作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

西行と頼朝 ⎯ 銀の猫

2023年01月10日 | 歴史

 

西行と頼朝 ⎯ 銀の猫

 

昨年はNHKの大河ドラマで鎌倉時代が取り上げられたようです(「鎌倉殿の十三人」)。

鎌倉といえば幕府を開いたのは源頼朝ですが、頼朝は若き頃京の都にあって、蔵人として上西門院統子に仕えていました。上西門院統子の父は鳥羽天皇、母は待賢門院藤原璋子でした。

 待賢門院   


歌人の西行は出家する前には、この待賢門院藤原璋子の兄である徳大寺実能の家人であり、北面武士として鳥羽天皇に仕えていました。そうした縁もあって若き日の歌人の西行は鳥羽天皇の后、藤原璋子への思慕を秘めた和歌も残しているようです。待賢門院が再興し、またそこで自ら落飾、出家した法金剛院は、娘の上西門院統子も相続し、そこに西行も訪れたこともあったようです。西行とも和歌を交わした待賢門院堀河の歌碑もあります。

十月はじめのころ、法金剛院のもみぢ見はべりしに、上西門院おはしますよしききて、待賢門院の御時思ひいでられて、兵衛殿の局にさしおかせ侍りし

325 もみぢ見て君が袂や時雨るらん昔の秋の色をしたひて

           (西行 山家心中集)

西行像(MOA美術館蔵)

紅葉紀行(2)待賢門院璋子——歴史 : 夕暮れのフクロウ https://cutt.ly/mweoCIzs

 

待賢門院藤原璋子の皇子でのちの崇徳天皇が起こした「保元の乱」、それに続いて起きた政権の内紛「平治の乱」を経て平清盛が天下を牛耳りますが、平氏の天下も長くは続かず、清盛が病死したのち伊豆に流されていた源頼朝が武家政権を確立して鎌倉に幕府を開くことになります。平家一族の栄華と没落を描いた『平家物語』の主題は「諸行無常」でした。

  保元の乱

 平治の乱

そんな時代の境目に生きた西行は、NHKで10年ほど前に放映された大河ドラマ『平清盛』においても、今は国宝でもある「平家納経」を奉納するため、主人公の清盛と共に厳島神社にゆく場面などに登場しています。昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』に源頼朝の関連で西行が登場したかどうかは、ドラマもよく見ていないないのでわかりませんが、西行と源頼朝との出会いは歴史的な事実のようです。

平清盛の焼き討ちにあった東大寺再建のために、重源上人から寄進を募るよう請われた西行は、藤原秀郷以来の一族である藤原秀衡を奥州に訪ねて旅に出ますが、その途次に鎌倉、鶴岡八幡宮に立ち寄り参詣します。その折り征夷大将軍となった頼朝に出会ったことが、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に記録されています。西行とも遠い縁戚の関係にあった奥州の藤原秀衡一族は、中尊寺の金堂に見られるように、領地に所有する金鉱を背景にして、頼朝からも妬まれるほどに裕福であったようです。

この時に西行が頼朝から拝領した「銀の猫」のことが一つのエピソードとして、「西行法師子供に銀猫を与ふるの図」など、後世において絵草紙や川柳などにもさまざまに取り上げられ描かれています。今年の令和五年、年賀状の画材として私が利用したのもその一つです。

          

  

西行が頼朝からもらった「銀の猫」は昨年の晩秋に初めて栂尾の高山寺に訪れたときに見た、明恵上人の愛玩していたという「狗児」という子犬の彫り物に似たものだったかもしれません。(高山寺、栂尾 - 作雨作晴 https://is.gd/bjWiw9)西行に与えたという「銀の猫」を頼朝はどのようにして手に入れたのでしょうか。


伝湛慶作。明恵が座右に置いて愛玩した遺愛の犬と伝えらる。                             ※出典  世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ https://is.gd/INckAL

 

晩年の西行はまだ若年の明恵上人とも和歌を介して顔を合わせています。頼朝は鎌倉に寺社仏閣を造営するために京都から多くの仏師、宮大工たちを招いていますから、彼らのうちの一人の手になる作品だったのかもしれません。しかし、私たちには想像のうちにしか「銀の猫」を見ることができません。

「吾妻鏡」では西行と源頼朝の出逢いの事情を次のように記しています。

「十五日己丑。二品御参詣鶴岡宮。而老僧一人徘徊鳥居辺。怪之。以景季令問名字給之処。佐藤兵衛尉憲清法師也。今号西行云云。仍奉幣以後。心静遂謁見。可談和歌事之由被仰遣。西行令申承之由。廻宮寺奉法施。二品為召彼人。早速還御。則招引営中。及御芳談。此間。就歌道并弓馬事。条条有被尋仰事。西行申云。弓馬事者。在俗之当初。憖雖伝家風。保延三年八月遁世之時。秀郷朝臣以来九代嫡家相承兵法焼失。依為罪業因。其事曾以不残留心底。皆忘却了。詠歌者。対花月動感之折節。僅作卅一字許也。全不知奥旨。然者。是彼無所欲報申云云。然而恩問不等閑之間。於弓馬事者。具以申之。即令俊兼記置其詞給。縡被専終夜云云。」

文治二(1186)年八月十五日。源頼朝公が鶴岡八幡宮を参詣された。その折り、老僧が一人鳥居のあたりを徘徊していた。これを怪しんで、梶原景季に命じて名前を問わせなさったところ、佐藤兵衛尉憲清という法師だった。今は西行と号しているとか。それで頼朝は宮に幣を奉ってから、心静かに西行に謁見して、和歌のことなど語り合いたいとの由を仰せ遣わした。西行は承ったことを申し伝えて八幡宮寺を巡ってお参りした。頼朝公は西行を招いたので、早速にお還りになった。そうして、屋敷の中に招き入れて、色々と語り合われた。この間に頼朝公は歌道や弓馬のことなどをあれこれ尋ねられた。西行が申して言うには、弓馬の道については、出家するまでの初めの間は仕方なく家風を伝えていましたものの、保延三(1137)年八月に出家してから後には俵藤太藤原秀郷朝臣以来九代にわたって嫡家として相承してきた兵法も焼いて捨てました。罪業の原因となるからです。それらのことは心の底にも残し留まることのないように、あえて皆忘れ去ってしまいました。歌を詠むことについては、花や月に対して心揺るがせらる折り節には、ただ三十一文字を作るだけのことです。深い趣については全く存じません。だから、あれこれお伝え申し上げたいようなことはありません、云々という。しかし頼朝公は感謝を込めて等閑にすることなく、あれこれお尋ねになったので、弓馬の道については詳しく申し述べられた。そこで直ちに源頼朝の右筆、筑後権守藤原俊兼に命じて西行の言葉を書き取らせになった。話はもっぱら終夜に及んだとか。


「十六日庚寅。午剋。西行上人退出。頻雖抑留。敢不拘之。二品以銀作猫。被充贈物。上人乍拝領之。於門外与放遊嬰児云云。是請重源上人約諾。東大寺料為勧進沙、奥守秀衡入道者。上人一族也。」

文治二(1186)年八月十六日庚寅。お昼頃に西行上人は頼朝の御所を退出する。しきりにお引き留められたけれどもあえて退出された。頼朝公は銀で作られた猫をもって贈り物に充てられた。西行上人はこれを拝領しながら門の外に出ると、そこに遊んでいた子供たちにその銀の猫をやってしまった。西行は東大寺の再建のための寄付金を募るよう重源上人に請われ、誓って承諾して奥州へ陸奥守藤原秀衡を訪れようとしていた。秀衡入道は西行上人の一族でもある。

 

 


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