終わってすでに六十五年にもなるというのに、アメリカ人たちが反抗日本族インディアンたちを懲らしめるために裁判でつけたこの罪名を、今なお後生大事に守っている。
同じ日本族インディアンの酋長である菅直人氏は、七十年数年前に強大な敵に立ち向かって誇り高く戦った同胞の先輩たちを、A級戦犯と呼んで今なお何の疑問を持つことも恥じることもない。
自分たちの占領政策のこれほどの絶大な効果に、きっとアメリカ人たちは、眼から涙を流して腹の皮のよじれるくらいに笑っているに違いない。それなのに、愚かにも愚かな日本族インディアンの酋長、菅直人氏の、アメリカと全世界に対する感謝と詫び状は、六十五年度目に入った今年もまた以下のようなものであったらしい。
★敗戦65周年記念、敗戦日本族インディアンの酋長菅直人氏の感謝ならびに詫び状(別名、全国戦没者追悼式内閣総理大臣式辞 )
本日ここに、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族並びに各界代表多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を挙行するに当たり、政府を代表し、式辞を申し述べます。
終戦から六十五年が過ぎ去りました。祖国を思い、家族を案じつつ、心ならずも戦場に倒れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、異郷の地に亡くなられた三百万余の方々の無念を思うとき、悲痛の思いが尽きることなく込み上げてきます。改めて、心から御冥福をお祈りいたします。
また、最愛の肉親を失われ、決して癒されることのない悲しみを抱えながら、苦難を乗り越えてこられた御遺族の皆様のご労苦に、深く敬意を表します。
先の大戦では、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対し、多大の損害と苦痛を与えました。深く反省するとともに、犠牲となられた方々とそのご遺族に対し、謹んで哀悼の意を表します。
戦後、私達国民一人一人が努力し、また、各国・各地域との友好関係に支えられ、幾多の困難を乗り越えながら、平和国家としての途を進んできました。これからも、過去を謙虚に振り返り、悲惨な戦争の教訓を語り継いでいかなければなりません。
世界では、今なお武力による紛争が後を絶ちません。本日この式典に当たり、不戦の誓いを新たにし、戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、世界の恒久平和の確立に全力を尽くすことを改めて誓います。
戦没者の御霊の安らかならんことを、そして御遺族の皆様の御健勝をお祈りして、式辞といたします。
平成二十二年八月十五日
内閣総理大臣 菅直人
ところで、平成二十二年に棚からぼた餅で酋長になった菅直人氏の談話の前にも、とくにその馬鹿さ加減で歴史に名を残すことになったのは、ちょうど敗戦後50周年に当たる年に、たまたま日本族インディアンの酋長の地位にあった村山富市氏の酋長談話である。今年の酋長、菅直人氏の談話も、この村山富市氏の感謝ならびに詫び状を踏襲されたものであるから、この村山富市氏の談話も併せてここに記録しておくことにする。
★敗戦50周年記念、敗戦日本族インディアンの酋長村山富市氏の感謝ならびに詫び状(別名、村山内閣総理大臣談話)
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」
戦後五十年の節目に当たりまして、総理大臣としての談話を述べさせていただきます。
先の大戦が終わりを告げてから、五十年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様一人一人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。特に近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この二つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
いま、戦後五十周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
敗戦の日から五十周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
平成七年八月十五日
内閣総理大臣 村山富市
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向後百年後、二百年後の日本国民にこれらの歴代首相たちの談話の再評価に期待したい。が、しかし、すでに退嬰的で自閉的になった日本人には村山富市氏や菅直人氏らと同じように、相も変わらずの、アメリカと世界に対する「感謝と詫び状」を見直すだけの気概も主体性もすでに持ち合わせないかもしれない。
その場合には、アメリカ・インディアンと同じ運命が、哀れにも日本族インディアンたちをも襲ったことの証明にはなるだろう。歴史の非情に涙せざるを得ない。
参照
生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣
歴史のパースペクティブ ―――20世紀のインディアン
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なるほどこうした論調はネットなどを見聞きしていても今年顕著になりましたが、一種のポピュリズム的な論調ではないでしょうか。要するに、この一節自体は正しくとも、「肝心の国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ」た責任に触れられていないからです。天皇裕仁の戦争責任に関しては議論のあるところですが、軍部やその傀儡政府の「敗戦責任」とA級と呼ばれる戦犯には共通性がない訳ではありません。
将来的に歴史的に問題にするならば、むしろ植民地経営の評価の点ではないでしょうか?
また、「被害者意識で.....憎悪に凝り固まった漢族共産主義者」は、朝鮮民族文化と漢民族文化を同一にするような見解で、学術的には様々な意見もあるでしょうが、認識としては些か滑稽に思われます。
pfaelzerweinさん、コメントありがとうございました。
「一種のポピュリズム的な論調」かどうかは私が判断することではありませんが、東京裁判の成立については、その当時の国際法からいっても、その正当性について問題はあると思います。
日本の立場から見て、他方の「アメリカの戦争責任」がまったく問われていないのは、裁判の公正さを欠くものです。民事裁判でたとえれば、アメリカも日本も両者が公平に被告席に座るべきものです。政治的裁判においてはそうした「公正さ」はあり得ません。しかし、「裁判の公正さ」に根本的な疑義を挟むことは、pfaelzerweinさんをはじめ、歴代の首相が「個人な感想」を述べた終戦記念日談話にもありません。
太平洋戦争について政治的な判決文を書くつもりはありませんが、私の立場から「歴史的な検証」はこれからも行ってゆくつもりです。この論考もその小さな試みの一つに過ぎません。
それに対する批判もさまざまのレベルであると思います。が、いずれが正しいか間違っているといという悟性的な議論ではなく、私にとって問題は、より深い真理である歴史(摂理)の認識とはどういうものかです。
但し、「敗戦の責任」は戦争行為の目的の反命題である基本となる前提だと思うのですが、どうでしょうか。つまり、戦争責任が無い所で戦争行為なども存在しないでしょう。勝ち負けの無い勝負などは存在しません。その点から、当時の大日本帝国民の責任回避の弁明に頻繁に使われる、「列強に追い込まれて開戦に至った」とするのは甚だ脆弱な論理と思われます。
なるほど、戦勝の利得としての行為の一つが戦争裁判であることも自明でしょうが、卑近な例として自国民によるムッソリーニの吊るし上げが、戦勝国の裁き以上に価値があったかどうかは大変疑問です。
ついでながら、合衆国の戦争責任は、例えば英国のドレスデン絨毯爆弾問題と同じように、加害者側の国内問題であり、それが歴史的だけでなく世論として正しく解決されることは、なにも日米関係だけでなく合衆国の将来に係わっていることと思われます。
そこからも分かりますように、ご指摘の「根本的な疑義を挟むこと」自体は決して歴史学術的な課題ではなくて、現在の我々の社会の課題と認識しています。
「戦争責任」の問題ですが、本来戦争という場面で、「戦争責任」が問われるのは、「戦争の敗者」以外ではありません。
国家間の戦争においては、つねに互いに何らかの「大義」をもって戦われるのが普通です。が、その「大義」の背中にはいつも当事国の「利害」が貼り付いています。
戦争の敗者は、戦勝国側の「大義」(正義)の名の下に、その「戦争責任」(敗戦責任)が問われ、また、戦争の勝者は、勝利者の権利として敗者にその「戦争責任」を問い自らの利益(国益)を実現するのです。
したがって、戦争の当事者たちのいずれが正義なのか、と言った議論は、所詮は水掛け論の悟性的で不毛の議論に終わるだけだと思います。以前にも述べましたが、「不正義」だから負けたのではなくて、勝者だから「正義」なのです
実際の特殊な歴史の現実の前では、勝者の大義だけが「正義」となります。が、そうした特殊な歴史の累積の中から、本来の世界史における審判が現れてくると捉えます。つまり、「歴史における理性」がそこに貫徹されると考えるのです。
そこには、イエスの十字架のように、歴史的な特殊な敗北が普遍的な勝利の契機になることもありえます。負けたからこそ勝つということもあり得るわけです。
コソヴォ介入もアフガニスタン派兵も弁明として背骨に「正義」があります。しかし、そこでは軍事力を用いた紛争解決の政治的な手段の一つとしての「勝利とそこから予想される成果」こそが重要であり、後者のような例ではゆえに「勝利の無い撤退」こそが議論となります。
戦争の勝敗が世界の未来を定めるとする考え方は現在も有効かも知れませんが、一神教世界においても「正義」であるよりも「効果」が求められるところでしょう。
その意味から「先の大戦の敗者である独日の両国において、その効果が戦勝国の英米仏以上に早く表れた」と社会文化的に歴史は語るかもしれませんが、そもそも歴史が正義を語るのかどうかは甚だ疑問です。